日清戦争に於いて捕虜となった清軍の運命や如何に
最近、ある人が私に難問を出しました。それは、日清戦争に於いて旅順戦地の日本軍が清軍の戦争捕虜をどのように扱ったのかという問題です。
この問題は簡単です。旅順戦地には一人の捕虜もいなかったので、そもそも清軍捕虜の扱いに関する問題は存在しなかったのです。旅順に総攻撃を仕掛ける前、日本軍第一師団長の山地元治は命令を下し、清軍を生かしておくべきでない、拘束した捕虜は足手纏い(まとい)(累贅)
であるとしました。そして、日本軍は清軍捕虜だけではなく、武器を持たない一般市民まで全て虐殺したのです。山地元治(1841ー1897),日本陸軍中将
日清戦争における清軍捕虜は以下の二つで構成されています。一つは豊島海戦と朝鮮陸戦における捕虜、二つ目は遼寧海城一帯で行われた作戦により捕虜となった清軍です。
本論は、これらの捕虜とされた清軍がその後如何なる運命を辿ったのかをろんじます。捕虜とされた清軍
日清戦争は日本から1894年7月25日に宣言せずに豊島海戦を挑発して戦いを開始し、1895年4月17日になって清朝は「馬関条約」の締結をもって敗戦して終結した。
一年近くの戦争中に清軍は19,148人が死亡し、5,308人が負傷し、1,790人が捕虜として日本に移送され、日本は6,445人が死亡、3,530人が負傷し、11人が捕虜となった。
日本に運ばれ拘禁された清軍人1790人は、街中を引き回して衆目にさらされる虐待にあった。監獄は多くは使用せずに、清軍捕虜は寺院と租借した場所に分散され拘禁された。その後現地の海城に拘留された。捕虜された清軍
『馬関条約』締結後捕虜の交換を開始した。1895年8月18日、976人の清軍捕虜が天津に送られた。8月26日に海城に拘留されていた568名の清軍捕虜が日本軍により釈放された。
清軍に捕虜された11名の日本軍兵士も日本へ送られたが、日本に拘禁された1,790名の清軍捕虜で帰って来たのは976人で、残りの814人は種々の原因で日本でなくなり、青田山(静岡県掛川市)などの墓地に葬られた。日本人は清軍の名の前に「捕虜」の二文字を刻んだ。日本が第二次世界大戦の敗戦後、戦勝国の中国は捕虜二文字の抹消(まっしょう)を強く要求した。捕虜された清軍墓碑
清政府は敗戦した清軍に八つ当たりし、国内に返された戦犯を厳しく処罰した。将校は一律に免職送還され、ある将校は責任を追及され、兵士も現地で決算され、退職金は支払われなかった。しかし日本軍のその11人人捕虜として優遇され帰国後、英雄的歓迎を受けている。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。