山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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近代の教会病院と教会大学(中国)

およそ全ての良好な病院の前身は教会病院で、多くの有名大学も教会が設立したものである。

元代に、アラビア医学が中国に伝えられた。

1270年に北京に「広恵司」が設立された。

『元史、百官志』によると、広恵司の職責は二つある。

一、宮廷用の回族薬品の製造と混合(調剤ちょうざい)を掌握する。

二、当直衛士と大都(北京)の孤児寡婦(かふ)と貧しい人の治療をする。

1292年にまた「回族薬物院」を設立したが、アラビア式病院で、また中国最初の西洋病院と西洋薬局であった。

1828年、イギリスの宣教師高立支がマカオに最初の教会病院を開設した。

アヘン戦争以後、教会病院は激増し、1949にには340ヶ所余りとなり、中国各地に広まった。

かつてこんな言い方があった。

当時西洋の宣教師は皆「精神とアヘン」を持って、我々に「文化侵略」と「思想害悪」を進める。

今日、我々は独立した思考で、真実の「歴史事件自体」を通して、事実がこのようなものかどうかを見てみたい。

清末、民国の時代には、中国は極度の貧窮と立ち遅れにあった。

当時中国へ来た医学宣教師たちは、快適で暢気(のんき)な生活を捨てて、故郷を離れ遠く、立ち遅れた、貧困の中国へやってきた。

多くの宣教師は彼らの祖国を離れた後に、再び自分の祖国に帰ることなく、異国の地に永眠した。

実際、当時の外国の布教機構は自体もそれほど豊かではなかった。

しかし、彼らの1ポンド1ポンド、1ドル1ドルの彼らの困難な生活費の中から出費して、我らの中国に病院を建て、治療した。その戦いの歳月(貧困の時代)の中で、彼らは多くの中国人を救助、援助した。

母子を傷害した呪術(じゅじゅつ)医を打破する

1863年、Douw.D.M というアメリカ宣教師が北京に来た。

一人の難産の妊婦(にんぷ)を見て、昔ながらの産婆(さんば)が(逆子の「さかご」)足が僅かに出てきたのに草履(ぞうり)をはかせ、このようにすれば子供が自分で出てくると考えたが、その結果この母子は二人とも命を失った。

この種の「呪い(まじない)的」な昔の出産方法が、妊婦、嬰児(えいじ)に重篤(じゅうとく)な災難をもたらすのを目撃した。Down.D.Mは家に帰り大泣きました。

彼女はすぐさまアメリカに帰り、教会で財産を募集し、8年の時間をかけて準備し、建設資金を募集して北京に来て中国最初の女子医院を建設した。

これはのちの道済病院で、1949年に北京第六病院と改められた。

病院設立後、彼女は積極的に新方法の生産、予防接種を推進し、同時に中国の医務看護人員を養育した。

Douw.D.Mの弛まぬ(たゆまぬ)努力で、中国人婦女の苦痛は大きく減少し、生存率は大幅に向上した。

これらは皆この女性宣教師の新出産方法を受益し、彼女ばかりでなくその他の西洋医学も導入して、その後中国には500余りの教会病院が発展した。

ポラード(Samuel Pollard)はハンセン氏病人をずっと見捨てない

ハンセン氏病人は過去の中国で、ずっとつま弾き(びく)にされた集団である。
だが、1914年に、ポラードというイギリスの宣教師があった。彼は広西提督がハンセン氏病人を殺害生き埋めたにしたニュースを聞いて、新聞上でこの提督に憤怒(ふんぬ)して譴責(けんせき)し、すぐさまイギリスの防ハンセン氏病組織と連絡を取って、一口の金銭を集めた。
ポラード牧師はこの金銭で食料と布地を買って、定期的に付近の患者に支給した。ポラード牧師が世を去ると、彼の教会はハンセン氏患者の救助を、間断(かんだん)なくずっと続けた。
4年後、後継者の張道恵は布教団体に資金を申請し、付近に水源のある荒れ地を購入した。この雲南東北、貴州西北の最初のハンセン氏病院は、昭通、威寧、彝良一帯の数十名のハンセン氏病患者を収容した。多くの病人がただれた体を引きずり、治療を受けて、ここで集団生活を過ごした。
今でもこのハンセン氏病村はまだあり、当地の苗族は親しくポラードを彼らの「父親」と呼んでいる。
1906年、ヒューム(Edward Hicks Hume)というキリスト教の秀才が、愚かにも白衣を着けて湖南長沙に来て、雅礼(Yale)という病院を開いた。
当地のある女性は彼の白衣を見て、彼が自分の最期を看取りに来たのかと、真っ青になった。
漢方の盛んな晩清には、漢方医の診察は数元から数十元とばらばらであったが、雅礼病院に来るのは、大部分が各種の漢方医を試したが効き目のなかった病人や、あるいは収入のやや低い民衆であった。
この雅礼病院は、後の評判の良い「湘雅医学院」の前身である。
彼らは当時医療条件が極度に後進(こうしん)的な中国で、さまざまの中国の一般民衆の生命を救った。
中国で優良とされる病院の前身は皆教会病院である。
しばらく前に「北協和、南湘雅、東斉魯、西華西」「医療界の“四天王”」が首尾よく勢い揃い(ぞろい)した武漢は一度ウェイボー(微博Weibo)(ブログ)検索で盛り上がり、ネット利用者は山東大学斉魯病院と四川大学華西病院が武漢の天河空港で相互に声援しあう動画を見つけて、頻リ(しきり)に感動して涙したが、医学界では「北協和、南安雅、東斉魯、西華西」の名声は遠く鳴り響き、かつてある報道が彼らを中国医学教育の四家で「百年老舗」であると称賛した。この4病院の歴史は、ある程度は中国の元代医学の歴史という事ができる。長い歴史のほか、彼らには一つの共通点があり、すなわち彼らの創建は教会と関係していて、「師は同門に出る」ということができる。

