山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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膠澳兵営の変遷

1891年、西洋列強は中国で侵略行為が愈々(いよいよ)横行し、清政府は遂に膠澳に防衛を設置する重要性を意識し、『青島市志・政権志』の記載によれば:1891年6月、李鴻章と山東巡撫張曜は膠州湾について二日の実地調査を行い、膠州湾に水深があり港湾が広く、地形が険要であり、天然の良港であると認め、そこで連名で光緒皇帝に膠州湾での砲台建設、軍隊の駐留を奏請(そうせい)し、必要経費を山東海防中に流用(りゅうよう)した。1891年6月14日、光緒皇帝は膠州湾に防衛を設置する建議を正式に承認した。1892年秋に、登州鎮総兵章高元率いる広武前営、広武中営、崇武前営、崇武中営四営兵力、約2,000人を膠澳に移駐させた。「章高元が就任後、彼は始めに天后宮東側(今の人民会堂)に膠澳鎮守衙門(後に総兵衙門と称し、俗に老衙門と称した)を建設し、事務と居住の場所とした。後に八関山西北側(今の青島海洋大学第五校門)に崇武中営を建設、小魚山の北(今の青島海洋大学体育場)に広武中営を建設、以上の二ヶ所の兵営を「東大営」と総称した。現在の湖北路青島市公安局の場所に崇武前営を建て、西鎮小泥洼村北側(今の第五人民医院)に広武前営を建てた。同時に団島岬(みさき)に団島砲台を建設し、西鎮に西岭砲台を建設し、莱陽路8号に衙門砲台を建設した。1893年に楊家村北側(今の台東郵便局)に軍用電報局を設立し、小鮑島村(貯水山南麓)に弾薬庫を建 清膠澳総兵衙門及4個兵営分布図 清膠澳4個兵営及衙門砲台の位置図 清総兵衙門全景 広武中営 小魚山の北(今 青島海洋大学体育場址)に位置 嵩武前営旧址上に 1902年建造した警察署 図中の紅圏の地は広武前営の位置図

資料の記載によると:1914年以前にはドイツ政府の屠殺埸観城路青島肉聯廠)の西側に清駐留軍兵舎「高地営房」があるのみであった(下図参照)。1906年初、ドイツ管理当局はこの営房内に中国人と小港内の中国船隻を対象とする臨時検疫所(第五人民医院の前身)を設立した。上記の描写によると、たとえ時間的または地理的であれ、「高地営房」は「広武前営」の別の言い方である。 上図は高地営房及位置 下図は今 青島市第五人民医院

1897年、ドイツ軍が青島を占領した当初、しばらく清軍兵営の跡地を占用した。1898年から、前後して清軍兵営跡地と台東鎮、沙子口、李村、滄口など地に兵営10ヶ所余りのドイツ軍新建兵営を建設した後に、旧総兵衙門を除外して、清軍の旧4座の兵営は取り壊された。

ドイツ軍の新築兵営の内、比較的大きい3座、「イルティス兵営(今の太平山南麓)」、「ビスマルク兵営(旧清軍広武中営と崇武中営の址、現中国海洋大学校魚山校区内)」と「モルトケ兵営(今の貯水山東側)」があった。以下に簡述べする。

1897年11月、ドイツが膠澳を占領後、4か月前に黄海で暴風のため沈没した一隻の軍艦を記念するために、過去に中国住民が称した会前山にイルティス山(今の太平山)と命名し、1899年から1901年にこの山の南斜面に建造した兵舎を「イルティス兵営」と読んだ。その兵営の擁する大型の兵舎二棟は、イルティス山を背にして、南にはるかクララ湾(今の匯泉湾)の優美な海景色を眺めることができる。ここは当時ヨーロッパ各国が極東で建築した最も広々として快適な大型の兵舎であると認識されている。1914年に日本が初めて青島を侵略してから、その兵営を占拠して旭兵営と海上した。1922年に北洋政府(北京政府)が青島を接収して、1924年に私立膠澳中学を元のイルティス兵営に移転して、1929年に私立中学校に改め、1937年に閉校した。1938年に日本が再度青島を侵略してから、後者はまた兵営に改められた。1945年に抗戦勝利後、アメリカ海軍陸戦隊と国民党青年軍が前後してここを兵営として、現在もその址を中国海軍の兵舎としている。 イルティス兵営、上図は兵営の遠眺 下図は兵営の入り口 1901年4月のイルティス兵営 イルティス兵営の現貌

ビスマルク兵営はイルティス兵営の後に続いて、ドイツが青島で建設した第二の大型兵営で、普仏戦争時期のドイツ最初の首相で「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクの名で命名された。

この兵営は青島山の南麓、現中国海洋大学魚山校区内に位置して、1903年の1号兵舎の工事開始から1909年の兵舎竣工まで、7年を要した。それぞれの建物には3つの大門があり、建物内に渡り廊下があり、高く広く設計されている。渡り廊下の両側を兵士の寮があり、部屋の窓は大きく、多くはアーチ形で、広々と明るい。各部屋の外面の渡り廊下の壁には木製のライフルラックが埋め込まれ、銃器を収納した。別にまた会議室、洗面所などの付属施設があった。建物内の階段は花崗岩ブロックの接ぎ合わせ(はぎあわせる)で、設計は細かく、堅固な美観である。大楼の屋根下の三角壁には古代兵器の「矛」と「盾」の標識がある。4座の兵舎建築の平面区別はH型で、練兵場を囲んで形成している。兵営は4座の兵舎を除いて、また兵士の活動センター(講堂)、軍官アパート、士官アパート、銃砲修理工場、軍馬厩舎(きゅうしゃ)などの付属建築があり、巨大な建築群であった。

