山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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近代青州のキリスト教歴史(二)

ディクソン

青州の医学活動は1880年に始まり、早期に青州に来たイギリスバプテスト教会の医学宣教師メドハスト(Medhurst)、ハーバート・ディクソン(Herbert Dixon)、サワビー先生(Mr.Sowrrby)とターナー先生(Mr.Turner)が都市と農村で単独に遊歴して医者をした。光緒8年(1882年)に外科医のディクソンは青州考院街の同善堂に借家して「施医所」を設立し、中国のキリスト教信者を招いて助手とした。始めディクソンは青州城内に「教会施医所」を設立し、布教を前提として、医者、読み書きを行い、毎週二度無料で医薬品を放出し、西洋医学と薬品の知識を伝播しながら、教義理念を宣伝した。だが次第に教会は医学の布教活動は最も有効な布教経路であると認識して、そこでイギリスバプテスト教会は青州に病院を建て、医学校を開設する計画を持った。医学布教事業の発展は当地の人間の助けになると考え、そこで賀明成など若い中国信者を北京などの地で医学訓練を受けさせ、青州で病院と医学学校を開設する前提で多方面の準備をした。

パターソン〜広徳病院

パターソン(Thomas Clarkson Paterson)は、スコットランドエジンバラ市ダブリン街に生まれ、ワトソン(James Russell Watson) と共にイギリスバプテスト教会の宣教師である。伝道医師の不足により、パターソンはいつも「救急隊員」として使用された。1888年、中国青州へ来た。この年、青州地区は災難が多かった。四月、雹(ひょう)混じりの雨が降り、花芽(かが)を出した小麦をひどく傷つけた。5月4日、渤海湾の震度7.5度の津波が青州に到着して、河水(かすい)が波打ち、家屋を傾斜させた。6、7月は大雨が止めどなく降り、野良(のら)稼ぎに被害が出て、黄河が決壊し、家屋を破壊した。大量の黄河氾濫地区難民が青州に流入し、コレラなどの伝染病が流行した。色々な災害が青州地区の災難を深刻にし、民衆は安心して生活できず、農民の死傷は甚大であった。パターソンは被災地区の惨状(さんじょう)と難民が隊列する困苦(こんく)を、写真に撮影して、国外に運んで展示し、教会と関心のある人士の義捐(ぎえん)を謀り(たばかる)、難民を救済した。
1892年、パターソン夫妻は青州に戻り、ワトソンの協力で献じた所得した義捐金を用いて、もとの王府旧跡地に病院を拡幅(かくふく)した。延べ616平方メートルの事務棟1棟、診察、病室、薬局、教室など平屋105室を建てた。
「大英帝国バプテスト教会青州病院」を「青州広徳病院」と改称し、「医学校」を併設した。病床は50台余りに増設し、医師20人、看護師14人であった。山東省最大の病院と医学学校となった。1900年、義和団運動が勃発し、青州広徳病院と青州医学学校は被害が深刻であった。パターソンとワトソンは積極的な活動に献身し、政府の支出と義捐募集の経費を利用して、迅速に病院と医学学校の旧態を恢復(かいふく)し、病院と医学学校の仕事を本来の軌道に乗せた。
1898年、戊戌の変法で科挙を廃止し学校を立てることが提唱された。パターソンは鄒平に派遣され医学学校を開設した。彼は青州広徳病院と青州医学堂の成功経験を参考にして、最短時間で鄒平の医療と布教作業を軌道に乗せた。
苦難の作業に追われて、パターソンはずっと重病が付き纏っていた、彼は自分の未完成の事業が気にかかり、病魔と頑強な戦いを進めて、ようやく1915年に青州担当作業に戻り、青州広徳病院の院長と看護学校の校長を兼任した。1928年、パターソンは退職してイギリスに帰国した。イギリスのキリスト教バプテスト教会は、1919年度の報告書でパターソンを「彼の位置に替代(置き換え)すべき人無し」と評価した。

