斉魯病院:済南最初の分科総合西洋病院
1871年、メルベンというアメリカ人宣教師が山東済南に来て、アメリカ北長老会の山東での最初の布教所を建設した。1878年、自分の布教所の近くに、メルベンは診療所兼薬局を開き、周囲の民衆への簡単な診療と常備薬の提供を担当し、「文璧診所」と称した。
1890年、アメリカ北長老派教会のもう一人の重要人物➖ボイド・ニール(James Boyd Neal)が済南に来た。ボイド・ニールは宣教医師で、これは彼の医術が簡単な診療に限らないことができたことを意味する。1890年、済南華美医院と医校(現在山東大学附属病院)
「文璧診所」を基礎として、彼は当時済南で最初の分科総合西洋病院➖「華美病院」を創設したが、これは斉魯病院の前身である。当時の設備は粗末であったが、ボイド・ニールらの努力のもとで、華美病院は急速に発展して山東第一の病院となった。1883年、済南共和医学校(現在 斉魯大学医学院、斉魯大学医科)
1902年、済南、青州、鄒平、臨沂四地方の四ヶ所教会医学堂を合併(がっぺい)して「共和医道学堂」とした。1908年、「共和医道学堂」に実習基地を提供するため、ボイド・ニールはまた「済南共和病院」を開設した。
1917年、斉魯大学が成立した。大学の教育病院として、「済南共和病院」は「斉魯大学医学部附属教育病院」と改称し斉魯病院または斉大病院と略称した。1928年、斉魯病院の前身として、斉魯大学医学部創設時に創設の目的を明確に、「病気の治療、科学の研究、医術看護の訓練」と規定した。正にこの早期の医学と教育の協調、医学と人文を共に重んじる優秀な伝統で、斉魯病院は今日の有名を成就(じょうじゅ)したのである。
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