山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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一人のイギリス女子の煙台の縁

ロンドンの大衛地帝国戦争博物館の珍蔵品には、奇妙な展示品があり、旧式のタイプライターで廃紙に印字されたレシピがある。このレシピには多くのサラダ、デザート、中国の炒め物、イタリア麺とフレンチのレバーペーストなどの食品の製作方法が記録されている。このような粗末で粗末にできない料理書の、背後には一人の煙台生まれ育ったイギリス女子の愛憎情恨、悲喜離合が秘められている。

煙台の早期生活

2004年、英国財政大臣オズボーンの妻フランシス・オズボーン(Frances Osborne)の処女作『リラ、遙かなる愛の旅路(リラの盛宴: ある女子の東方で経歴した愛と構想の物語、Lilla’s Feast: One Woman’s True Story of Love and War in the Orient)』が出版され、これで人々は大英帝国戦争博物館のレシピの疑問を解き明かした。このレシピの作者はリラ(Lilla Jennings Howell Casey)で、彼女は19世紀末に煙台で生まれ、育ったイギリスの女性で、またフランシス・オズボーンの曾祖母で、レシピは彼女が1942〜1945年に濰県の収容所に拘禁された時に書かれたものである。ある意味で言えば、リラは現実的な煙台出身です。父親はイギリスからのチャールズ・ジェニングスであり、当時東海税関の港口主幹に着任し、船舶のバースを指定するなどの工作を担当した。リラには双子(ふたご)の姉アイーダと、二人の兄ビビアン(Vyvyan)と、レジナルドがあった。リラは出生後間もなく、父親のジェニングスは狂犬(きょうけん)に咬まれて狂犬病で自殺し、死後毓璜頂の西洋人在留者墓地に埋葬された。ジェニングスが亡くなると、この家庭はすぐさま経済的支柱を失った。生計に迫られ、リラの母親アイリスは間もなく和記洋行の仲間エックフォード先生と結婚した。リラも継父(けいふ)に従ってリラ・エックフォードと改名した。両名のお兄はそれぞれVエックフォードとRエックフォードと改名された。

美食好きの女将(おかみ)

リラの継父のエックフォードは煙台で成功したイギリス商人で、前後してアメリカ、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの駐在煙台領事館領事を担当したので、毎日家で数知れない客人を接待した。リラの母親アイリスは典型的なイギリスヴィクトリア時代の女性で、主人に絶対服従し、上はホールを取り仕切り、下は厨房(ちゅうぼう)を取り仕切った。19世紀末から20世紀初頭の煙台には世界各地から外国人が大量に集まったので、リラは小さい頃から色々な人に接触し、彼らが世界各地から持ちよる美食にも興味倍増であった。リラが残したレシピでには、我々は中国独特のエビのニラとキノコのビーフン蒸など見ることができ、また西洋のビーフステーキ、イタリアのジェラートなどを見ることができる。主人についてインドへ行ってから、リラはまたカレーを作ることを学びました。美食を作る手芸は一度ならず彼女の婚姻を救済し、彼女が苦難の時の精神的支柱となった。
リラは小さい頃から中国のメイドの面倒で成長し、家庭や受けた観念はイギリスヴィクトリア時代の淑女(しゅくじょ)で、結婚以後は一人の賢妻良母となった。リラの情感生活は度々ねじれて、一生に三度の結婚を経歴した。
1901年、リラの最初の夫、即ちインドのイギリス陸軍上校アーネスト・ハウエル(Ernest Alfred Russell Howell)と結婚した。ハウエルが休暇で煙台に来た時、リラの姉の夫の紹介でリラと知り合った。結婚後、ハウエルがリラが和記洋行の継承人ではないことを知ってから彼女を冷遇したが、リラの素晴らしい料理はこの婚姻を救った。1915年にハウエルは第一次世界大戦中に陣中で死亡したが、この結婚でリラは息子と娘を残した。リラの二人目の夫(未婚であった)は、今日のイラクへ行って彼と結婚した時、ペルシャ湾で殺された。
彼女の二人の夫は彼女に多くの財政を残さず、生活は逼迫したので、リラは芝罘へ戻り再び生活を始めることを決定した。煙台では、リラはまた求婚者に出合い、それは刺繍などの手芸品を経営する煙台匯昌洋行(Casey&Co.)の店主オーネスト・キャシー(Ernest Casey)であった。1935年、両人は上海で結婚した。結婚後リラは夫の経営する商社に協力した。キャシーはとてもリラを愛して、彼女に独立経済を持たせた。プライベートな金銭のあるリラは煙台の海辺で幾棟かの海辺の別荘を建造し、この一時期がリラの一生で最も幸福な時間であったが、この時には、「第二次世界大戦」の陰もゆっくりと煙台に忍び寄っていた。

美食を愛する囚人(しゅうじん)

1938年に、日本が煙台を占領すると、多くの欧米人士は中国を離開した。リラ夫妻は膨大な商社の資産、別荘に対して、切り離し難く、また日本人が欧州の人士へ手を下すとは信じられなかったので、煙台を離開しなかった。1914年12月に「真珠湾事件」後、日本は米英に対して宣戦し、リラ夫妻の匯昌洋行は封鎖され、家庭財産も没収され、二人は日本軍に煙台毓璜頂の収容所へ拘禁され、後また濰県の集中収容所へ送られた。彼女の兄嫁Vエックフォード夫婦とRエックフォード夫婦も収容所へ拘禁され、エックフォード家族は日本人により「一網打尽」とされた。
強制収容所の厳しい生活条件にも関わらず、60年代のリラは、毎日、きちんと化粧、きちんとした服、そして細心の注意を払った髪型で、優雅な態度を維持しています。ほとんどの人は食糧不足のために飢餓(きが)の危機に瀕しています。上質な料理に飽きることのないリラにとって、絶妙な料理は更に忘れ難いものであった。
彼女は集中キャンプであらゆる種類の紙を集め、レシピのページを次々と書き留め、さらには最も初期の「フュージョン料理」(様々な料理の材料と技術を組み合わせた料理)を組み合わせて新しい食事を作り出すものを発明したスタイル、そして英語のウスターソースと醤油で新しいソースを作成した。さらに、彼女はレシピで日本の鉄板焼きもからかいした。
食糧が非常に不足していた強制収容所では、リラがごちそうのメニューを書き、料理本は収容所の人々のお気に入りの読書となった。この種の精神勝利法に頼って、リラはこの一生中最も困難な時期を渡り切った。戦後、リラ夫妻とエックフォードは解放され青島に来た。彼らは煙台に帰る準備をしたが、戦争に隔てられ、青島で静観するしかなかった。青島解放後、リラ夫妻とエックフォード夫妻はイギリスに送還された。1983年、リラはイギリスで亡くなったが、この煙台で生まれたイギリスの女性は、一生困窮流浪したにも関わらず、かえって積極的な精神状態で人生の各種困難、挑戦に対して、優雅に一生を過ごした享年100歳であった。