山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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消失の墓地(煙台)

煙台人が、自分の故郷について話すと、すべてこの土地の豊富な物産、近代工業の成就(じょうじゅ)と良好な教育基盤を誇るのであった。

果物はリンゴ、ナシ、ブドウ、サクランボ、農産物は落花生、また近代軽工業の時計製造、ワイン醸造など、地元の人は得得と話し、よそ者は口をそろえ誉めた。ただしそれらのおおもとがどこであるのか、多くの人ははっきり語らず、また深く追求もしない。実際に、これらは皆西方の特にアメリカの宣教師が19世紀後半に続々と伝来したものなのである。

今回旧正月の帰郷の前に、私はいくつか欧米宣教師の特にアメリカ長老会宣教師の布教関係の書を読んだが、例えばフッシャーの『狄考文伝』「ティモシー・リチャードの中華での回想録』、プリット夫人の『昔日の瑣事』などで、読んだ後、いくつか私にふかい印象をあたえた。例えば始めに気づいたのは、中国近代最初の大学が意外にも登州、つまり今日の蓬莱県に誕生したが、まさにこれは山東で45年間布教してアメリカ長老会のカリバン・ウィルソンは創挙(そうきょ)であった。ウィルソンは1864年に登州啓養学堂を創設し、1876年に登州文会館(Tengchow Boy’s High School)と名を替え、1882年あるいは84年に大学に拡張し、英語名はThe College of Shantung (山東大学)で、近代中国大学の濫觴(らんしょう)となった。彼は1908年に病死し、芝罘毓璜頂に葬られた。

カリバン・ウィルソン(Calvin Wilson Mateer)

ウィルソンの葬礼写真

同様にアメリカ長老会の宣教師ミルズ(Charles R.Mills)、1862年に夫人を伴い登州に来て、不況のほかに、夫人と登州啓喑学館を創設し、西方の元代聾唖者教育を始めて中国へ導入した。

その学校は1898年に芝罘に移転し、今日の煙台市聾唖センター学校に成長した。ミルズのもう一つの貢献はアメリカからピーナッツの種を持ち帰り、推奨(すいしょう)して、膠東各地で広範に栽培された作物として、ピーナッツ関連製品を輸出して、外貨を獲得した。1895年に病死して、登州キリスト教墓地に埋葬された。

コルベット(Hunter Corbett)

コルベット(Hunter Corbett)はもう一つの重要な人物である。彼はペンシルベニア州のワシントン ジェファーソン大学とプリンストン神学院をそれぞれ卒業して、神学博士の学位を取った。

1863年に彼の28歳のその年に新婚の妻を伴って、上海に至り、翌年登州に来て、のち芝罘に移転し、山東で56年間の布教をした。史書には、コルベットは布教の過程でキリスト教と儒家学説の間の疎通(そつう)をはかり、信者の人格の培養を強化(きょうか)した。山東で招きに応じた入道者は3千人あまりに達した。彼は学校の設立(煙台二中の前身会文学校のほかに、牟平、棲霞、莱陽等の地で学校四十箇所余りを開港した)や、医務機関の創設(彼と夫人は有名な毓潢頂病院の創設者である)に熱心であった。このほか、黄河の水害の時期には、コルベットは積極的にアメリカで募金して、人民の苦境を解消し、山東の公私(官民)の称賛を受けた。彼の名声は高く、「洋学」に対する恨みの義和団でさえ、「外人はコルベットを殺さず、中国人は趙斗南(コルベットの弟子、牧師)を殺さずという規定が伝播している。コルベットは1920年に煙台で亡くなり、千人を数える各界名士が葬礼に出席し、死後の追悼は盛大荘重を極めた。彼も毓璜頂…の外国人墓地に葬られた。

聞くところによると毓璜頂の外人墓地はもう破壊されたが、まだいくつか墓碑が残っているそうである。毓璜頂病院で仕事をしている従妹とその主人の助けで、正月6日の午後に、みぞれの降る前のどんよりした天気の中、どうにかその墓碑残欠を見ることができた。それらは警備区病院の敷地内に散乱していた。

