大連の有名な橋➖青泥洼橋(セイディワキョウ)
大連の多くある古い橋の中で青泥洼橋は市内中心部の商業圏で名が最も通っている。しかし多くの人がこの橋を見たことがない。
1899年に帝政ロシアが旅順・大連を租借した時、労働公園一帯は「西青泥洼」村と称し、青山下の海に入る河川が西青泥洼河と呼ばれていた。ロシアは川に三本の木橋と一般の鉄橋を架設(かせつ)した。その中の一本が、今日の中山路と大商歩行街の交差点にかけられ、全長10メートル、幅12メートル、4本の木製橋杙(はしぐい)で支えた。この橋が青泥洼橋の前身である。
1908年、日本は後に木橋を鉄筋コンクリートの単アーチ橋を建設した。1922年に橋面を広げ、欄干を設けて、「常盤橋」と名付けられた。
この橋は一方で旧大連の市街の東西交通の大動脈を繋げ、また一方で大連市で初めて整備された都市計画建設の原点となる地理座標である。
1946年6月、大連地名の非日本語をし、市政府は日本の旧地名を廃止したため、常盤橋を青泥洼橋と改名した。1970年代に橋は取り壊され、元の青泥洼河をも暗渠に取り替えられ、名だけあり橋のない変な場所が出現した。
青泥洼橋と言えば、旅順の商業圏で最も名声のある民主橋と想い。また、民主橋は橋がないこと有名である。最近旅順の一人の老人が私に言ったのは、旅順の中心部の河の橋は壊されず、蓋もされておらず、麗江古城の小橋流水にも匹敵(ひってき)する。現在は老人達が民主橋を見つけることができず、若者達が民主橋を知らない。
この一点から見れば、青泥洼橋と旅順の民主橋の運命はよく似ています。
我々は次手に大連と旅順のいくつかの古い橋の写真を見て見よう
日本橋(今の勝利橋)は1899年に新建し、初め木製架橋で、ロシア製木橋である。日露戦争後、日本植民地当局は1907年にそれを鉄筋コンクリートの構造に改造し、1908年3月に完成して、日本橋と称した。大連解放後に勝利橋と改称した。1924年12月建設した大連港港湾橋(今の港湾橋)
旅順東洋橋(今旅順口区海岸橋)
旅順日本橋(改造後、旅順解放橋)
大連から旅順までの公路(今旅順南路)上の橋の構え
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