山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

西洋の宣教師が煙台に避難

19世紀末の初め、中国の北方は世界に衝撃を与えた社会運動、即ち義和団の運動が発生した。義和団運動は「清朝を助け西洋を消滅する」をスローガンとし、中国滞在宣教師と中国のキリスト教徒を包括する、西洋の中国に駐在する人士に狙いを定めた。大規模な群衆暴力運動であった。義和団の追討から逃れるために、大勢の西洋の宣教師が華北各地から続々と煙台に避難した。この非常事態の時期には、海港都市煙台は西洋の宣教師の安全避難所となった。

袁世凱の鉄腕は着実である

義和団運動はまた「庚子事変」とも称し、西洋人は「拳法の反乱」と称し、山東から出現し、元は19世紀末にドイツ人が山東で鉱物の開発に躍起になり、鉄道を建設し、山東で長年に起こった人民とキリスト教の矛盾を呼び起こした。
1899年、臨沂で沂州教案(教会事件)が発生した。同年10月上旬、山東冠県の飛び地蒋家荘(今の河北省邢台市威県)にキリスト教信徒と当地民衆に衝突が発生し、義和団と当地の教会が衝突した。この後、義和団運動は山東各地あちこち発生した。
当時の山東巡撫は義和団に「拳民護神」と呼ばれた毓賢である。毓賢は熱狂的な排外(外人排斥)主義者で、彼は義和団に対して「討伐と招撫を併用し、慰撫を主とする」措置で、これは実際に一種の放任の態度で、彼らに騒動を先導させた。
しばらく、義和団の発展の態度は凄まじく(すさまじい)、山東一帯は一層混乱し耐えられなかった。各国の駐在公使は忍ぶに耐えられず、何度も清政府に圧力をかけた。例えば、アメリカ公使エドウィン・ハード・コンガーは直接に清朝各国総理衙門に対して、清政府が毓賢を取り替えることの要求を提出させた。
毓賢によって山東の局勢は制御出来なくなり、1899年12月、西太后は年齢40歳の政治実力者袁世凱を毓賢に変えて山東巡撫の事務取り扱とした。赴任当初、袁世凱はイギリスの宣教師ブルックスの殺害事件に遭遇した。この種の厳しい状況に直面して、袁世凱は毓賢の「慰撫を主とする」の政策を改め、鉄腕の手段を以て山東義和団の勢力を打撃した。彼はまず「鴻門の宴」で義和団の山東での勢力拡張を終結し、その山東以南の省に拡散するのを阻止するのに成功し、打撃を受けた山東の義和団をただ直隷に移転させた。
義和団を打撃する基本上で、袁世凱は継続して「規則に照合して、力を尽くして保護」する事を強調し、各地方官に宣教師を保護し、信者と民衆の衝突の処理の平行を慎重にすることを要求した。同時に、「領内のキリスト教教徒は教会から退出する(信教しない)ように、二度と修行しないように」と地方の役人に密かに指示することもあった。
袁世凱の鉄腕の鎮圧で、1900年夏の初め、山東の「義和団」各所の拳法場は、皆撤退」し、あるいは「地方に隠れて、私的に伝授」して、運よく生き残った団民は秘密活動に転じ、あるいは直隷に進入して闘争の堅持を継続した。

宣教師の煙台への避難

1900年煙台に避難した宣教師達
1900年6月13日、大規模な義和団運動が北京で勃発した。6月21日、清政府は「各国へ宣戦布告」を配布し、西洋列強に対して、西洋列強に対して「大討伐して、雌雄(しゆう)を決する」と称し、また各省の督撫は各所の挙民に「招集してグループ結成し、外国外国の侵略と圧力支配が反旗を翻す」するよう命じた。清政府は義和団の支持を公開したため、山東義和団は再び高揚した。この種の形勢の元、袁世凱は密かに「東南互保」に加わり、山東を清政府と列強の戦争の外に中立とさせた。列強が入境する口実を避けるために、山東を保全し、袁世凱は道、府、州、県に三日を期限として、境内の西洋人宣教師と鉄道と鉱山を取り扱う西洋人を一律に通商港へ護送した。同時に、「煙台道と各領事と相談し、主に煙台で東南各省を模倣して、派兵して煙台を保護し,内地の各西洋人は派兵して保護し、煙台へ送り避難させた。」。
そこで、空前の西洋人宣教師を救援する行動の序幕が開いた。この行動は主にアメリカの駐煙台領事ファウラーが画策(かくさく)を組織し、具体的な計画は、アメリカの宣教師ハミルトンが済南で、河南、直隷(河北)などの地より宣教師を出迎え、その後山東巡撫袁世凱が派遣した軍隊で、羊角溝(現在の山東省寿光市羊口鎮)へ護送し、アメリカ北長老会の煙台宣教師コーンウェルが、外国人宣教師が羊角溝から煙台に護送するための船の組織化を担当した。
西洋宣教師は煙台港から上陸
1900年6月19日、アメリカの駐煙台領事ファウラーは、日本の汽船「広谷丸」号を借りて、またコーンウォールの協力で、6月19日より7月4日まで、済南でローマカトリック教教会、キリスト教、内地のカナダ長老派教会、ロンドン伝道会、アメリカ・ボード・ミッション、アメリカ長老会とアメリカン・ボードなどのキリスト教の270名余りの宣教師とその家族を、前後して済南を経て、羊角溝を経て煙台に送り付けた。
これと同時に、別に宣教師を救う行動が登州で進行した。登州の宣教師と外国人の安全を保護するために、登州の有名な宣教師カルヴァンの請求で、袁世凱は登州官府に当地の宣教師に保護を加えるように命じ、また北洋艦隊司令官薩鎮氷は宣教師とその家族を軍艦に受け取り避難させた。7月2日、また彼らを「海圻」号(清国)から「海安丸」号(日本)に移し、煙台に向かった。この登州から撤退した西洋の居留民には後に『タイム』誌を創刊したヘンリー・ルースがいた。