最初に見たのは二塊の蓋石を彷彿(ほうふつ)させる人字形で、両面に死者の姓名、生卒年月、肩書(かたがき)と賛辞であった。水で表面の泥汚れをさらうと、その一塊の表面の名は私を大いに驚かせた。Alexander Williamson 〜これは名声の高いコルベットの墓表であったのだ。

コルベットは、スコットランドの宣教師で、グラスゴー大学を卒業した。煙台開港以前の1855年に煙台へ布教に来た。


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彼は上海で同文書会を創建し、月刊『万国公報』を創業し、近代に西洋学を広めた重要な基盤であり、維新の偉人(いじん)康有為、梁啓超は皆この刊行物の影響を大変受けた。墓表には「法学博士」の肩書が見えるが、正にこれはコルベットの母校グラスゴー大学が彼の中国での成功を表彰して授与した栄誉法学博士である。嘗て彼と煙台で一緒に勤めた宣教師の李提摩太(リティモタ)(Timothy Richard)は「体格、知識と精神から見て、彼は一巨人である」という。彼の人生と成功は、多くの近代史著作に評論されるべきである。墓表の別面には英語で、概訳すると「彼の裁判長イエスが帰来したとき復活の欣喜を渇望する中に居リ、はるかな国へ渡り長久の過程ののち黄泉路(よみじ)の迷子(まいご)となった人でようやく永遠の『ローマ』へ回帰した」とこのように刻んであった。

コルベットの墓碑を見つけた時に空はもう暗かったが、碑文は概ね(おおむね)完全であった。一面は英語、もう一面は中国語で、中国語文は次の通りであった(句点は私が加えた):郭公显德,大美国名教师也。遵救主圣名,遠涉重洋,来烟台五十六载,传福音足遍山东,如巴拿巴被聖灵魂充滿,大有信心,历险阻而不顾,置生死于度外,作盐作光,济世济人,設教興學,成績昭著。施洗信徒不下三千。今牧师功圓果滿,駕返天国。其道范遺訓,永垂不朽。聖經有云:有智慧具備训众归善者,必輝光在天,明耀若星,永世弗替。

庭内にはほかにも、散らかったオベリスクや、台座、砕けた(くだける)碑石若干があったが、日は暮れて、雪片も舞い落ちて(まいおちる)、細見できなかった。

聞くところによると、毓璜頂の外国人墓地は朝鮮戦争当時に破壊された。それは両国が交戦し、反米感情が激動した時期であった。

しかし戦争は生きている人間の事情であり、戦場で我々は捕虜でさえなおさら優待するのに、どうして(戦場のない)後方でもう死んだこれらの人々を怒らせるのですか?ましてや彼らは福音と科学知識をもたらした教育を興して、病気を治療し人命を救い、民生を改善した使者なのである。当時の墓を掘り出し屍(かばね)に鞭打ち、石碑を叩き壊すような情景を想像すると、人々はこれらの人(西洋人)が生前にこの土地のもたらした種々の素晴らし事物を思い起こさなかったのだろうか。その上、我々が宣教師の作用に対する評価に相違があったとしても、この墓地は歴史歴史的実証であり、批判者でもこれを精彩ある教材として注釈できるはずであり、死体を損ねて(そこねる)遺跡を消滅させることはどうなのであろう。

2006年、私は日本の北海道大学を訪問した。その大学の創設者はアメリカの農学者クラーク博士(Dr.William Smith Clark)で、彼は授業のかたわら、ひそかにキリスト教を伝道した。彼が日本での滞在はわずか8ヶ月であったが、日本人はクラーク氏を記念して、大学キャンパスに彼の銅像を立て、大学にはその名にちなんだしたクラーク会館があり、教訓はクラークの言葉(「少年よ大志を抱け=男子は自強たるべし」英文は「Boys, be ambitious!)であり、さらに北海道大学の徽章(きしょう)もクラークの胸像である。当時私は興味深くその学校を掌握している中国法を担当する教員鈴木賢教授に「第二次世界大戦で、日米が敵対関係した時に、クラークに関するこの表記は存続したのか」と質問した。

「どうして変えなければならないのか、これは歴史である」と、鈴木教授は解かせないという表情で質問を返した。

著者 煙台 賀衛方