旅順三里橋の日本人の合葬墓
旅順三里橋にあるソ連軍烈士陵園の西南角の壁外近くに、日本人の合葬墓がある意味墓碑が墳墓の上に立つ、典型的な日本の墓葬習俗である。
墳墓は円形で、直径310センチメートル、高さ120センチメートル、墓碑の碑座は直径110センチメートル、高さ28センチメートル、碑本体は直径70センチメートル、碑高110センチメートル、笠石(かさいし)は直径100センチメートル、高さ35センチメートルである。
此の墓碑正面の文字ははっきり見えるが、碑陰の文字は大変細かくはっきり見えず、日光の照射が眩しいが、打ち水もすぐ乾くので、唯一の方法は採拓である。碑文の内容をはっきりさせ、墳墓の来歴を理解するために、我々は前後二度墓地に行って採拓した。
幸いに正面の文字は大きく、採拓せずともはっきり見えた。碑の上端にある四文字は、日露役前と刻し、側らの落款は関東長官従三位勲一等塚本(つかもと)清治書と刻す。
碑陰の拓が完成後、現れたのは日本語である。釈文翻訳は以下の如し:
日露戦争以前に、我が国から旅順への定住者は累計(るいけい)四百人前後である。当時遼東の局勢は次第に緊張し、その時この地の我が国人士は進退の困難な境地であった。開戦前に、滞留していた人の中で、病が元で不幸にもなくなる人が相次ぎ、親類知人でない本国人が同情心から、この地に24人に達する人を埋葬した。20年来、この祭主のない墳墓は、ほとんど顧みられる(かえりみる)こともなく、また身分を証明する記載もなく、その姓名来歴もさらに知り得なかった。我々明治三十八年はその痛惜(つうせき)の心情を抱くこと極まり(きわまり)、原位置の南面を改めて合葬墓とし、
(旧)碑を数え樹を植え、逝去者の霊魂が永遠に安らかとなるように決めた。特にこの碑を建て、記載すること上の如く、もって後世に伝えんとす。
東関長 塚本清治題字
旅順民政署長米内内山震作撰文(せんぶん)
# 拓本による
【原文】
日露戦役前我邦人ノ旅順ニ渡来居住セル者其の数詳ナラ
ズト雖凡四百人ヲ算フべシ而シテ當時遼東ノ風雲漸ク旧
ヲ告ケムトスルノ時此ノ地ニ於ケル我邦人ノ難苦ヤ蓋シ
察スルニ餘リアル然ルニ此等在留中戦未ダ開カレザル
ニ不幸病ヲ得テ此ノ地ニ歿シ而モ親戚縁者ナク僅カニ在
留邦人ノ同情ニ依リ地ヲ此處ニトシテ埋葬セラレタル者
其ノ数二十四人ニ上ル爾來二十幾星霜所謂無紡ノ墓トシ
テ殆ド訪ヅル者ナク又記録ノ徵スルモノナキ爲其ノ氏名
ヲ知ルコトヲ得ス我明治三十八年會痛ク之ヲ遺憾トシ相
計リテ墓碑建立ノ議ヲ樹テ此ノ地域内ノ南方ニ合同我等
ガ永久ニ其ノ靈ヲ安ジセムトス乃チ木々及碑建立ノ由来ヲ記シ以テ後世ニ之ヲ傳フ
関東長官塚本清治題字 旅順民生署長米内山震作撰文
在旅順明治三十八年會建之
訳文を通して我々は日露戦争以前の旅順の日本人の数と病没の状況および合葬墳墓の由来が明らかになった。我々はこの日本人の合葬墓が90年近くたっていることを知ることができた。この墳墓は全体的に保存が良いが、外側の青石板は老朽化(ろうきゅうか)のためいささか脱落(だつらく)している。
石碑は押し倒されずに、墳墓も切り崩されることなく、穴の開いた場所にはコンクリートで補修する人もあり、旅順人の善良と寛容の心意気を見るべきで、おそらくそこに埋葬されているのが皆病死した日本の一般人であったためであろう。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。