李鴻章の上奏文中で初めて「大連湾」言及
清光緒6年(1880年)、北洋大臣李鴻章は大連湾軍港建設構想上奏文中に、初めて大連湾について言及した。
清光緒6年、李鴻章は北洋艦隊と軍港を設立する視察でこの入江(大連湾)に来たが、後に入江は広すぎるて、防衛によくなく、後に旅順を選んだ。ただそこに旅順を退路を守る海防砲台5基と陸上防衛砲台1基を建設した。視察時に、一人の大臣はその極めて壮観な入江に「海と、空に連なる、広大な陣形である」と驚きの声をあげた。李鴻章はこれを聞いて、第六感で「入江の名はあった、堂々とした、具体的な、大連湾という。」その後李鴻章は皇帝に上奏文を起草している時に、「大連湾」という新名称を使用した。大連の名称は、大連湾に由来する。大連湾砲台
また、大連の地名は「ダリニ」の音訳という一説がある。「ダリニ」はロシア語で、「遥遠」の意味であり、モスクワとサンクトペテルブルグから遠く離れた地方である。
「ダリニ」の由来は大連がロシアの租借地に陥ってから、ロシア皇帝ニクライがこの地にダリニと命名し、同時に自由貿易港として開放したのを根拠として、後に大連と転写(てんしゃ)した。
日本の植民統治機関の、1905年2月に、正式に大連と称した。大連の夜景
1949年4月1日、大連と旅順は合わせて旅大市と呼ばれた。対外に開放するために、1981年2月に国務院の批准を経て旅大市を大連市と改めた。旅順は軍事要塞となり、1996年7月1日になって、部分開放が実現した。2008年11月21日に、国務院、中央軍事委員会は旅順の正式な全面開放を批准した。旅順軍港
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