旅順表忠塔と納骨祠(のうこつし)の灯火はいつ消えたのか
旅順白玉山の表忠塔は1909年11月28日の落成式典ののち、毎晩夜通し灯火が点され、戦死者亡霊の永遠の不滅と、御霊の故里への望郷の道を照らす寓意(ぐうい)があった。
上面のこの写真は珍しいもので、哲学的な詩的な文字が配置されている。写真は龍河の河口に懸けられた日本橋と、さらに山上を照らす灯火が表忠塔から来ていることを証明できている。仔細(しさい)に古写真を見ると、表忠塔の灯火ばかりでなく、当の向かい側の白玉神社の納骨祠も明るく、かつ密集した地上(ちじょう)灯が二者のつながりを一緒にしている。この写真の灯火は二者の関係が〜墳墓と墳前の蝋燭であると一歩進めて説明している。
先程の小さな写真は、山の南面から撮影したもので、山上の灯火だけで、そのほかの参照物がない。この写真は小さいが、納骨祠の灯火がはっきり見ることができる。
では表忠塔と納骨祠の灯火がいつ頃消えたのか。1941年12月7日に太平洋戦争が勃発した後に、アメリカの飛行機が旅順を空襲するのを防止するために、灯火管制を進め、表忠塔と納骨祠の灯火を全て閉じて、1945年8月15日の終戦まで、再び点されることはなかった。
太平洋戦争勃発後、旅順の防空状況に就て、私はかつて調査したことがある。老人達の回顧によると、アメリカB29爆撃機は東北方向の高空から白線を引いて轟轟(ごうごう)と響きながら西南方向へ飛びって行った。毎回旅順の上空を通過する時は、全都市に防空警報が鳴り響いた。隋玉清老人はアメリカ飛行機の爆撃の時に窓ガラスが人を傷つけるのを避けるために、家ごとにガラスに布テープを貼り付けることが統一して求められた。当時旅順の太陽溝付属公学堂に通学していた王仁福老人ははっきり記憶していて、防空警報を聞くと、学生はすぐ椅子を机の上に載せ、机の下に潜り込み(もぐりこむ)、両手の親指で耳を塞ぎ(ふさぐ)、余った(あまる)指で目を覆った。飛行機が爆撃する時に目と耳を傷つけるのを避けるためで、老人は動作しながら話してくれた。もし時間が間に合えば、学生は全て地下室の中に移動した。通学路上で、もし爆撃機を見かけたら、すぐ通学できなくても、これは学校が許可した。これはもう遥か過去のことである。白玉山のこの大きな表忠塔は、平和中の人間に〜軍国主義の本質は戦争であることを覚醒(かくせ)させない時はない。
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