山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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イギリス和記洋行背後のエックフォード家族

和記洋行は煙台開放後イギリス人が設立した商社の一つで、主に輸出貿易と海運の代理業務を経営し、盛んな時期には煙台港の海運業と保険業務を独占した。その素晴らしさの背後には、

エックフォード家族の苦労と努力が満ちていた。

エックフォード家族のA.エックフォード、V.エックフォードとR.エックフォードは前後して和記洋行の店主を担当した。彼らは財力豊かで手腕があり、商売人であり官吏であり、煙台、青島の商業界と官界に活躍し、近代膠東から華北歴史上に濃厚な一筆(いっぴつ)を留めた。

エックフォード(Andrew Millar Eckford)

煙台和記洋行は1864年に成立し、最初の店主はウィルソン(James Wilson)とコナブル(William Alexander Cornabe)である。1864年、ウィルソンとコナブルとエックフォードは廈門和記洋行(Boyd & Co.)から離れ、開港間もなくの煙台に来て、共同して煙台和記洋行(Wilson Cornabe & Co)を成立した。
大英帝国が煙台で開創(かいそう)した最初で最大の貿易企業の一つ、和記洋行で歴任した店主は皆商人であり官吏であり、商業活動に従事し、また一切の外交業務を代行した。最初の店主ウィルソンとコナブルはノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの駐煙台領事館の代理領事あるいは副領事であり、エックフォード(Andrew Millar Eckford)も当然例外ではなかった。1877年11月、エックフォードはアメリカ、オランダ、ノルウェー、デンマークの駐煙台領事館の代理領事を担当し、また常にこれらの国家を代表して煙台当地の政府方の活動に出席した。
官界、商売で得意満面であったが、エックフォードの感情生活は思い通りではなく、ずっと煙台外国人社会で大変有名な「ゴールデン独身王」であった。1884年、エックフォードの友人で、煙台港港務長のジェニングス(Charles Jennings) が病没した。ジェニングス氏が臨終(りんじゅう)前に、エックフォードにその残った孤児と、寡婦(かふ)5人の面倒を託した。同情から、エックフォードは孤立無援のジェニングス夫人に求婚した。紆余曲折(うよきょくせつ)の後、ジェニングス夫人は彼の求めに応じた。そこでエックフォードは一度に4人の子供の継父(けいふ)となった。後に、この4人の子の兄V.エックフォード(Vyvyan R.Eckford)と弟R.エックフォード(Reginald H. Eckford)がエックフォードの和記洋行の事業を継承した。
1887年、和記洋行の店主ウィリアム・コナブルがイギリスに帰った。1902年、A.エックフォードも身体の問題で煙台を離れた。和記洋行はA.エックフォードの継子(けいし)V.エックフォードとR.エックフォードが管理を引き継いだ。
その内、V.エックフォードが和記洋行の業務を担当し、弟とR.エックフォードは和記洋行青島分社の経営を担当した。
V.エックフォード(1877年英国生まれ)が和記洋行の経営を担当すると、和記洋行は最大の発展を遂げた。本来の対外貿易の輸出入業務のほか、和記洋行は水上運輸業、自動車運輸「賃貸(ちんだい)を含む」業に足を踏み入れ初めて、その代行した船運商社には中印船運会社など20社余りがあった。1930年になると、煙台の本社のほかに、和記洋行は青島、大連、威海衛、瀋陽、ハルビンに皆支社を設置した。
1914年、和記洋行は50周年の盛大な祝賀行事を挙行し、当時の人に「泱泱たる大風、東海に表わる。エックフォード氏がその規を拓き、伯軒先生がこの宰を為す」の句がある。
営業のほか、V.エックフォードはスウェーデンの駐煙台副領事を担当し、煙台現地の社会活動を熱心に参与した。1907年、彼が提唱した煙台外国組合が成立し、組合は彼を主任会長担当に推挙した。V.エックフォードは最初に煙台に近代化港の建設を提唱した商人である。
彼は四方で専門家を招聘して、構想を起草(きそう)し、「煙台ハーバー(港湾)工程会」の成立を促進した。後の彼の貢献を記念して、地方政府は煙台山の麓の埠頭に通じる道路に「愛克夫路(エックフォード通り)」と命名した。1914年北洋政府(民国北京政府)もその煙台で傑出した貢献に対して表彰を与え、五嶋嘉禾勲章を授けた。
1929年、軍閥劉珍年と褚玉璞は地盤を争奪して煙台福山城で激戦し、城内の人民は戦乱の災害に遭遇した。福山城内の住民の生命、財産の安全を保全するために、V.エックフォードは煙台養正小学校校長林秋圃に協力して、福山へ斡旋(あっせん)に行き、最終的に双方が妥協し、福山全域の住民は戦火の悲苦を避けることができた。
V.エックフォードの中国での卓越(たくえつ)した貢献を表彰するため、1939年、イギリス王室は彼にナイト勲章を贈り、ベルギー国王も彼が担当したベルギー栄養領事の傑出した貢献に対して表彰を与えた。
1934年、和記洋行は買弁(ばいべん)(仲介の中国商人)が持ち逃げをして、70年もの長きに渡り経営してきた和記洋行を破産に導いた。同じイギリス人の煙台仁徳洋行の店主マムラン(James Mamullan )が雪中送炭(困った時にはお互いさま)と、すぐさま差し伸べ、和記洋行を接収管理し、そこを茂記洋行に改組した。
このように、「和記」と70年呼ばれた名は煙台で歴史となった。V.エックフォードは改組の茂記洋行で経理を担当した。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、茂記洋行は日本軍に差し押さえられ、英国籍の人員は全て拘禁され濰県の強制収容所に送られ、和記洋行の歴史はここに終結した。V.エックフォードは敵国在留民として強制収容所に拘禁された。「第二次世界大戦」終息後、V.エックフォードは夫人は青島に流浪して、1949年になってやっとイギリスに送還された。

