山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台でのグローセン医師


近代煙台開港後、大勢の西洋人がここへ商売、布教、仕事に来た。その中には在る兼業のノルウェー人があった。彼はフランスの天主教の施病院(煙台山病院の前身)の外科医であり、また東海関医務官で、同時にノルウェー、スウェーデンの煙台副領事であったのは、グローセン医師であった。20世紀初期、グローセン医師は煙台で20年余り仕事をして、その間近代煙台で多くの戦争、流行性の伝染病が起こるのを経験した。これらの天災や人為的(じんいてき)な災害対面し、彼は人道主義の精神を発揚して、治病して人を救い、死から救い手当てをして、傑出した貢献を作り出した。

1901年、義和団の防御

グローセン(1867〜1920)はノルウェー人で、1867年にノルウェーのノルでホフ(Norderhov)に生まれた。1886〜1887年にノルウェーで服役し、服役が満期後、前後してノルウェーの首都オスロのクリスティー大学、イギリスのリバプールとフランスのパリで医学教育を受け、1894年に医学博士の学位を取った。1896年に、グローセンははるばる波を超え煙台に来て、まず煙台のフラン天主教病院に招かれ、間もなく外科の主治医となった。グローセンは煙台の数えるほどしかいない西洋医学を専門的に訓練した医師の一人で、医術に精通していたので、すぐに東海税関に招かれて税関医務官として、同時にロシアの駐煙台領事館の医務官を雇われた。
このほか、グローセンは熱心な社会活動家で、積極的に外国人居住の事物に参与した。彼はやはり煙台外国人代表会のメンバーで、近代煙台競馬会が組織する競馬活動に参与し、騎手も担当した。同時に彼は園芸家でもあった。煙台での巨大な活動能力と良好な社会への影響力により、1898年9月、グローセンはスウェーデン、ノルウェー両国政府の招聘で駐煙台名誉副領事となり、1920年代に煙台を離れてやめるまで、この職を担当した。任職機関にグローセンは任務に勇み(いさむ)、積極的に西洋人の煙台での権益を擁護した。特別なのは1901年の義和団運動の期間に、グローセンは煙台領事団のメンバーとなり、そのほか各国の領事館と共同で義和団を防御する策を計り、登莱青兵備道李希傑に緊急措置を取るよう督促(とくそく)した。グローセンはまた煙台西部移民組織の欧州義勇軍に自ら加入し、煙台の中国西洋人居住区を区分する街道を日夜巡邏し、煙台の外国人居住区の安全を維持した。
義和団運動の徹底の失敗の後、1903年1月12日(光緒28年12月24日)、東海税関兼登莱青兵備道李希傑は光緒皇帝に上書して、「臣は庚子年間を調査すると、直隷に匪賊が挙がり争いを初め、突然兵端が始まり、南北が隔絶し、山東は南北の衝撃を受け、煙台は海路の要所にあり、商人は移動に怯え(おびえる)、9割方空き室となり、各国の煙台に泊まる艦船、船舶は希望に向かい、あたふたと排斥を心配して手を出すのは難しい」と称している。幸いに各国駐煙台の領事は煙台道台と「心を合わせ協力し、戦端を潜め、実に力を属して大局を顧み」た。各国駐煙台領事はよく「堅く約束を明白とし、各国の兵士に皆その領事公署と外国商の場所を保護し、巷に乱入させない。各領事は皆定章を遵守(じゅんしゅ)し、西洋兵の乱行をさせず、交渉があれば、どんな平和交渉もする。李希傑は光緒皇帝に各国駐煙台領事に対して、奨賞を与えた、労勲を彰することを、奏請した」。グローセンはこれより大清帝国第叁等第二級を獲得し、「双龍宝星」勲章一枚を御賜した。彼と同時に奨賞を獲得したのは駐煙台領事では、アメリカ領事ファーラー、フランス領事レンズ、日本領事田結鉚三郎、オランダ領事ジベリなどであった。

1902年、コレラを遮断

20世紀の初め、グローセンは東海税関の医務官に任命された。この職務は税関職員の医療保健の責任以外に、他に港に出入りする船籍の検疫担当し、船上で医師が足りない時に配慮と病気の船員の治療を担当した。グローセンが東海税関で医務官を担当した間に、煙台は前後して2回の深刻な伝染病が発生した。最初は1902年のコレラで、もう1回は1911年のペストであった。
1902年(光緒28年)、中国はほぼ全境で深刻なコレラが発生した。北方で、北京・天津を中心とした直隷地区、営口を中心とする奉省地区と冀魯連接地帯のコレラの状態が最も深刻であった。コレラは大範囲に拡散し、華北で最も重要な通商港の一つ〜煙台に厳重な影響があった。
繁忙する煙台港は重大な伝染病の流行が出現し、病毒は内地に拡散する可能性が極めてあった。しかし実際は、1902年の全国のコレラ大流行期間に、煙台は世人(せじん)が想像するような重大な病状の発生は無く、これはとても大きく税関医務官を担当したグローセンの功に帰している。
1902年6月、国内その他の港でコレラが出現したとの噂を聞いた時、グローセンはすぐさま煙台港で検査を要求し、港に厳格な審査検疫所を設立して、コレラの港からの流入を防止した。1902年9月、グローセンは『煙台健康報告』に、他の港でコレラとペストの両種の伝染病が出現したことを鑑ると、本港を往来する船舶も一律に厳格な検査を受け入れるべきであると、言及している。
このほか、グローセンは外国人居住民に衛生防疫措置を要求した。彼はほぼ毎日煙台各地検査を進行し、いつでも当地のホテルで検査を進行したが、一例の確実なコレラの症例も発見しなかった。いわば、1902年の煙台では重大なコレラの発生がなかったのは港での厳格な審査に帰していて、その中でも税関医務官のグローセンが煙台でのコレラの病状の拡散の抑制に対する功がなくてはできなかった。

