旅順新発現--ニ〇三高地のロシア軍の頭蓋骨写真
203高地に関する文章は、多い。最近また新発現があり、203高地で戦死したロシア軍の頭蓋骨の写真が発見されている。この写真が撮影された時は203高地記念碑の建設よりも早かった。写真は日本人による撮影である。
我々が通常見る頭蓋骨は完全なものであるが、この頭蓋骨は前頭左半分に大陥没(かんぼつ)があった。極めて明白なのは日本軍の砲火が東部で炸裂し、その場で落命したものである。なぜ戦後戦場を整理した時に、発見されなかったのは、原因は簡単で、死体が砲火で巻き上げられた土砂で埋まったのである。後に、日本人は山上で戦死した日本軍に記念碑を建設し、戦死のロシア軍にギリシア正教の標識を建立したが、用地をならしている時に発見したのである。この破砕(はさい)された頭骨の写真を見て、当時の戦況の凄惨(せいさん)さの程度を考えるべきである。
203高地は旅順のロシア軍の西防衛線システムにおけるの要害高地で、この要害高地を占領することは旅順市街と港湾を制圧することができたのである。そのため、日露の203高地の争奪戦が旅順要塞の陸上西防衛線の最も残酷な戦場となってから、総攻撃の重要目標となった。
9月19日、日本軍は第二次総攻撃を発動したその目的は203高地の奪取(だっしゅ)であったが、12月6日になってやっと占領を完了した。その間に日本軍は203高地に発射した砲弾は1.1万発余りで、両軍の死傷は悲惨(ひさん)で、ロシア軍は当防御地での死傷者6,000人余り、ロシア軍の死傷者1.7万人である。その内日本軍の戦死した将校旧軍官は97人であり、乃木の二男乃木宝典も北斜面で戦死している。
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