山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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欧戦見聞録

私の祖父馬春苓は、字は芳洲、号は延襄、山東省臨朐県東城街道胡梅澗村の人である。1886年に生まれ、1962年亡くなった。祖父のなくなったその年に、私はやっと生まれたが、祖父に関する多くの物語は家族の口伝(くでん)と祖父のノートで理解できる。

祖父は6歳の時にその祖父に付き従って勉強を初め、14歳で師匠について稽古して、16歳で八股文(科挙文章)作文した。1913年に元の臨朐県師範学校に考査入学し、卒業後小学校教師となった。

第一次世界大戦中、欧州は全面混戦となり、連合国は物資と人力資源の面で極めて大困難となり、この時イギリスは目を中国に向け、中国人労働者を募集して戦場の労働作業に従事させることを決定した。「たった五年の契約で欧州へ行けば、あなたの年収はニ千フランに達して、帰れば大富豪になるだろう。」当時、このような広告が山東、河北、河南、江蘇など十数省の募集所に行き渡った。 祖父の卒業証書 『旅欧雑誌』

当時臨朐は大干魃で、飢饉凶荒に迫られ、多くの農民が応募し、大部分の人にとっては、金儲けの機会であり、また西洋を知る機会でもあった。祖父は当時小学校の教師であったが、外の世界や、見識が異なる文明を理解したいと渇望(渇望)していた。祖父は日記中にこのように記している。「私はかつて地図を見て、その世界の大きさ、万国の多さ、水陸山原地形の異なる様子、魚鳥動植物の種々の生態や、人民の気風、土地気候に至るまで、例外なしに千差万別であるのを見て⋯⋯朝夕に地理に通じて講ずる(こうずる)といっても、教える者も聞くものも、、ぼんやり確証がなく⋯⋯思いはここに至り、遂に奮起して周遊の気持ちとなった。」「今日の選択は、軍事の新知識を高めるだけでなく、また歴遊の宿願を叶えられる。時は失うべからず。」

祖父は中国人労働に応募する前に、すでに4人の女児があり、ハハオヤも70歳を超えていたが、祖父は彼の弟に老母を託し、家庭の事情は全て妻に引き継いだ。1917年10月3日、祖父は両目を失明している老母と家族に別れを告げ、中国人労働者達と青島から乗船して出発し、欧州の戦場に赴いた。

大西洋では、中国人労働者を乗せた船舶はたえずドイツの潜水艇の襲撃を受け、多くの中国人労働者の命が大海に失われ、祖父は日記に書いている。「見渡す限り青い波が天を突かん(突く)ばかりに、いよいよ際限(さいげん)がない。鳥も見えず、鳥も絶え⋯⋯ドイツは潜水艇を大西洋の各航路に潜伏させ、同盟国の船舶を追跡して、突然に沈没させ、悲惨な害となった。」当時やはり恐怖があったが、自身で精神を強打(きょうだ)して、同胞を激励(げきれい)した。「大義のおもむくところ、死生は一つ、また何ぞ畏れんや、今日の戦いを⋯我等は西洋のために政府の承認を受け、決死の思いを惜しまず、またおのずと有名有利である。もう悔やむこともなく、何を怖れようか。」

フランスエニップ(Nieppe)の戦火に破壊された街道

リス(LaLys)河畔の被曝した工場

リヨンの埠頭

祖父は日本、カナダ、アメリカ、イギリス、ベルギーを経て、二ヶ月と二十日間漂泊して、1917年12月23日にフランスカレー(Calais)省に到着した。

まだ疲労困憊(こんぱい)した体を伸ばす間もなく、祖父とその他の中国人労働者はすぐさま工場の作業、材料の運搬と道路修理などに送られ、作業の条件は極めて難苦で、労働の激しさは大変であった。祖父は日記中に書いている。「ああ、昼間は肉体労働で、筋肉疲労で困憊した。夜間は空爆をされ、心胆が恐れ慄いた(おののい)。故郷を思えども、国境や山々のはるか彼方なり。いつ帰れるかと数えても、はるか三年もある。その苦境は本当に言うに忍びがたいが、我々はここに旅して、神虎となっても水槽の魚のように、せっかく羽を付けたのに飛ぶことができない。日夜憂慮しても、またいかんともしがたい⋯⋯吉凶禍福は、概して天に身を任せるしかないのである。

