山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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マシュウー・タイソン・イェーツと煙台山の別荘

山東省最初の海港都市、煙台は地理的位置が優越し、良好な性格環境は一度中国北方最大のキリスト教伝播の中心及び欧米各キリスト教派の中国での布教の中心であった。近代の有名な西洋の宣教師、カルヴァン(狄考文)、コルベット(郭顯徳)、ネヴィアス(倪維思)、ウィリアムソン(韋廉臣)、ハドソン・テーラー(戴徳生)、スミス(明恩溥)、マムラン(馬茂蘭)らはここに長期居住し、あるいは煙台を主要な活動拠点とした。鮮明に知られているのは、近代の高名な中国へ来た宣教師マシュウーは煙台の常連ではなかったが、風光優美な煙台山に豪華な別荘を建設した。

    不動産で出世する

マシュウー・タイソン・イェーツ(1819〜1888)は、アメリカン人、19世紀の有名な中国へ来た宣教師で、アメリカバプテスト教会外国伝道会に属した。道光27年8月(1847年9月)、マシュウー夫婦は上海に到着した。同年11月、上海の老城廂(上海古城)の旧北門に聖会堂(バプテスト教会)を建立し、1874年に「第一浸会堂」と名を改めたが、これは上海で最初のバプテスト教会で、華東で最初のバプテスト教会であった。

1860年代初期、アメリカに南北戦争が勃発し、マシュウーの所属するアメリカ南バプテスト教会外国伝道会は海外宣教師の経済供給を断絶し、これに加えて太平天国軍が上海を包囲攻撃し、物価は暴騰し、多くの宣教師が生計を維持するために、不動産仲介、翻訳、英語を取り扱うのに転換せざるを得なかった。

このような背景で、マシュウーは大いに転業し、イギリス租界の工部局とイギリス領事館の両所で翻訳をした。1873年、彼は一度アメリカ駐上海副領事に任じられ、また租界審判機関会公判の陪審員を担当した。この仕事の待遇は大変良く、収入も大変見るべきである。1863年、マシュウーは工部局で翻訳した時にすこしずつ貯めた(ためる)3,000余の銀元で土地を購入した。この年、ちょうど折よく(おりよく)英・米両租界は併合して公共租界となり、人口は激増し、地価も日増しに上昇し、不動産は有利な図るべき投資の対象で、マシュウーもこれで金持ちとなった。1877年、彼は再び宣教師の旧業を切り盛りしたが、依然不動産業務を経営して、しかも頗る(すきぶる)豊富な利益を得た。

(バプテスト教会の)外国伝道会の援助のない情況のもと、マシュウーは上海バプテスト教会の運営を維持し、バプテスト教会は次第に昆山、鎮江、蘇州一帯に次第に展開した。

この一時期、マシュウーは上海の外国人居留地の長老となり、常に欧州、日本へ休暇に渡り、毎年いつも煙台に避暑に行き、金を湯水の如く使い、同時に教会の寄付もした。

マシュウーは上海で40余年布教し、宣教師、商人、探偵(たんてい)、翻訳者、陪審員、租界の役人などの役割を果たしてきた。(バプテスト)外国伝道会の旧資格の宣教師は嘗てマシュウーを「外国伝道会から見れば、マシュウーは宣教師であるだけでなく、政治家でもあった。もし彼が国内に留まるならば、どんな職業でも神馬が駆け上がるように出世するだろう。」と評価している。

    煙台山上に別荘を建てる

マシュウーの主要な活動の中心は上海であったが、煙台にもいつもと変わらぬ関係を建立した。夙に(つとに)1859年、マシュウーは前後してホルムズ、ハーウェルとクラウフォードを煙台に派遣し、華北ハブテスト教会を設立した。翌年の夏に、マシュウーの夫人エリザは一人娘アンナと煙台へ避暑に来た。煙台の適宜(てきぎ)な生活の環境は彼女らを引きつけた。この後マシュウー一家はいつも煙台へ避暑、療養に来た。1875年、マシュウー夫人は上海でコレラに感染し、命をしかけたが、マシュウーは彼女を伴い煙台で療養し、数ヶ月後に彼女の全体は完全に回復した。
マシューの夫人〜エリザ