日独戦争中、ドイツ軍司令部はビスマルク兵営中にあった。ビスマルク兵営は主に歩兵と、少量の軽装の砲兵を主としたので、渡り廊下の壁にはライフルを放置するライフルラックがあった。

ビスマルク兵営は紅島路の部屋の中の壁面に一つの隠された出入り口があり、人一人の高さで、外面は扇方の窓で、緊急状況が発生した時に、兵士はここから直接山に登り、各々の砲台で戦闘を進行したと言われている。1914年に、日本軍が初めて青島を侵略してから、「ビスマルク兵営」を「万年兵営」を改めた。1922年に中国政府が青島を回収してから、ここに中国陸軍第五師十旅の兵舎となり、兵舎も青島山により青島兵舎と改称された。1938年から抗日戦争勝利まで日本軍の占領であった。1945年10月に米軍が青島に進駐すると、ビスマルク兵営はまた米軍兵営となった。1924年5月に膠澳督弁公署の支持で、事業界は青島大学設立資金を集めた。これ以来、ここには国立青島大学、山東大学、山東海洋学院、青島海洋大学、中国海洋大学等の変遷して、兵営から学府までの百年の伝奇を成就(じょうじゅ)した。

ビスマルク兵営の建物は当初10棟余りしかなく、現在保存されているのに、水産館1、2号棟、海洋館、地質館1号棟と元の文書館棟がある。

兵士の活動センターは1983年に取り壊され、士官アパートは1990年に取り壊され、兵舎と厩舎(きゅうしゃ)は大学の印刷工場と自動車修理場に使用したが、1999年に業務を終え取り壊された。 ビスマルク兵営の遠眺 ビスマルク兵営営房分布 ビスマルク兵営1、2号営房、前面は練兵場、正面の建築は兵士活動センター

ビスマルク兵営1、2号兵舎の前面には練兵場があり、正面の建物は兵士の活動センターとした。 1、2号舎は今の海洋大学体育場に近い位置にあった。

ビスマルク兵営と現在の様子。

ドイツが青島占領時に建設された第3の兵営は現在の台東に位置して、それは現在の延安2路を起点として、南は延安路に至り、西は延安1路に下り、北は登州路に連なり、プロイセンがドイツ軍陸軍参謀総長のフォント・モルトケ元帥の名を取って命名され、また「モルトケ兵営」とも称し、その西側に遠くない烽台嶺(今の貯水山)を「モルトケ山」と命名した。 元モルトケ兵営範囲 モルトケ兵営遠眺

資料によれば、この兵営は実際には1899年にもう存在していたが、始めの兵舎は簡易な移動式式平屋と軍用テントのみであった。1906年、総督府は高密から撤回したドイツ軍第三営騎兵を安置するために兵舎の建設を着手した。モルトケ兵営は2座の兵舎、1座の講堂、東西の厩舎と若干の補助的機能室で組成されている。「凹」字形の兵舎は北面に面した平行に配列していて兵舎の北側は広大な地を占める練兵場であり、騎兵中隊の日常の演習教練に使用した。騎兵の小分隊は毎日ここから出発して、青島地区を巡邏(じゅんら)したが、この兵舎はかつて台東鎮の中国民衆はイメジで「馬小屋」と呼ばれた。モルトケ兵営は日独戦争中に重要な作用を発揮し、兵営地が台東鎮西部に位置したので、距離がドイツ軍の前線が比較的近く、戦時の支援が大変便利であった。従って日独戦争中に、ここのドイツ軍兵員は最多となり、多くの砲兵が砲弾を打ち尽くせばすぐに歩兵の武器を拾ってモルトケ兵営の来て戦闘を継続した。 モルトケ兵営内景色モルトケ兵営内景色 モルトケ兵営の騎兵 一号軍官営 2号営房 モルトケ兵営礼堂

モルトケ兵営はその特殊な位置のため歴史上特殊な軌跡をとどめている。登州路付近にこの兵営が出現した時。ドイツ商人はドイツ兵士がビールを好んで飲むのを商機と見て、兵営付近にバーを開設して、ビールを専売した。

1903年、ドイツ商人は商売気が出て、バーの付近にビール工場を創設したが、これが「ゲルマンビール株式会社」(青島ビール工場の前身)である。1914年11月7日戦争終結後、ここは日独双方の臨時協議場所となり、ドイツ当局は兵営内の騎兵営長官邸で日本へ投降文書を提出した。日本占領後兵営を「鶴舞兵営」と改めた。

1933年8月、青島市市長沈鴻烈はその創設した葫蘆島海軍学校を青島のモルトケ兵営に移転し、青島海軍学校と改名する計画を立てた。1937年11月にその学校は抗日戦争が勃発し内地へ移転した。

1938年日本が再び青島を占領すると、兵営は再び日本海軍の兵営となった。二次世界大戦後、ここは前後してアメリカ海軍と中国国民軍兵舎となった。1949年6月、青島解放後現在まで海軍が使用している。

日本が青島を占領していた当時の高橋写真館発行のモルトケ兵営内風景はがきに、主に兵舎と東厩舎が見ることができる。

記録によると、ここは「海軍大院」と呼ばれ、前世紀80年代初期に、規格を統一して配置された広々とした部隊の区画で、内部には練兵場、事務棟、門診所、ゲストハウス、幼稚園、宿舎棟、映画館などの施設があった。

兵営の東側にはかつて騎兵営営長官邸があり、当時日独双方の指揮官がこの官邸でドイツ軍の武装解除明け渡しの投降文書に署名したが、遺憾なのは、その官邸は20世紀末に取り壊され住居棟が建てられた。

日本文資料整理 威海 李君