斉魯病院:済南最初の分科総合西洋病院

1871年、メルベンというアメリカ人宣教師が山東済南に来て、アメリカ北長老派教会の山東での最初の布教所を建設した。1878年、自分の布教所の近くに、メルベンの診療所兼薬局を開き、周囲の民衆への簡単な診療と常備薬の提供を担当し、「文璧診所」と称した。
1890年、アメリカ北長老会のもう一人の重要人物〜ボイド・ニール(James Boyd Neal)が済南に来た。ボイド・ニールは宣教医師で、これは彼の医術が簡単な診療に限らないことができたことを意味する。
「文璧診所」を基礎として、彼は当時済南で最初の分科総合西洋病院〜「華美病院」を創設したが、これは斉魯病院の前身である。当時の設備は粗末であったが、ボイド・ニールらの人の努力のもとで、華美病院は急速に発展して山東第一の病院となった。
1902年、済南、青州、鄒平、臨沂四地方の4ヶ所の教会医学堂を合併(がっぺい)して「共和医道学堂」とした。1908年、「共和医道学堂」に実習基地を提供するため、ボイド・ニールはまた「済南共和病院」を開設した。
1917年、斉魯大学が成立した。大学の教育病院として、「済南共和病院」は「斉魯大学医学部附属教育病院」と改称し斉魯病院または斉大病院と略称した。1928年、斉魯病院の前身として、斉魯大学医学部創設時に創設の目的を明確に、「病気の治療、科学の研究、医術看護の訓練」と規定した。正にこの早期の医学と教育の協調、医学と人文を共に重んじる優秀な伝統で、斉魯病院は今日の有名を成就(じょうじゅ)したのである。

華西病院:大学医学部教育病院

1877年、最初のキリスト教宣教師--キャメロン(Cameron)、マッカートニー(J.H.McCartney)らの人が重慶、閬中などの地で診察所を運営し、薬局を開いたが、これがキリスト教の四川での医療事業の出発点である。
1892年、アメリカメソジスト監督教育の宣教師カンライト(Harry Lee Canright)医師が成都陝西福音教会に来て布教した。1894年、カンライトは福音教会付近で薬局、病院を開設し、存仁病院と命名したが、これは耳鼻咽喉科を包括する総合病院であった。
1896年、カナダ・イギリス、アメリカ合同女性布教会は仁済女性病院を創業したが、創業者のキルボーン(Retta G. kilborn)医師、彼女は華西で最初に専門訓練を受けた女医であった。
キルボーン医師は、四川の西洋医学史を創始しただけでなく、中国西部で最初の現代的意義での大学〜華西協和大学(West China Union University)をも創業した。
福音病院は開業初期に、キルボーン医師一人であったが、ここへ来て診察を受ける人も幾らも数えるほどもなかった。しかし時間の推移(すいい)に従って、ようやくいささかの中国人に西洋医学の不思議の見識ができて、そこで福音病院に行き診察を受ける人が増えて来た。
問題もこれによって起こり、医者と看護婦の需要ははるかに病人を診察する需要を満足することができなくなったので、そこでキルボーン医師に医師と看護師を「コピー」する考えが芽生え(めばえる)て来た。
1906年、イギリス、アメリカ、カナダなど五つの教会組織の後援のもとに華西協合大学が成立した。1914年に華西協合大学に医学部を解説し、キルボーン医師は生理学、化学などの科目の教授を開始した。
1928年、福音病院は仁済病院と名を改めたが、これが今日の成都市第二人民病院と華西病院の前身である。
当時、仁済病院、存仁病院と仁済女性病院は、全て大学医学部の教育病院であった。