1911年、ペストの狙撃(そげき)

煙台は幸いに1902年のコレラを逃れたが、1910〜1911年には、より恐ろしい疫病が襲来し、これは中国近代史上で規模が最大のペストの大流行であった。今回のペストは東北を起源とし、後に北京・天津、華北、山東などの地に波及し、6万人近くがこの大流行病に遭遇した。
ペストが東北で爆発すると、大勢の東北の労働者の山東出身者が煙台港を経て帰郷し、ペストも帰郷者に従って煙台各地に拡散し、その後急速に蔓延して来た。
ペストが発生後、「煙台当局は検疫を発表し、各港に船舶の停泊を禁止」、すぐさま辺境に巡査と村長による防衛見張(みはり)が組織され、内外人士の出入りを禁止した。煙台の芝罘島、西沙旺に海区の検疫逗留所と検疫医所設置し、同時に龍口、羊角溝などで検査した。
残念なことに時すでに遅く、「市民の罹患(りかん)者は多く数千人に達し⋯⋯毓璜頂の診察所を除いて、東山のイギリス内地会と煙台山下フランス天主教会の各診療所」はペスト患者の応急処置を進めた。
『煙台市志』の記載によると、この年(1901年)牟平、文登、黄県、福山、煙台等の地でペスト、コレラが流行し、4.39万人が死亡し、その中で煙台は3000人余りが死亡した。煙台はペストの重大災害地区で、病状が重大のは、疑いなく確定している。
税関医務官でフランス天主教施病院の医師、グリンソンと毓璜頂病院の主任オスカー・ヒルズ医師はともにペスト患者の予防治療の第一線にあった。ビルズ医師はペスト患者の応急治療、グリンソン医師は検疫と隔離工作を担当し、煙台のペスト伝染病例に対して観察を進行し、時にペストの伝播状況を上申した。
1911年4月、中国政府は11国家の専門家を招いて奉天(瀋陽)で世界史上初の国際ペスト会議を開催した。この会議上、グリンソンはペスト患者の観察記録を提出したが、これは中国のペスト病状の性質を一歩進めて確認し、直接得た医学の観察資料を提供して予防施策を提出した。

1914年、日独戦争での戦地救護

もしコレラ、ペストが天災ならば、その戦争は疑いもなく人災である。1914年、日独戦争が青島で勃発した。この戦争中に、グリンソンは中国赤十字会に海陽県臨時分会医長に任命され、戦地の救護作業に参与した。
1914年に第一次世界大戦が勃発し、協約国の日本は8月24日に同盟国ドイツに開戦した。9月2日、日本軍は突然龍口及び莱州から上陸し、ドイツに対して宣戦の名を以て中国領土を侵犯(しんぱん)した。民国政府は日本の軍事行動を阻む力がなく、やむを得ず日露戦争のやり方を援用して、濰県駅より東の地区を日独交戦区とし、その他の地区を中立区と区画した。
膠東半島は戦争の暗雲に覆われ、列強は中国領土の争奪のために殺し合ったが、北洋政府はいわゆる「中立」を厳守した。戦争は膠東人民に巨大な災難をもたらし、中国赤十字会は『申報』上で、「欧州の宣戦は、、風雲万変し、浩々とした戦禍は、東漸して日増しに迫り、我が山東沿海一帯の計り知れない同胞(どうほう)も悲惨な池魚が災難にかかったように、不安で北望するだけで、心痛に何を言うべきであろうか」と疾呼(しっこ)している。
民間で組織した中国赤十字会は「熱心な志士、経験のある医師が手を取りあい皆来て、十字会の救助を賛助」するよう呼びかけ、傷兵及び難民を救護した。「煙台が戦地に近く、交通は便利」で、中国赤十字会事務局は特別に煙台分会に臨時病院の建立の世話をして、傷兵を治療する根拠地、並びに重要な場所を選んで分院数ヶ所を組織して重症兵士の至近での治療の便とした。
中国赤十字会創始者のひとり呂海寰会長は青島に鎮座して、山東で組織を広げ医療の力量を強めた。煙台海陽県臨時分会医長となり、グリンソン医師は重症兵士難民に対し救護医隊を組織し、応急治療を組織した。
9月2日から11月7日駐在青島ドイツ軍は敗戦して投降し、たった2ヶ月の日独戦争は膠東半島を「死者が道にあふれ、孤独な民が残され、残念な状態」とした。中国赤十字会は膠州東で「万人を救える被災者を救済」した。海陽県臨時分会のグリンソン医師は、国際主義精神を発揚し、積極的にこの場の中国赤十字会が組織した民間戦地救護の任務に参与し、そこで最大の貢献をした。
惜しいことに、天は長寿を待たなかった。1920年3月2日、僅か53歳でグリンソン医師は亡くなった。この20年来ずっと医療救助の第一線にあった、近代煙台の医療救助の事業の発展を見て勇ましく貢献したノルウェー人は、近代医療衛生史上一定地位を占める人物で、煙台人に永遠の記憶に名を残すのに値している。