山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台のユダヤ人ロスチャイルド

1920年代、煙台は「世界ヘアーネット業中心の一つ」で名が世に通っていた。煙台で経営していた、ヘアーネットには英国の極東洋行(実にアメリカの商社)、仁徳洋行、ドイツの万豊洋行と道孚洋行4家があった。この4大商社で、アメリカの極東洋行の影響は最大であった。1930年代には、極東洋行は煙台で輸出工芸品を経営する商業のトップであり、この一商業の奇跡を開創したのは外国商社の経営者ロスチャイルドであった。ロスチャイルド(Mervin Rothschild ,1888〜1974)は1888年にアメリカの首都ワシントンのコロンビア特区に生まれた。父親はドイツ国籍のユダヤ人で、1871年にアメリカへ移民した。

ロスチャイルドの姓は“Rothschild ”で、宋鴻兵は『貨幣戦争』書中でユダのロスチャイルド家族(Rothschild Family )にこの一姓氏が属すると特に書いている。この推断によれば、ユダヤ人でありかつ同姓のロスチャイルド家族はあるいは(ユダの)ロスチャイルド家族と一定の連携があるのかも知れない。

1920年代中期、ロスチャイルドはアメリカ遠東洋行から煙台に派遣され、遠東洋行煙台支社の経理を担当した。遠東洋行(The Rieser Company Inc)はユダヤ人ノーヴィン・リーザ(Norvin Rieser)が創業した主にヘアーネットの経営の多国籍企業であり、本部はアメリカニューヨークにあった。煙台に来る前は、ロスチャイルドはイギリスで遠東洋行のロンドン会社を開創し、最初ユダヤ人のストラッサー(Harry Strausser)がマネージャーを担当した。遠東洋行の海外代理店は経営業務上独立しており、そこでロスチャイルドには十分に才能を発揮する機会と空間があった。彼の経営の元、遠東洋行の煙台支社は煙台乃至(ないし)は山東で手工芸品の輸出経営する商業のトップに発展した。

最初、遠東洋行煙台支社は「ヴェニダ(Venida)」ブランドのヘアーネット種の製品のみで経営した。ロスチャイルドが引き継いてから、まず煙台支社の製品の生産プロセスを細かく全面的に調整し、大幅に製品生産の生業の専業化の水準を高めた。この外、煙台支社はまた人毛(じんもう)の脱色技術を掌握して、それを使って生産したヘアーネットの品質はそのほかの会社の製品を遥かに超越し、しかもヘアーネットの一産品の輸出方面は極大の優勢を獲得した。

ロスチャイルドの慎重な経営のもとで、遠東洋行は山東のヘアーネット経営の傑出者となった。1920年代、中国のヘアーネットの主要は山東に集中し、しかも山東のヘアーネット業は全てある種婦人の家庭での手工業に掛かり、材料を預かり結束し、件を計算し材料を取るので、その発展も以前に出かけることのなかった膠東の婦女に作業の機会を提出した。袁鳳翊の『煙台の金融の工商業に及ぼす概況』文中に、「煙台の地は、数万の女工がここに集中し、皆にこれに頼って生活を維持した」と言及している。

1925年から、煙台の「レース編みの繁栄と、ヘアーネットの衰退」が始まった。この現状を狙って、ロスチャイルドが経営する遠東洋行は時々に経営方向を転変し、経営範囲を開拓発展し、刺繍、刺繍針、ハンカチ、レース、麦わら製品、木製品と帆布(はんぷ)などの手工製品の生産を開始した。これらの手工製品の多くは煙台一帯で生産され、加工業務は広大な農村に普及し、製品の輸出は煙台周辺の手工業の発展を連動し、煙台シルク商の李見之は日増しに興るネット(手工芸品)の輸出利益などが多く、遂にアメリカ商遠東洋行は協議を達成し、パッケージ方式で昌邑県に遠東支社を設立して、当地の農村に荷を卸し、ヘアーネットの留め具の生産業務を開設した。1930年、遠東洋行は昌邑県に刺繍工場を開業し、主にヘアーコード、刺繍ハンカチを清算した。遠東洋行は昌邑の、ヘアーネットの留め具、刺繍業の発展を導いて、1933年にはこの地のヘアーネットの留め具と、刺繍業の発展は30家余りとなり、製品は煙台、青島から遠く英、米などの国に販売された。ロスチャイルドの回憶によれば、ピーク時には、膠東及び周辺地区には20万人の女工が遠東洋行のために仕事をしていた。