湘雅医院--中国最初の西洋医学病院の一つ

1905年、ヒュームは米国イェールの優秀な学生、医学博士であった。ヒュームは雅礼教会の要求を受けて、湖南に来て、長沙で「1ヶ所の新型の医科大学を創設すること志します」。長沙に着いた後、彼はまず中国語と長沙語を勉強して、そして中国の名前「胡美」を付けた。
1906年11月、ヒュームは長沙西牌楼で一軒の民家を借りて、ここで1ヶ所の病院を創設して、名前を「雅礼医院」と付けて、「雅礼」は「エール(Yale)の音訳で、中国最初の西洋医学病院の誕生、湘雅医院の前身である。
病院が開業の初期、皆は西洋医学を信じなかった。ヒュームは最初、乞食(こじき)のために背中の膿疱(のうほう)をただで治し、後に兎唇(いぐち)、白内障など漢方ではよく効かない病気を治療した。それで雅礼病院に来る人がどんどん増えていった。
1911年11月、病院管理を完備し、多くの医学人材を培養(ばいよう)するために、ヒュームは雅礼看護学校を開業した。雅礼病院と雅礼看護学校は、湖南省最初の病院と最初の看護士職業学校となった。
長沙で「新型の医科大学の創業」の理想を実現するために、、ヒュームは米、英両国で医学を学んだ顏福慶博士を探して、1913年にアメリカ雅礼会の名義と湖南政府の提携(ていけい)で、長沙に湘雅医学専門学校を設立することを決定した。
1914年12月8日、湘雅専門学校は潮宗街で成立大会と開校儀式を挙行した。湘の意味は湖南で、雅は雅礼である。
1915年2月、雅礼病院に行ったは湘雅病院と改名し、もとの雅礼看護学校は湘雅看護士学校と改名し、これによって医学校、病院、看護士学校の三位一体の体系を形成した。
1906年、イギリスロンドンのキリスト教布教会は、英米その他の5教会の協力で、北平で協合医学堂を設立したが、協合医学院の前身となった。Unionの名は、連合の意味で、風雅に中国に訳して、協合と称した。
協合医学院に言及すれば、有名人のロックフェラーについて言及しなければならない。彼はかつて、私は神が私にお金を稼ぐ能力を与え給わり(たまわる)、人類の福祉に最大の努力を尽くさせていると信じていると語った。正にこのような考えで、ロックフェラーに前世紀の北平にコストを惜しまず「中国最善の医学院と附属病院」を建設することを決定した。
1914年、ロックフェラーの慈善基金会が成立して間もなく、当時の米国先端の医学教育専門家を中国へ派遣して、当時の中国の社会状況、教育、衛生、医学校と病院について詳細な考察を進行させた。三次元的な考察の結果のロックフェラーの基金会は、北京に教育、臨床、科学研究を一体として高水準の医学校〜後の協合医学院の創設を、決定した。
1915年6月、ロックフェラー氏が出資して成立した中国医学基金会は協合医学院と豫親王府の全財産を買い取り、北京協合病院の建設を開始した。
1921年、北京協合病院は盛大な開会儀式を挙行した。この時ユニオン(協合)には14棟の建物があった。
アメリカのタイムズ週刊誌は「1913年5月から開始した10年で、ロックフェラー基金会は8,000万ドル近くを費やしたが、その内最大の贈り物は北京協合病院であった。その時までに、ユニオンに用いた1,000万ドルは、ジョンズ・ホプキンズ大学に使った700万ドルよりも多い。1956年の統計によると、最終的に‘北京協合病院と協合病院’の設計を仕上げるために4,800ドルを超過した。」と記す。
それ以来、北京協合病院は中国近代医学の進歩を目撃して来た。実際に、中国のほとんどの有名病院は、その前身は皆教会の運営した病院である。 1835年、広州眼科薬局、後広州博済医院(現在中山大学附属第二医院、中国初の西洋医院)。 1844年、上海仁済医院(現在上海交通大学医学附属仁済医院) 1877年、蘇州公済医院(現代上海市第一人民病院) 1866年、上海同仁医院(現在上海交通大学医学院附属病院)  1883年、蘇州博習病院(中国初のX光機械使用の病院、現代蘇州大学附属第一病院) 1883年、済南共和病院(現在斉魯大学医学院、斉魯大学医科) 1885年、北京道済医院(現代北京市第六医院)   1898年広州花地精神病医院(中国初の西式療法精神病医院、現代広州市脳科医院) 1903年、上海震旦大学医学院(現代上海第二医学院) 1890年、済南華美病院と医学校(現代山東大学附属病院) 1907年、上海聖マリア病院(現在上海交通大学医学院附属瑞金医院) 1906年、協合医学堂(北京協和医院) 1907年、宣教師組織の中国赤十字会救助中心(現在上海華山病院)   1905年、成都華西協和大学医学院(四川大学華西医学中心) 1914年、湘雅医学校(中南大学湘雅学院) 1919年、山西川至医学校(現在山西医科大学) 1928年、漢口協和医学堂(現在武漢協和医院、華中科技大学同済医学院附属漢口協和医院) 1926年、宏恩医院(現在复旦大学附属華東医院) 1913年、泸州福音(現代川南医院、泸州医学院附属医院) 1900年、普仁医院(現在北京市普仁医院、無錫市普仁医院)

日本文資料整理 威海 李君