山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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120年余り前に、誰が煙台最初の絵葉書を発行したか


煙台は北方最初の開港地の一つで、初期には新鮮な事物が、北京、上海、広州等の地と足並みを揃えて登場した。1898年、欧米の流行に伴い、中国でも図画を印刷した葉書が現れ、煙台最初の絵葉書は北京、天津、上海等の地とほぼ同時に誕生した。

図1

これは香港からドイツ国キールへ送られた絵葉書で、1898年7月3日に送られ、正面には香港の4枚の切手で、香港の消印があり、画面は煙台風景が3幅の手書きで構成されている。

葉書には発行した機関が見えず、史料にもまだ記載されていないので、この葉書が誰の発行で、発行の目的などずっと謎となっている。

最初の絵葉書は「意識せずに誕生」

1840年の世界初のペニーブラック(切手)がイギリスに誕生した。同年、イギリス人ホーカーがボード紙に漫画を描いたが、身辺に漫画をしまうのに合う封筒(ふうとう)を見つけられず、そこで別面に宛先を書いて発送したのが、世界最初の葉書としてここに誕生した。

1863年、ドイツの郵政総長は政府に葉書発行の建議を提出し、彼は葉書を通信の簡素化手段として、料金を下げることができると認識したが、当時この種の通信方式は認可されることはなかった。

1869年10月1日になると、オーストリア政府は率先(そっせん)して世界最初の郵便葉書を発行したが、最初の印刷量は5,000枚で、この種の簡易便で、低価格の葉書は、発売されると、大変歓迎され、すぐ売り切れた。このあと、各国は続々と葉書の発行を開始した。

1874年、上海工部局は郵便葉書を発行し、煙台書信館も1894年に佑銀葉書を発行したが、これは中国国家の郵政の産物に所属さず、大清の郵政葉書は1897年10月1日であった。

郵政部門が発行する郵便葉書は、通信の要求を満足するためであった。正面(送料画面)には宛名と差出人の住所氏名を書き、裏側に通信内容を書写するのに使用した。

早期の葉書は、各国政府は個人印刷を許可せず、郵政部門の独占であった。1898年、アメリカ政府は高額な印刷費用を減少させるために、新しい郵政条例を頒布(はんぷ)し、個人が葉書の印刷をできることを許可したので、これにより絵葉書の大流行が起爆した。

いわゆる絵葉書は、正面に宛名差出人の住所を収め、背面に図案が印刷している。

早期には音信は未発達で、交通道具も遅れていて、人々は外界に対する理解は文字あるいは口頭での伝授に限られていた。しかし写真術が既に発明されていたが、極少人数の玩具(がんぐ)でしかなく、新聞も極めて図画は少なく、いくつかの重大な活動や事件は、随行した画家の手描き図案に頼るしかなく、人々が速やかに真相を理解するには、現場の写真を見る必要があった。

絵葉書は、一般に写真を底本として、大量に印刷でき、郵送を通して、短時間で世界の隅々まで伝達することができる。図案は世界各地で発生する重大事件だけでなく、各地の景色、風習、民族でも良かった。

家を出ることなく、絵葉書を通して一切を理解でき、まるで人々に世界を認識する窓口を開くようであり、発売されると、迅速に世界で人気を博し(はくす)た。

1898年から開始し1913年の一次世界大戦の開始前には、絵葉書の「黄金時代」で優質低価格の葉書が大量に輩出した。

ポストカードは通信に使うばかりでなく、大量に収蔵されていて、人々は客間に放置された各地のポストカードのアルバムを光栄とした。各種のポストカード収蔵クラブが誕生し、ポストカードの売り上げは図書を上回った。