ワトソン

ワトソン(James Russell Waston)は1855年7月、スコットランドのアバディーン生まれ、大変学識のある医者で、医学学士、理学修士、哲学博士の学位を獲得している。
1885年、30歳の彼は新婚の夫人アグネスと青州に来たが、アグネス(Agnes)も同様に医学博士であった。彼らは教会から派遣されて中国青州に来て、自身の医術を利用してキリスト教を広めた。

童年ワトソンの一家の写真

中国へ到着すると、彼らは煙台で船を降り上陸し、大変な道を青州に向かった。青州境界の堯溝村西(今の昌楽県西)は泥濘るん(ぬかる)だ沼地(ぬまち)で、彼らは3頭の小ロバを雇って、夫妻は各一頭づつ乗り、別の一頭で荷物を運んだ。弥河に到着し滔々(とうとう)とした河水に逢うと、ロバを舟に替え、舟から岸に上がった時、ちょうど村人が船頭に、家の妻がひどい腹痛で、苦痛に悶え(もだえる)ていると報せ(しらせ)に来たのに出会った。中国語をやや理解したワトソンは、これは神が彼に医術を発揮し、中国人に信頼を勝ち得る機会を与えたと考え、すぐさま自ら名乗り出て、船頭の夫人の苦痛を取り除けることができると言った。切羽詰まって(せっぱつまる)、船頭は半信半疑でこの西洋人を妻の治療のために家に連れ帰った。急病重症人を快速に治療するのは本来西洋医薬の十八番で、チクチクとした腹痛は、大英帝国の医学学士の治療の元にたちまち消えた。船頭は彼らの渡船費用を負けたばかりでなく、熱心に招待して、その宿に留め、青州の情況を紹介し、双方好意を結んだ。後のこの船頭は何度も青州市内に出かけてこの外国の友達を訪問した。

