旅順の藁葺家(京都乃木神社)
乃木の柳樹房屯は旅順北部に位置し、百年前は、従数戸の家庭があるに過ぎない小村であったが、日露戦争で一挙に、史書に掲載された。
1904年に日露戦争が勃発すると、乃木希典(のぎまれすけ)の統帥する第三軍は旅順の包囲を担当し、司令部を柳樹房屯近く東の五間の藁葺家内に設置した。真ん中の家を主屋(しゅや)として、西の離れを乃木希典の事務室とし、東西の奥部屋を各自の寝室とした。戦時中乃木希典はここで作戦を指揮して、1905年1月初めに旅順を占領してやっとこの地を離れた。
東郷が羊頭洼から柳樹房屯に乃木を訪問(前列中央が東郷と乃木)
乃木希典は第三軍司令官に就任して、当時日清戦争の旅団長となった時、たった一日で旅順の清軍の防衛線を攻略する戦績を心掛けた。彼は上司に向かって、早ければ20日、遅くとも一月で、旅順を攻略して凱旋すると、大口をたたいた。はからずも、この上陸争奪戦は五カ月も持続して、日本軍は甚大な代価(だいか)を支払い、乃木は帰国の船上で向かい風に涙を流すことになった。乃木は自ら罪業の深きを知り、帰国後謝罪の準備をした。明治天皇は保護に努めたので、恩徳に感謝した。
1912年7月30日、明治天皇が病死すると、乃木希典はすぐさま夜迦をつとめた。同年9月13日、明治天皇埋葬の碑に、乃木と妻(さい)は揃って明治天皇に追従して自殺して果てた。乃木希典が君主に殉じて切腹した後、その戦功を加えて軍神として奉られた(たてまつる)。
1915年7月10日、日本の実業家が柳樹房屯の五間の藁葺家を買い取り、古家を総て京都に移して再建し後人の敬仰(けいぎょう)に供した(きょうする)。注目すべきは家を買い取ったのは日本政府でなく、また軍部でもなく、一個の事業家であった。この実業家はなぜこのようなことをしたのか。
彼は乃木の人気を利用し、彼の建設した遠隔地の駅に商売を招致し、商機をもたらしたが、鼓吹(こすい)をどうして、宣揚をどうしたかは、それはのちの人が総合的に分析している。村の老人によると。家を取り壊す前に、日本人はまず写真を撮り、家の石ブロック一つごとに番号を振り、順番に箱詰めして、屋上で葺藁までも順序(じゅんじょ)を変えずに、13,001把を縛りまとめた。また、何包みかの土砂も国内に送った。日本京都伏見の桃山乃木希典神社背面に元のまま建てられて、「日露戦争第三軍司令部記念館」が成立した。
11月12日の午前、私人を連れての10回目の柳樹屯村訪問をして第三軍司令部の跡地と第三軍司令部駐屯地記念碑の所在位置を参観した。
下の6枚の写真の、前3枚は旅順柳樹房屯村があった時、日本人が第三軍司令部旧跡を参観にやってきたもので、後の3枚は日本の京都に運ばれ再建された乃木神社第三軍司令部記念館である。どなたかこの方面の旧写真が有れば、ご教授を賜りたい。
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