ブッセの家族が中国人の救援手段に身を挺したクレーグル
クレーグル( Christian Kroger、1903〜1993)はブッセ二女のエーリカ(Erika Busse)の夫である。ブッセと妻のドーラは3人の女児を生育し、彼女らは皆煙台で生まれた。長女ゲルトルート(Gertrude Busse)は1908年生まれ、1931年8月8日アメリカ駐廈門副領事山智威と煙台で結婚した。二女エーリカは1911年11月21日生まれ、かつて南京で仕事をして、前後してドイツ軍事顧問団、ドイツ大使館で秘書を担当、1936年南京でクレーグルと知り合った。クレーグルはハンブルグ西部のオッテンセンに生まれ、後に輸出設計士となった。1928年に、ドイツ最大の貿易会社の一つ〜礼和洋行(Carlowitz & Co.)から中国作業に派遣され、礼和洋行の販売設計士とクルップ(Krupp)社の代表を担当し、主要な作業地点は太原であった。南京でエーリカと知り合ったから、彼は遂に南京作業への転出を申請した。
1937年8月13日、第二次上海事変の勃発で、南京は爆撃に遭遇し、クレーグルはエーリカを連れて煙台に戻ってから、再び南京へ帰った。11月22日、ラーべは南京安全区国際委員会主席に選ばれ、彼はクレーグルを財務総管に提議した。すぐさま、クレーグルはラーべの最も有力な助手であり戦友となった。彼の本職作業は安全区の財務総管であったが、多方面の作業に参与した。例えば、難民の食料と薬品を見つけ出し、写真機で日本軍の暴行を記録した。彼のこの種の勇敢で畏れ知らずな行為に対して、ラーべは1938年1月22日の日記に「彼は我々の中で行程が最も遠方であり、市街内外をくまなく駆け回った。」と書き、1938年2月21日の日記にはまた「もし占領軍の手の内から貧苦の難民を救出するならば、クレーグルの立ち合いが必要である」と書いている。南京安全区国際委員会財務総管のほか、クレーグルはまた国際赤十字会南京委員会記録の職務を担当した。
1938年1月23日、クレーグルは結婚した理由で南京を離れた上海に到着した。上海に到着すると次々と記者招待会を行い、日本占領軍の南京での暴行を専門的に披露したので、これによって世界のメディアの関心を引きつけた。これに対して、占領当局は当惑(とうわく)のあまり怒りだし、その上何度も駐ロンドン大使を出頭させ「反論」を公開したが、南京大虐殺の真相はもう世界中に伝わっていた。クレーグルは初めて国際メディアに対して占領軍の暴行を公開した南京安全区国際委員会のメンバーであった。まもなく、クレーグルは礼和洋行から香港の業務に派遣された。1938年3月8日、クレーグルとエーリカ嬢は香港で結婚し、1939年1月にドイツに帰った。1985年、中国南京大虐殺記念館が落成公開された。翌年、クレーグルはボン(Bonn、ドイツ)の中国大使館の郭豊民に、日記『南京の運命を決めた日(Days of Fate in Nanking)』を含む、南京大虐殺に関する文字資料を委託した。これは極東国際軍事裁判終結後数十年で、南京大虐殺のために証言の提出を初めて望んだ元南京安全区国際委員会のメンバーである。
1993年、クレーグルはハンブルグ区のブーフホルツ病院で、享年90歳で亡くなった。
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