遠東洋行の発展とロスチャイルドの勤勉な仕事は密接に関係していた、彼は毎週6〜7日働き、利潤を追求するために、彼は商社の労働者に対して非常に厳しいです。1935年末には、煙台の道孚洋行、遠東洋行、億中公司、茂興などの資本家が銅貨の代わりに支払った価値の低い紙幣で工賃を支給し、手口を変え労働者から搾取(さくしゅ)したので、ヘアーネットの作業者は激怒した。1936年1月、女工の劉錦秀、馬金波などの指導で、外国人商社の作業者は全業界でゼネストを起こした。遠東洋行が煙台で残した大きな汚点である。

煙台最大のヘアーネット、刺繍の輸出企業の一つの企業経理ロスチャイルドが煙台で外国企業で大きな影響力があり、煙台では少なからざる公共事務に参与した。1938年、ロスチャイルドは煙台西南商会副主席に選ばれ、1939年にはまた西南商会主席に選ばれ、さらに1938年には芝罘クラブの名誉事務総長の職を担当した。

ロスチャイルドと一緒に煙台に来たのは彼女の妻サイード(Saide Rothschild )と2人の息子カール(Carl Rothschild)とノーヴィン(Norvin Rothschild)であった。彼の息子のカールはかつて燕京大学で一年勉強し、後にアメリカのメリーランド大学で医学の専門教育を完成し、1938年に卒業した。第二次世界大戦の期間に、カールはアメリカ陸軍航空隊軍医として、中国、ミャンマー、インド戦区へ派遣され、アメリカ陸軍航空隊の中国基地〜広西柳州で働いていた。ここで彼は中国言語、文化に孰通(じゅくつう)したので大変米軍の重視を受け、「飛虎隊(Flying Tigers、アメリカ合衆国義勇軍)」のシェンノート(Claire Lee Chennaul)の褒奨を受けた。後にカールは「第二次世界大戦」の傑出した貢献でアメリカ政府が授与したアメリカ軍のブロンズ勲章を獲得した。

ロスチャイルドの商社の商売が盛んな頃、1938年2月3日、日本軍が煙台を占領した。この後、日本軍は煙台の物資に対して、金融などの方面で全面統制施策を実行し、この行いは大々的に商社の煙台での経営空間を圧縮し、その煙台での商売を日に日に艱難(艱難)とした。このような状況で、ロスチャイルドのユダヤ人の商業の知恵は十分に発展して来た。煙台での商売が次第に困難になったのを見た時、ロスチャイルドは上海で遠東洋行の支社を開業し、刺繍針のこの一種の産品のみを経営した。実際、ロスチャイルドの眼光は独創的で、上海支社の経営は大変成功した。

日本の煙台占拠期間には、ロスチャイルドは日本人の商業上の価値を見て、あらゆる手段で日本の岩城商会の経営者に近づき、これと良好な関係を築いた。この背景により、日本軍は煙台の貨物の出荷を制限したにも関わらず、ロスチャイルドはよく貨物運送当額を獲得し、かつ貨物運送価格は煙台のほかの外国経営商社より10%低かった。このほか、ロスチャイルドは日本人発行の聯銀券(中国共同準備銀行交換券)と米ドルの闇為替相場、公式相場の差額を利用して、外国為替の利益カバーを手に入れた。占領区域の物資を搾取するため、中国の経済の財産を掠奪し、「戦争で戦争を養う」戦略に服務して、日本は華北占領区域で全面的な金融統制政策を実行し、また「中国連合準備銀行」を設立し、大量に聯金券を発行し、これを華北占領区の唯一の法定貨幣とした。当時公私化為替率は3〜4元の聯金券で1米ドルに兌換(だかん)したが、闇為替率は12〜15元聯銀券で1米ドルに兌換した。ロスチャイルドは聯銀券と米ドルのこの為替率の差額を利用して、大いに利用交易を進行して、最終的に巨額の資金を稼ぎ取った。