芝罘市街には風雨の前兆

華北各地の宣教師が続々と煙台に逃亡する際、この時煙台にはもう「山雨来たらんと欲し風の楼に満つ」の光景であった。当時日本の駐芝罘領事田結鉚三郎は電報で「支那市街の人心は惶恐」し、「煙台の商業は基本的に停滞し、あるいは商家は閉店し逃亡し、あるいは銀元を収集して万一を防ごうとした」と言っている。
当時イギリスの駐芝罘の軍官トラットマンも報告している:「芝罘では7月いっぱい、デマと恐慌が日課であった。義和団の掲示は四ヶ所に張り出し公開し、または秘密で伝達され、道士は反乱を宣伝し、鍛治(かじ)屋は大刀を鋳造し、地方官は家族を郷に送った。しかも最悪なのは租界を俯瞰する装置にクルップ大砲の東西砲台が跃跃と試そうとする様子を示していたことである。
この状況の出現で、領事団はすぐさま近況を採取し、道台が鎮圧作業の進行を継続するよう強迫した。道士は逮捕入獄させられ、鍛治屋は軍法の処分を受け、大砲は施錠(せじょう)され、鍵を保管する軍官の名簿は我々に渡された。
これと同時に、煙台当地の潮州、福建、山東の三幫会の商人連合は義和団を厳禁する公約を発布した。公約で、「我が団体、各店舗の同僚と作業員、サンパン船の色々な人など、またその家族が、もし誤って匪賊に誘致されたら、それぞれ自ら厳禁し、真似することを許さない」。最も売り場の保護に意識を加え、中国西洋を問わず、等しく根幹を塞いで、旅商売を安全にする。同時に、三幫会の商人は自衛組織を成立し、煙台の店舗所有の家に毎日同僚一人を派遣し、順に探査させ、「根幹を根絶やしにして、後の患いを塞いだ」。時の登莱青兵備道の李希傑は義和団の鎮圧を固く決め、彼は山東巡撫袁世凱の指示に従って、各領事を招集し防御の策を議論し、中国軍隊に命令して外国人居住区を分離する街路上での駐在を命令し、当地のヨーロッパの志願軍は夜間にも交代で守備した。同時に、李希傑は煙台港東西の砲台の大砲を追加するように命令し、また寧海州から兵士を寄せ集め戦備を増強した。
煙台港内には、前後して数十艘の外国戦艦、米国の「ナッシュビル」や「ヨークタウン」、日本の「常盤(ときわ)」号、「高砂(たかさご)」号、「秋津洲」号、ドイツの「ジェフロン」号等が停泊していた。
これらの戦艦は警戒状態にあり、煙台に避難した宣教師とその家族を船上への撤退をいつでも準備していた。毎日義和団が煙台に来ると伝えられたが、彼らは遂に来ることはなかった。それでも、ある種恐怖に耐えてきた宣教師は煙台から朝鮮の仁川に逃亡した。
8月16日、北京が陥落したが、これは義和団運動の完全な失敗を表示した。この時、煙台の緊張の形勢はようやく緩和し、1901年3月になって、煙台に避難した西洋の宣教師はようやく続々と離れた。
『聖書』に、「ノアの箱舟」の物語:ノア一家は箱舟に乗り込んで大洪水から逃れた。しかも義和団の期間に、西洋の宣教師が煙台に逃れたが、彼らに、煙台はもう一つの「ノアの箱舟」ではないかと言った。