山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台港借款の改良(訳文)

煙台港の運航と貿易の発展を促進するために、1905年末に初めて煙台港改良の建議が提出され。一道155万税関両(銀)で推定される攩浪壩を建設することが提案されました。凡そ船舶がこの防護区内に来るときは、皆埠頭寄付と費用を収める必要かあり、上述の経費に充てる(あてる)。この建議は上位政府の同意を得られずに、脇に置かれた。1910年1月に、この問題は再び税務司から提出され、また税関総税務司の同意を得て、最後に当地の領事団から外交詩団に提出された。1912年11月、当時の外交使団団長サーヨルダンは覚書(おぼえがき)を外交部に送呈した。翌月、外交部は外交使団団長に通知して、煙台ハーバー工程会の組織した建議はすでに批准され、彼と山東都督に協議決定を通知し、中国官員に会長を担当させた。委員会は5人により構成され、税関監督が会長に任じられ、税関税務司、領事団代表、西商会会長、中商会会長を委員とした。ただし1913年5月、関係部門が最後の協議に達成した時には、端緒はなかった。当月31日には新組織のハーバー工程会は第一次会議を招集し、必要な資金を増加するため、埠頭の貨物費と入港料の税率が決定された。地名を当ててハーバー付加税と呼ばれた。この収入に中央及び省政府が毎年5,000両を援助し、港の建設が遅れることはありません。予想される設計図は1914年に準備され、この工程を完成させる財政計画と共に一緒に中国政府と外交使団に引き渡された。1915年2月に設計図が承認され、ハーバー工程会の着手執行に権限が与えられた。本契約の工事の主要は攩浪壩(防波堰)と防波堤を修築することで、オランダの治港会社と1915年6月に調印されたもので、価格は2,677,000税関両であった。1915年8月、工事が動き初めて間もなく、港の建設資金として融資(ゆうし)が必要であることが判明した。華露道勝銀行が500,000両の貸越(かしこし)に同意し、ハーバー税を返済が終わるまでの保障として期限は変動した。この約款は税関税務司により煙台ハーバー工程会の会計主任に下げ渡され、1918年4月から1919年9月に至って18ヶ月を期限として清算され、毎期114,040曹平両(即ち119,285.84上海両)とした。この下げ渡しの貸付条件の規定により、全部華露道勝銀行が破産前にローンと年利5%が全額返済された場合、ハーバー税を保証は全額返済されるまで保証された。約款はまた、一旦銀行の貸付が全部返済すれば、所有のハーバー税は必ず税務司に届けられ国家税収の借款に返済され、全て完済して止まった。税関の貸付実施に従うのを見るべきで、中国政府は毎年5,000両の補助費を撤回した。国家税収中から借款して建設した攩浪壩防波堤の完成後、ハーバー税は1931年1月になりすでに100万両が蓄積した。事実上借款は少しも返済されなかったので、そこで政府はハーバー工程会に圧力を加え、当初の公約を尊重させた。1932年6月に1項目の協議を達成し、政府が規定した当初の約款の条項を排除した時、条件を緩めてすぐさま埋合せを放棄して将来の利子の要求が自然増長するのに同意して、1932年7月15日から開始し、毎年80,000両の分割決済の方法で貸付を完済した。分期付き返済は予定通り2度進行した。1933年12月政府は資金喫緊(きっきん)により、ハーバー工程会の要求する由縁のためにすぐさま大洋銀1,250,000元(大洋銀100元は71.5上海両に等しく、893,750上海両に等しい)を交付し、補償として3回の分割払いとした。政府は同時に毎年分期の決済を1934年に開始し、80,000両を60,000元に減らしている。政府はまた、もし政府が最後に決定と海港を拡幅する話を通して、彼らは実際に動向の段階で毎年の返済金を放棄することができた。政府が償還を要求する大洋銀1,250,000元を要求し、1933年12月15日数値通りに交付された。

1921年3月に煙台ハーバー工程会は外交使団に、ハーバー税7.5%から税関税を10%に引き上げ、煙台と本土との連結道路建設のための資金に提供する建議を提出した。このように陸地こうての改進を通して、陸運措置を改良し、新港の作用を発揮する事が出来た。この建議は1920年9月27日に、煙台で挙行された第一回中外公開会議上で採択を得た。1923年1月、外交使団は、陸地の公路を税関付加(ふか)税からの貸付は不適合と考えたが、情況が特殊なため、この公路を修築するのは海港拡張計画の必要な一環と見ることができ、そこでただこれに由らず付加税を増加して、外交使団は一部分のハーバー税を抜き出して、外交使団は一部分のハーバー税を抜き出して公路建設の用とすることに同意した。中国政府(中央と省政府)によりハーバー税基金を使用して公路を修築するのをハーバー工程会の管轄に帰するのは不満であると感じ、外交部、内政部と内務部は連合で、このような修築の公路は政府の管轄に帰すると規定した。これはすでにハーバー工程会が受け入れができると証明している。最後に1924年2月22日に公開の一回会議で、ハーバー工程会は三箇所の部門が規定した方法に従って修築した公路は、何の資金を提供しないことを決定した。