煙台芝罘神社
日本人は煙台山上に戦跡(せんせき)記念碑を建設したほかに、1941年に神社〜芝罘神社をも建設した。芝罘神社は煙台駐在の日本人の一つの宗教祭祀場所で、具体的には日本国家の宗教〜神道を崇拝し祭祀する神霊の社殿である。この内、神道は神社の精神的支柱である。明治維新後の日本の中国侵略拡張で、神道は重要な役割を演じた。日本軍の至る所には必ず神道(と仏教)人員が伴い、神道を支柱とする日本の神社も中国の各地で開花した。不完全な統計であるが、1897年から条件降伏した1945年までに、日本が海外に建設した神社は1,600社余りあった。その内中国の台湾、満州、東関州都大陸内地には550座の日本神社を建設した。管理の便を計って、1936年に、日本の外務省はわざわざ『満州国及び中華民国における神社規則』を実行し、これらの神社に対する性質、作用、管理と参拝など、詳細な規定を作り出した。
1941年3月に建設された芝罘神社。
神社建設のため日本の芝罘駐在領事長長岡半六は芝罘神社建設委員会に出席して、委員長を担当、大連神社宮司水野久直を顧問の務め、委員会は日本の煙台駐在特務機関長、憲兵隊長と日本人居留民代表により組織された。神社の社殿用材は日本海軍が日本の佐世保から運び込んだ。神社建設の過程で、日本の煙台居留民は先を争って金品を寄附した。
建設後の芝罘神社は造化三神と、天照大神(あまてらすおおかみ)、明治天皇と大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭祀した。天照大神は日本最大の主神で、大国主命は「国土開発の神」である。神社は中国在住の日本人の精神中枢で思想武器であり、「皇国臣民教育と、八紘一宇思想」を強制実行する場所であった。
その為、芝罘神社は中国侵略戦争の思想生息地(せいそくち)で、また日本軍が宗教文化の輸出を実現し、思想統治を進行する重要な活動の場所であった。
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