ワトソン(左前一)と山東宣教師達は広徳病院の撮影
ワトソン夫妻が青州市街に到着すると、まず借りた部屋に「施医所」を開設した。長袍馬褂(中国服)を着て、フェイクの弁髪を付けた瓜皮帽(中国帽)を載せて、無料で群衆に医を施し薬を与えた。青州の大集日ごとに、街に出て薬品を放出し、西洋医学の知識を宣伝し、キリスト教の教義を伝播した。
1887年、ワトソン夫妻は青州西皇城街に三進院のある建物(後庭のある四合院)を買い取り、そこを改造して小病院として「大英帝国バプテスト青州施医院」と称した。中庭の中間にある二階建ての小楼の、一階には薬局、二階に病室を設け、無料で群衆を診察して施薬(せやく)した。ワトソンは院長と主治医(しゅじい)を務めた。アグネスは婦人病を主に診察し、当地のおとなしい女性を彼女の助手とした。薬剤師賀明成は薬局を管理し、病院の経費は教会の支出と高官貴族の義捐、信徒の寄付などであった。病院は小さかったが、青州府と山東省の歴史上最初の病院で、西洋医学が青州に根差し(ねざす)た発端(ほったん)は中国が幾千年頼ってきた漢方医学、漢方薬の西洋医学に対する認識の欠乏であった。当時の中国は西洋医学を知っている医師、看護師、化学分析人員を見つけ出さず、ワトソン夫妻に診察治療と、病人の看護をさせる、医師と看護師を一人の肩に担わせた。
医療助手と看護人員の欠乏の難題を解決する為に、ワトソンは当地の文化ある青年を病院に招き、キリスト教の薰陶(くんとう)を受けると同時に一方で西洋医学の知識を学び、一方で看護作業に従事し、病院の必要な医療看護人員を養育した。
これは青州、山東省全体で、西洋医学の医務人員の養成の先例を切り開いた。山東省で初めての医学教育機構となった。毎年招く学生は多くなかったが、山東省医学教育の起こりとなった。診察を受ける人が増えるに従って、ワトソンはまた病院の隣に土地を買って、そこの建物を潰し(つぶす)て、20人を収容できる産婦人科医院を建てた。毎週4日診察した。患者は病院に入ると、一人ずつ一枚の番号札を発行した。病院の管理、病人の診療、助手の育成のほか、日曜日はワトソンは青州郊外の臨朐、臨淄などの布教個所を巡回して布教し、患者の診療を行った。巡回中に知り合った群衆に、教義を伝え、中国語を学び、自身の中国語水準を高めた。医療行為と布教時間の延長と、範囲の拡大、治療の無料化によって、治癒(ちゆ)する病人が増え、多くの群衆が、また青州施医院に治療に来た。時には多くが遠くから医者を求める重病人が一輪車(いちりんしゃ)に載せられあるいは病院に担ぎ込まれ、ワトソン夫妻は応対に暇がなかった。この為、ワトソンはイギリスバプテスト教会に更に多くの医師を中国青州へ来るよう呼びかけた。
イギリスバプテストの山東宣教師達
1900年6月、義和団の乱が起き、青州民団は病院に駆け込んで建物を壊し、器械や薬物を壊し、外国人を追い払った。7月、山東巡府は軍隊を青州に派遣し、義和団を鎮圧した。1902年、義和団が鎮圧されて中国が静まると、ワトソンは青州に戻って来た。病院修復、施設恢復、対外経営した。1902年6月、アメリカ長老会とイギリスバプテストの代表が青州で連合会議を開き、共に高等教育の共同開催について話し合った。当時の青州の培真書院、広徳書院、登州の文汇館などを統合して、規模の大きさの二箇所学院、濰県文理学院、青州神学院を設立し、同時に医学学校を設立し、キリスト教に忠実な医師を養成することにした。双方は3人の理事を選出し、大学理事会を成立して、大学を総括した。ワトソンは理事の一つであった。1903年、理事会は会議を開いて、医学院を創設する問題で理事会はワトソンの建議を採用して、青州医学堂、済南華美病院附属医学学校を連合して、「山東共和医道学堂」を設立して、学制は4年です。済南に土地を購入して医道学堂を建立した。医道学堂が完成する前に、それぞれ青州、済南、鄒平、沂州(臨沂)の四つの教学点を設けた。学生はまず青州で入学し、一年以内に関連課程を修了し、合格後に済南、鄒平、沂州の教育拠点に転進した。計画内の課程を修了した後、青州に戻って卒業した。
1910年10月25日に中国満州北部の満州里でペストが発生し、11月8日に北満州の中心地であるハルビンに伝わった。その後、河川が決壊したように広がり、満州平野だけでなく、河北、山東などにも波及した。重い病者は、往々にして一家全員が絶命した。
防疫の任務に当たっていた警察官も相次ぎ亡くなり、一時は都会から田舎まで死の影に包まれた。満州ペストは当時の人民の大量死亡をもたらしただけでなく、生存の圧力と経済生活の全面的な恐慌をもたらし、都市人民の正常な生活に深刻な影響を与え、人類の巨大な死亡の脅威に突入する災難に直面した。
ペストが発生した後、清国政府は各所に厳重警戒を命じた。1910年12月、天津北洋陸軍医学院副監督伍連徳博士を全権総医官に任命し、中外各医師を統轄し、医務上の全権を有した。ワトソン博士は招聘専門家として山東共和医道学堂の一部の学生を率いて満州ハルビンに来て、伍連徳博士を助けてペストとの戦いに参加された。1911年3月1日、ペストによる死亡率がゼロになると、ワトソンは共和国勲章を授章された。1915年、ワトソンは募金で周村復育病院に転勤された。1923年に転勤した後、ずっと済南で生活していた。1937年3月15日、ワトソンは済南で逝去し、斉魯大学校内に埋葬された。
墓誌銘:

愛を以て医学博士ワトソン

(James Russell Watson)を記念す

1855年イングランド生まれ
1884年中国へ到る。
1937年3月15日済南で逝去;
また彼の妻〜アグネスも記念す、
1911年イングランドで逝去。
彼女は生命をこの土地(山東省)に26年捧げた、

(彼らは自己の苦労を終えた)

仕事の結果も彼らに隨った。