山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旅順望台砲台の欠けた砲口はどのように作られたか

望台砲台は旅順市東北に位置して、海抜182メートルで、ロシア軍東部保衛戦の制高点(標高)である。清代にはこれを将軍台と呼び、ロシア軍は大鷹巣砲台と呼び、民間は両桿砲(二丁大砲)と俗称した。現在も2基の艦砲が山頂に残る。この2基の大砲はサンクトペテルブルクのオブホフ兵器工場1899年鋳造の150センチメートル艦用キャノン砲である。砲筒は大変長く、射程は10キロメートルに達し、360度転回射撃が可能で、当時最先端の長距離大砲であった。

日露戦争の間に、日本の連合艦隊は旅順港を封鎖したので、ロシア軍の艦砲は作用を発揮せず、陸上戦の緊迫感により、ロシア軍は艦砲を下ろして陸上砲台に運んだ。200人余りのロシア海軍の兵士が、鉄車輪の車で一基の大砲を引き、一日もかからず砲台に引き上げた。

また、強いられた2,000人の民間労働者が半月かけて引き上げたともいう。(それは)全くたらめで、上の写真のどこに民間労働者が写っているのか御覧なさい。

日本軍は望台砲台に向かって攻撃を発した

1904年12月6日、日本軍は203高地を突破した後、兵力を集中してロシア軍の東部防衛線を攻撃した。東雞冠山北要塞、二龍山要塞、松山要塞が相次いで陥没した。最後に日本軍は三方向からロシア軍東部防衛線の制高点望島砲台を攻撃した。1905年1月1日午後2時半に砲台は守備を失い、5か月余りの旅順争奪戦に終結を示した。

日本軍が占領した望島砲台

大正五年十月(1916年10月)、満州戦跡保存会はここに碑を建て記念し、碑銘は陸軍大将一戸兵衛(イチノヘ・ヒョウエ)の書丹である。

明治三十七年八月以来、第九師団及第十一師団ノ一部隊之ヲ攻撃シ、同三十八年一月一日占領ス、陸軍大将一戸兵衛碑銘ヲ書ス、満洲戦蹟保存會。

記念碑と二丁の大砲

(日露)戦後、日本軍は戦利品として、2丁の艦砲を枕木(まくらぎ)から下ろして、コンクリートで砲座を築いて、旅客の参観に提供することで、日本軍の武力を誇った。この2丁の大砲は戦争遺跡に残された実物で、副製品ではない。

欠けた砲口

望台砲台を参観すると、注意深い人は西側の大砲の砲口が欠けて、斜めの断面を形成しているのを発見できる。上面から25センチメートル欠け、下面から17センチメートル欠けている。問題はこの欠けた部分がどのように形成されたかであり、目下4種の説がある。第一にロシア軍が自ら爆破した。第二に砲弾が筒内で炸裂(さくれつ)して自体を爆破した。第三に日本軍が砲台を占領後、武力を誇示するために爆薬で爆破した。第四に日本軍の砲火により爆破した。この四つの説について私の見解は、(ロシア)爆破説は非現実であり、日本軍が三方向から進攻を開始したので、ロシア軍はあたふたと逃亡し、爆破はもとからできなかった。筒内炸裂は、筒内は完全無傷で、砲口部分で炸裂しないので成立しない。日本軍が爆破したのは、可能性は低く、三枚の写真を拡大すると、日本軍が砲台を占領した時、西側のその大砲の砲口はもう欠損(けっそん)していた。以上三種の説を除くと、おそらく日本文の砲撃によって破壊されたのであろう、

何年か前に、ある老人が私に、日本軍が二丁の大砲を爆破するために、水師営の火石岭大型砲陣地で、西側の方向に狙って半月かけてやっと照準を合わせ、一発の砲弾がちょうど砲台に発射され、砲口を爆破したと言った。老人の話は不思議で、私は信じられなかった。

日本軍がもしそのような神技の砲撃手であれば、二発の砲弾で問題は解決するのに、日本軍はなぜ何度も組織的に砲台を攻撃しそんなに多くの人を死傷させたのであろう。

望台砲台へ行ったことがない人は、第二の写真で、砲台のある山頂の面積はとても小さく、大変切り立っているのを見ると、砲弾を低く打つと砲台下の山肌(やまはだ)に打ち込むことができたが、砲台を高く打つと、砲台上空を飛び去ることにだろう。

砲台を狭い砲台上に打ち落とすことは大変難しく、これが二丁の艦砲が徹底的に破壊されなかった原因の所在であった。

砲台上の大砲の残骸

望台砲台の攻撃は、旅順の戦いの最後の戦いで、日本軍は王家庄、江家村、朱家屯、胡子嶺などの重砲陣地から砲を集中して、大鷹巣のロシア砲台を射撃したもので、どの砲台のどの砲が西の砲口を破壊した砲弾を発射したかは不明である。海軍砲の砲身が根こそぎ吹き飛ばされた日露海戦の写真を見て、ロシア砲の残骸だけが基地に残されている日本のトロフィー博物館を見て、望台砲台の銃口が日本の重砲で吹き飛ばされたという判断に納得するだろう。

削り取られた銅の回転台

ついでながら、当時砲口の欠損のほかに、フロントガードに傷があったが、そのほかの部品はそろっていた。解放後、しばらく管理する人がなく、砲身の取り外せる部品は買収所に送られた。上図の底の大型の銅の回転台を見てもらうと、削り取られていないか。幸いなことにこの2基の大砲は意外な原因で大躍進政策の強奪(ごうだつ)から逃れられた。この砲台は既に省の文化財に指定され、近代史と愛国主義教育の重要な場所として推進している。

著者 旅順 李華家

日本文資料整理 威海 李君