旅順の大小孤山
旅順龍頭街道の東南方向に大小二つの独立峰がある。『旅順口志』の主要な山岳名録表中には、この二つの山は、大孤山、海抜193.1メートル、西北から東南に向かう、小孤山、海抜134メートル、西北から東南に向かうと紹介している。
このように大小孤山を区分するのは、当地の老人はあなたに、大孤山に二つの山頂があり、大孤山の山稜(さんりょう)と互いに連なり、獅虎園の傍らに接近した山が小孤山であると教えるであろう。大孤山は高いが、小孤山ほど有名ではなく、原因は山下の村落は小孤山によって命名され、ダム湖も小孤山によって命名されている。
日露戦争中に、大孤山と小孤山は旅順要塞を囲う(かこう)主要な障壁であったので、日露両軍はここで熾烈(しれつ)な争奪戦を進行した。日本軍はここで1,280人を死傷し、ロシア軍は450人を死傷した。
上図右側は、日本軍が大小孤山を攻撃する見取図
大孤山は王家村の東南方向に位置する。日露戦争中に、ここは前線貴重であり、地形は険要であり、ロシア軍はここに野砲(移動軽砲)6基と地雷(じらい)、塹壕、鉄条網等の防御施設を設置した。1904年8月7日、日本軍第十一師団はこの地に対して攻撃を進行し、8日午後8時30分に陣地を占領した。
1904年の、旅順大孤山北麓の日本軍第一師団野営地
小孤山は現在の獅虎園西側に位置する。日露戦争中、ここは前線基地であり、地形は険要であり、ロシア軍はここに塹壕を修築し防衛した。1904年8月9日午前4時30分に日本軍第十一師団はこの地に対して攻撃を進攻し、10未明にその陣地を占領した。
1904年11月7日、旅順小孤山歩兵塹壕からの海岸遠望
1904年、旅順小孤山東麓の日本軍騎兵と砲兵連隊の一部の野営地
1935年5月、日本の植民地当局は唐家屯に移転し、麓にダムを建設し、1937年12月に完成した。これは都市供水を主として、洪水防止を考慮した小(一)型ダムで、王家村から小孤山川の下流に至るまでの、ダム用地の上流水域面積は29平方キロメートル、貯水池容積740.6万立方メートルである。
大孤山と小孤山一帯は、風光明媚で、山水のある良い場所である。ネット上の戱れ(たわむれ)言に、ある時、風水師がここを通過した時に、大孤山の形状は龍の爪のようであるので、付近の麓に勅使大臣が現れるであろうと予言したという。
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