V.エックフォード

V.エックフォードの家族R.エックフォード(1879年生)は父のA.エックフォードが中国離れてから、和記洋行の青島支社の業務を担当した。
1907年5月17日、イギリスは当時のドイツ租界地の青島に領事機構を設立し、R.エックフォードはイギリス政府から主任代行に任命された。数年後、商用、居留民業務の発展により、R.エックフォードは副領事、領事に昇進した。1917年2月、R.エックフォードは和記洋行の管理権を洋行副経理のシアーズ(G.J.Sears)に下げ渡し、自身は副領事の職を担当した。第一次世界大戦中に、英、仏両国は中国で中国人戦争労働者を募集した。R.エックフォードの影響力で、和記洋行はイギリス政府の代理商に任命され、山東省で中国人戦争労働者の募集を担当した。
青島に滞在中、外交、商業活動のほかに、R.エックフォードは積極的に青島現地の社会活動に参与した。1908年、R.エックフォードは青島ゴルフ会を創設し会長を兼任した。1927年、R.エックフォードは青島ヨットクラブ会長に就任し、また青島国際クラブの主任を担当した。
1935年、国民政府はR.エックフォードに紅色白藍鑲綬彩玉勲章(彩玉勲章は民国時期最高の栄誉勲章で、規定によりただ国家元首だけが佩戴でき、または国交国の元首と中国に特殊な貢献のあった外国籍名士に送られた)が授与された。
1941年12月に真珠湾攻撃が勃発すると、日本はイギリスに宣戦し、イギリスの駐在青島総領事館は日本軍に封鎖され、R.エックフォードは敵国外交人員として濰県の強制収容所に入れられた。
1945年「第二次世界大戦」収束後に英国総領事館は再開し、R.エックフォードはイギリス駐青島領事館総領事に再任された。青島の在留民の業務を取り扱い、R.エックフォードはフランス、ノルウェー、ベルギー、スイス、アメリカ、フィンランドなどの国から領事代理に任命された。
1949年に青島解放後、R.エックフォードは青島にとどまり、イギリスを代理して中国政府と連絡を取り、中国と事実上の外交関係の建設を計ろうと企てた。1951年4月21日、イギリス駐青島領事館は命令を受け閉館した。同年8月25日、R.エックフォード〜この一生の大部分の時間を青島で過ごした職業外交家で、商人は沈黙の内にイギリスに帰国した。
これより、かつて膠東で赫赫と有名であったエックフォード家は完全に中国彼ら離れた。