もう一つはロスチャイルドのユダヤ人の商業知識を十分体現している。1941年7月、「真珠湾事変」の前に、日本軍隊は煙台の遠東洋行の資産を凍結し、外国商社の業務を停止した。この種の状況の元、ロスチャイルドは中国商業の仲間は彼の境遇が艱難なことを意識し、奮起して遠東洋行の倉庫から数千ポンドの毛糸(けいと)を密かに転売に出し、この毛糸は上々な価格で中国人に売ることができた。しかしロスチャイルドはこの建議を拒絶し、彼に、日本の占領軍は洋行の資産を凍結して、洋行倉庫内の毛糸の在庫と、勘定明細は大変はっきりしていて、もしこそ中国人へ売れば、日本人は必ず遠東洋行の面倒を見つけることができると、訴えた。実際、ロスチャイルドの日本占領軍に対する判断は正確であった。

後に、日本の占領軍が在庫を精査した時、洋行倉庫内の毛糸の在庫が完全無欠であることを発見した。彼らはこの戦略物資を没収したが、ロスチャイルドの誠実さから、彼に100箱余りの刺繍針の商品を残した。1941〜1945年、この100箱余りの刺繍針は遠東洋行の倉庫内にそのまま残り、戦後すぐにロスチャイルドは煙台に戻り運び出して販売した。ロスチャイルドは回憶録で、戦争後復帰した中国のアメリカ商人が自分の戦前の在庫をまた取り戻すのをまたできるものはなかった。自分だけは例外であった自慢している。これに対して、ロスチャイルドはそれを自身の正々堂々とした行為と誠実的品質の賜物のとしている。

災難の後で生まれ変わったのである

1941年12月、「真珠湾攻撃」後、太平洋戦争が勃発し、アメリカ資本の遠東洋行は徹底的に閉鎖され、日本軍は中国占領区の英、米などの在留民を強行拘留、拘禁隔離し、当時上海に居たロスチャイルドを浦東の強制収容所に拘禁した。中国に拘禁された高価値のアメリカ人居留民に対して、アメリカ政府は救助の手段を実施した。アメリカ政府は身代金を建て替え、浦東の強制収容所に7か月拘禁されたロスチャイルドと2,000アメリカ居留民の釈放を獲得した。後にロスチャイルドはスイスの「グリプスホルム(Gripsholm)」号汽船でアメリカに送還された。

1943年12月2日、ロスチャイルドがアメリカに帰国すると、遠東洋行の経営者ノーヴィン・リーザは当時のアメリカ放送界の有名人ケイト・スミスが彼に対して単独インタビューを手配した。単独インタビューで、ロスチャイルドは形式に関わらず楽観できないが、彼は中国市場に対する自信に満ちていて、戦後中国はアメリカに無限のチャンスを提供すると認めている。ほかに、彼は戦後も中国に復帰して、遠東洋行の中国での事業の継続を希望している。

1945年9月、中国人民は抗戦に勝利し、同年10月、ロスチャイルドは最初に上海へ帰ったアメリカ商人となった。この時ロスチャイルドは戦後の中国で存分に腕前を発揮し、再び自身の中国での商業での燦爛を切り開いた。

彼は上海で安羅(レヴィーグラルド)洋行を設立した。安羅洋行の加工区は初め上海付近の農村地区にあったが、上海地区の工賃の水準はやや高かったので、利潤の空きは少なく、そこでロスチャイルドは煙台に一帯に戻り巻き返したいですけど。ちょうどその時、中国の解放戦争は激烈となり、山東一帯にはもう戻れず、ロスチャイルドは南方での発展の転向を決定した。当時、上海周辺の温州、無錫などの地区の婦女もレースの技術に挑んだが、工賃水準は低かった。そこでロスチャイルドはこの地区の加工業務を当地の中国代理人に引き渡した。

解放軍の南下に従って、ロスチャイルドは商社の業務を次第に日本へ転向し初めた。1948年に、ロスチャイルドは日本で商社を設立し、商売も大変成功し、おおよそ18年経営を持続した。1961年、ロスチャイルドは台湾地区に進入し業務を発展させた。

1967年になって、79歳であったロスチャイルドはやっと引退してアメリカに帰った。アメリカに帰ってから、彼は自身の中国での商売の経歴を大変深い反省と総結を進行した。1974年、煙台に伝説的業務経歴を残したロスチャイルドはアメリカのニューヨークでなくなり、享年86歳であった。アメリカのニュージャージー州マウントモリア公衆墓地に葬られた。