ジョン・ラーべが煙台のブッセを訪問
煙台に滞在中に、ブッセは後に「中国のシンドラー」と呼ばれるジョン・ラーべを接待した。
ジョン・ラーべ(John Rabe)、ドイツハンブルグの人、1908年8月18日に北京に来てから、あるドイツ商店の販売員であった。1911年、ドイツのシーメンスの駐天津支社で会計兼文書となり、後に北京支社支配人に就任。1919年、北京政府はドイツ人居留民を送還し、ジョン・ラーべとブッセは同船でドイツに帰った。送還の途中で、ラーべはノヴァーラ外洋汽船に応急貨幣銀行を設立し、ブッセを応急貨幣銀行支配人とし、両人はこれにより友好をなした。1937年8月末に、ラーべは乗船して煙台に寄り、ブッセと再会した。
1937年夏、ラーべは汽車に乗り北戴河(河北秦皇島)に避暑に出かけた。帰路に、第二次上海事変が勃発し、津浦鉄路(天津上海線)が切断され、この時南京へ帰る唯一の路線は天津から汽船で煙台あるいは青島へ行き、再度汽車で済南を経由して南京へ戻るものであった。1937年8月28日、ラーべは天津から船に乗り煙台を通過したが、煙台で停泊中に、旧友ブッセとシュミットと連絡を取った。
ラーべは「ラーべ日記」中に煙台での経歴を記載している。ブッセは貴賓を接待する態度で彼を国際クラブ(Chefoo Club)へ案内したが、このクラブは中国沿海地区で最も人を刺激するバー・クラブを有していた。
聞くところによるとバーのテーブルの後ろに押しボタンがあり、もしある外国人(ゲスト)が「じゃんけん」のゲーム中に一回負けたとすると、すぐに芝居(しばい)的な場面が出現し、一旦この外国人の命運のサイコロは地に落ちて、バルブがすぐ下げ(さげる)られ、続けて上面に「We always stick foreigners (
外国人は揶揄わ(からかう)れた)」と書いた、木札(きふだ)が現れるという。
同時にラーべは言及している。ブッセは煙台通である。最初のドイツ倶楽部は彼のゲストホールにあり、クラブの規則が壁の鏡額に嵌め込めれていて、ここの数ヶ条のクラブ規則は「第一条:原則として暴飲禁止。第二条、せいぜい日曜は心ゆくまで飲むべし。第三次:二人の面会は日曜とすべし。」である。
ラーべはまた興味深いことを記述している。彼は糖尿病を患って(わずらう)いるので、インシュリンを南京の予備に持ち帰りたいと考えていた。一通り探して、最後にブッセと煙台の市街の薬局でニ管満満のインシュリンを手に入れた。実際、盎斯洋行自身がインシュリンを取り次ぎ販売していた。その結果、翌日にある薬局の店主が空っぽのコンテナを充実させるために発注し、ブッセもこれで一筆(いっぴつ)儲けた。後に、ブッセはラーべの青島行きの乗船票を入手(にゅうしゅ)を手伝い、ラーべはやっと青島を経由して、道を済南に転向し、最終的に南京に帰った。ラーべが南京に戻りまもなく、1937年12月31日に南京に陥落し、世界を震撼(しんかん)させた南京大虐殺が発生した。皆が周知の、南京大虐殺には、ラーべも自身の安全を顧みずに、安全地区を組織し、多くの中国人の生命を保護した。ただあまり知られていないことは、ラーべと肩を並べて作戦した西洋人に、盎斯洋行支配人の娘婿〜クレーガー氏である。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。