祖父がフランスで作業していた地方はカレー省西部の諸工場で、「戦線をさること百里余り(50km)なので、被弾の危険は免れが、いまだ困窮の苦難には遭遇していない。ただ夜間に敵国の飛行機が内地に潜入して、爆弾を投げ落としたので、戦線後方の兵営、秣場(まぐさじょう)、付属薬局を破壊した。凡そ(およそ)晴れた日中や、夕べには来なければならない。

イギリス人は機械を常備していて⋯⋯あるいは飛行機に乗って敵対した。薬莢(やっきょう)は雨のように降り注ぎ、被害は猛烈であり、従って各兵営では、皆地下壕や塹壕でこれを避け⋯⋯一晩のうちに、いつも何度も逃げたので、当地に住んだ7・8ヶ月は、衣服を緩めて(ゆるめる)眠ることはなかった。

1918年11月11日午前11時、祖父は「急に各所の舟車工場と機器局が、同時に汽笛(きてき)を、ウーウーと発動するのを聞いた⋯⋯ドイツは敗戦して、講和を申し込み、連合軍が勝利した⋯⋯そこで各国人民は彩り(いろどり)よく旗を掲げて、相慶賀した⋯⋯思わず恐怖は緩み、憂いは晴れ、里心が湧いてきた」

しかし、戦争終結後、祖父と中国人労働者たちはフランスとベルギーに派遣され戦場の後片付けと、廃墟の整理をした。「戦争を経た後、本当に言葉に堪えれらないのは、家に壁がなく、樹木は丸裸で⋯⋯死体は野に満ち、鬼火が漂い、鉄条網がまとわりついていた。塹壕はくねくねと伸び、荒れ地の草は伸び放題で、⋯⋯老人は嘆き、若嫁は泣き崩れ⋯⋯人は古来よりの戦争に、いまだ欧州戦争のようにむごいものは無かったという。」実際、戦場を整理中に不発弾で多くの中国人労働者が亡くなっている。

欧州にいた二年余りで、祖父は当時の中国人労働者の欧州の戦場で苦労した様子を記録して、『旅欧雑誌』を書き上げ、後人がこの歴史を研究するために、貴重な資料をとどめた。

戦争終結後、1919年12月25日になって、祖父はやっと故郷に帰り、家に戻った時、「子弟は歓迎し、老婆は門に佇み、両目に涙を残して、自ら入室に寄り添った。」祖父は帰国後教師を70歳まで継続し、前後40年の教育は桃李天下に満つ(教え子の多いこと)というべきである。

1943年、祖父が強制徴集で大連での労働に充当された証拠 祖父晩年の写真

2018年は第一次世界大戦の終結は百周年で、11月に私は幸いにも山東僑務代表団に随行してイギリス、フランス、ベルギーに赴いて第一次世界大戦の中国人労働者記念活動に参加した。

中国人労働者墓園に到着した時、墓苑に建ち並ぶ、二万余りの中国人労働者が平和維持のために、自らの若い命を捧げ、異国の地に客死した墓碑を見て、私は雨のように落ちる涙を禁じえなかった。14万の第一次世界大戦中国人労働者の流した汗水と、血の涙、命までもは、中国を戦勝国とするために1919年のパリ平和会議上で発言する機会を得たが、中国は戦勝国の待遇を得ることができずに、14万の中国人労働者にも重視を得られなかった。正にイギリスの第一次世界大戦中国人労働者の歴史作家が私に贈った本に書いている:「中国人労働者は第一次世界大戦の英雄で、我等を救ったが、パリ平和会議では裏切られた。」

祖父の『旅欧雑誌』は残酷な戦争の真実である。戦争は残酷で、戦争に勝者がないことを克明に描写している。私が慰め(なぐさめ)を述べることができるのは、今日の中国、今日の山東は天地転覆(てんぷ)するつほどの変化が発生して、我々の生活が豊かに安定しているのは、中国人民が百年間に探求奮闘して得たものであること。世界各国の人民は正に歴史を銘記して、平和を大切に、和気藹々(わきあいあい)と、共に発展すべきである。

著者 山東省 馬克東

日本文資料整理 威海 李君