マシューの娘〜アンナ
避暑の休暇を便利にするために、1883年、マシュウーは煙台山に別荘を建て、そこを毎年夏の一家避暑の滞在場所とした。別荘は煙台山の北に位置して、煙台山灯台の東北方向にあった。
マシュウーは上海の友に手紙を書いてこの建ってばかりの別荘を描写してあげた。「別荘は海辺に寄り添い、下側は懸崖であり、視野は開け、風景は優美、螺旋階段で砂浜に降り海水浴が出来る。ここに住むのは大変快適で、まるでアメリカの児童が良く言うように、我らは(ここで)愉快な時間を享受した。」。この後、マシュウー夫妻一家は毎年いつも煙台の別荘へ来て休暇を過ごした。1887年7月、68歳のマシュウーは再び煙台で避暑をした。水泳で冷えたことによって脳卒中となった。煙台で治癒(ちゆ)ができないまま、友人は彼を上海に送り治癒したが、1888年3月17日、マシュウーは上海で亡くなった。
マシュウーが亡くなると、1890年に、マシュウー夫人は煙台の別荘を煙台に療養に来た南バプテスト教会の宣教師の使用に提供した。1894年3月、マシュウーが亡くなると、この別荘はアニーが継承した。
アニーは1868年に当時の上海灘のアメリカ富豪シーマンに嫁いだ。シーマンは上海同孚洋行支配人、上海公共租界工部局理事を担当した、上海聖ヨハネ大学に任命され、アメリカの駐在中国公使コンガーと上海総領事グッドナウに協力して、中国全権代表呂海寰、盛宣懐と『駐米通商運航追加条約』を締結した。アニーはマシュウー夫人の別荘を継承すると、人々はまたこの別荘を「シーマン別荘」と称した。
1900年6月、大規模な義和団運動が北京で勃発した。義和団の追跡から逃れるために、大勢の西洋の宣教師が華北から続々と避難して煙台に来た。これらの戦火から逃れた宣教師が煙台に身を落ち着けるために、上海にいたアニーは惜しみなく自分の別荘をアメリカの駐在煙台領事ファウラーの支配に任せ、避難した宣教師を落ち着かせた。当時、マシュウー夫人の別荘は30〜40名の避難した宣教師が身を落ち着け、これらの宣教師は皆が安全で一緒に暮らせることを喜び、混雑について誰も文句を言わなかった。後に、ある宣教師が回憶して「最も我らが忘れられないのは、そこで人を焦慮(しょうりょ)する夜間や険悪な日中に、周囲にその種夫人の兄弟のような友誼を感じることである。」マシュウー夫人の別荘はこれらの避難した西洋の宣教師に安全な避難港を提供したと、言えるであろう。

別荘の落ち着き先

マシュウーの別荘、この近代中国史の目撃者の別荘は、最終的な落ち着き先はどうなったのか。筆者は煙台山に対して実地考察を進行し、現在煙台山灯台の東北方向に近接する煙台山景勝地区に毎年大型の活動を演出する露天場地を発見したが、昔日のマシュウーの別荘はすこしも跡形(あとかた)がなかった。よもやこの煙台の近代史を目撃してきた別荘は声もなく消え失わせたのだろうか。
最近、筆者は偶然二枚の画像を発見し、その中にマシュウーの別荘について手がかりを見つけたようです。一枚の画像は嘗て東海関税務司代理を任じたアメリカ人ドリュウが撮影した1880年のマシュウーの別荘の画像であった。この画像を通して見出せるのは、マシュウーの別荘の外形が一棟の平家建ての大きな家で、別荘の後は煙台山で最初の灯台であった。この灯台は1868年(清の同治7年)に東海税関により煙台山頂のもとの狼煙台に建造したもので、これは木柱の簡単な灯台であった。1905年に、この簡単な灯台は煙台山灯台に置き換えられた。
別の一枚の画像は1905年のドイツの駐煙台領事館の建築の絵葉書である。ドリュウが撮影した写真とドイツ国駐煙台領事館の絵葉書を対比(たいひ)すると見出せて、ドイツ国領事館とマシュウーの別荘は同一位置であり、即ち皆灯台の東北位置にある。ドイツ国領事館とマシュウーの別荘の外形は〜左の窓、門が全く同じで、右の道路も変化がなく、不同なのは、領事館の絵葉書の中の家の前には囲い屏があり、後の灯台は簡易灯台ではないことである。

近代煙台に逢い関する資料を調べると、煙台山灯台は1905年(清の光緒31年)に完成した。この二枚の画像の建築はとても似ているので、それらは同位置の建築であろうか。このため、筆者は特にこの二枚の画像について煙台の近代建築の専門家胡樹志先生と解煥心先生に問い合わせた。二人の先生もこの二枚の画像の建築は同一であると肯定したが、時代は同じではなかった。この時のドイツ国領事館は当然昔のマシュウーの別荘として大まかに判断することができる。
マシュウーの別荘が後にドイツ国の駐在煙台領事館となったからには、領事館となったマシュウーの別荘の帰着(きちゃく)点と言うのはいかがだろう。煙台当地の記載の根拠:中華人民共和国成立後、この嘗てドイツ国領事館となった別荘はずっと煙台山に聳え立っていた。しかし1995年に以外にも火災でこの建物は消失した。現在、この別荘のもとの位置にはひとかたまりの基礎が残るだけで、煙台山風光区で毎年挙行される大型の演出活動の場となっている。
惜しいことに、近代煙台の幾つかの重大事件を目撃し経験した歴史建築は、このように歴史の奥深くに没してしまった。

著者 東亜煙台街研究センター 魏春洋