この時期は煙台もまたポストカードの黄金時代で、煙台哈利(ハリー)洋行を代表とするいくつかの発行業者が、数百種の煙台に関する絵葉書を印刷した。

中国の絵葉書も1898年に出現を始め、煙台は上海、北京、天津などの大都市と同時に、最初の絵葉書を発行した。

当時カメラは煙台では余り見られず、またそのほかの原因で、煙台初の絵葉書は手描きの図案で、哈利洋行がやや遅れて発行した一枚の葉書も手描きの図案であった。

葉書上の「婴儿塔」と「葡萄山」

煙台最初の絵葉書は彩色で、印刷は美しく、3枚の図画で構成され、漢字があり右から読む「煙台」の二文字、英文の「Chefoo China」の文字、右下の角には余白があり、これは文字を書く空間である。正面には差出人と受取人の名と住所と切手が貼ってあった。
初期の葉書の正面には受取人と差出人の姓名、住所を書くだけでしか使用できず、書信の内容は必ず背面に書く必要があり、故に一時期の絵葉書には、後ろの画面には全体に印刷できず、文字を書き込みのために余白を留める必要があった。1903以後、やっと正面に竪(たて)の間隔線を印刷した葉書が出現し、右半分に姓名と住所を書写し、左半分に文字を書写し、裏面には絵を印刷できます。正面の通欄式には間隔線があり、煙台古い葉書の発行を判断するための時間参考にできる。三幅の画面は上から下に分別して煙台全景、海辺の旅館、葡萄山と南山遠望をなしている。
煙台のパノラマ、遠景は煙台山、中景は市街、近景は農地、海安路一帯は建築が少なく、中間にある洋館は、家庭旅館(後に芝罘学校が買取、予備校とした)でなければならない。中間に「Beach Hotel」と注記してあり、海浜旅館であり、海にはボートや海水浴の人が見え、岸辺には多くの更衣小屋がある。一番下の1枚の近景は葡萄山で近景の山頂の塔型の建築は「Baby Tower」と注記してあり、直訳すれば「嬰児塔」である。
海浜旅館と家庭旅館の具体的な創業時期は分からないが、1870年代にはもう記載されている。葡萄山にはブドウを植えたのは、1892年の張裕公司の創業から始まるべきである。
一番下の図には「嬰児塔」と記され、近景は塔山らしいが、ただし山上の塔には「嬰児塔」とあった記述がなく、人を不思議にさせその解答を得ていない。
図2魅星楼
1936年に出版の『煙台通志』にはこのような記載がある。「小石塔、このような石塔は中国では滅多に見られない。」。しかし煙台では、それに不思議な伝説がある。この石塔は煙台の東山にあり、『嬰児塔』と呼ばれている。これは、伝説では昔、貧乏な家で亡くなった赤ん坊がここに捨てられ、野犬や狼の餌となった。」この「小石塔」は魅星楼を指しているので、この「嬰児塔」は魅星楼であると見るべきである。
画面上にはまた二組のフルーツの図案があり、一つはブドウで、分別は白色と紫色の葡萄で、もう一つは洋梨(ひょうたんなし)、リンゴ、モモの組み合わせである。
それでは、この煙台最初の絵葉書はどんな機構により発行されたのか。図面と文字の分析から煙台の広告の絵葉書のようである。120年余り前に、誰がこの絵葉書を発行したのであろう。
これは哈利洋行が発行したのではないか。哈利洋行は煙台のスター・ブロマイドの逸材(いつざい)で、煙台で発行した葉書の発行組数、種類と品質で、絶対に争議する事のない先輩である。ただし哈利洋行が発行する絵葉書は全てに所有権が記され、この種の印刷は発行機関の名称がない葉書の印刷は不可能である。
画面の葡萄園、目に鮮やかな紫と白色の葡萄、張裕公司と関係があるのか。もし張裕公司が発行したのであれば、広告片であるのに、どうして会社名称を印字しないのか。
最近になって所有権を印刷した葉書が出てきて、我らのために真相を解き明かした。

バーバオと、「葡萄葉」会社と張裕


図3
図3の葉書をご覧になると、画像は図1と全く同じであるが、葉書の辺縁の赤い枠内に一行の最初の目立たない文字が印刷されている。
「Weinlaube, Klosterneuburg」、この(文字の)位置は、慣例によると一般に発行商版権の文字を印刷する。認識される文字を弁別すると、「Klosterneuburg」は地名で、現在のオーストリアのクロスターノイブルク市である。続いて「Weinlaube」に関する情報を創作すると、我々に驚くべき発見があり、これは張裕公司のオーストリアのバーバオと家族と関係ある家族の企業名称で、そしてクロスターノイブルクはバーバオの出生地で、バーバオの家族はここで輝かしいワイン事業を創造した。
バーバオの父親オーギュスト・バーバオ(1827〜1894)は、嘗てドイツのハイデルベルク大学とフライブルク大学で学び、グライフスヴァルト近郊のホーフのガイスベルク、ボンのポッパーズドルフと、アールデンの農業機構で学んだ。その後、ヴァインハイムの農業学校で仕事をした。後カールスルーエ大学の農業実験葡萄園で6年監督をした。1860年、彼はクロスターノイブルクに新設された私立のワインと果物の栽培学校の管理を引き継いだ。学校は1863年にオーストリア州に引き継がれ、1874年に国立技術中学に昇格した。1870年、彼は醸造実験場を設立した。彼は新しい葡萄栽培の創始者と見なされている。その重要性は、葡萄栽培と酒蔵(さかぐら)管理の全面的な促進、及びクロスターノイブルクでの教育と研究訓練の拡大であった。彼はまた、多くの書籍を出版し、多くの専門誌の編集に参与し、公国の農業年表を編集し、多くの栄誉を獲得し、バーバオ表彰を設立した。
「葡萄葉」はその家族企業の名称で、その会社の1910年のマークティング期刊は、12ページの多くに渡り、ワインの販売のほかに。葡萄の栽培技術の普及、各種の醸造機器の販売などがあった。
煙台最初の絵葉書はこのバーバオ家族の企業の印刷であると、見るべきである。ワインを直接宣伝しておらず、画面の葡萄、葡萄山からは、ワインに関係する情報明示されていない。優美な海岸の小さな町、活気ある海岸のホテル、人々にこの里に適宜な気候とゆるやかな居住環境があることを告知している。
バーバオ家族の印刷したこの絵葉書は、広告の文言は見られないが、実際にはある種ソフトな広告である。
バーバオは張裕公司の醸造師を務め、張裕公司はバーバオ家族の優良な葡萄の苗木を導入し、人々に、醸造機器を導入したか、葡萄葉会社は張裕のワインを販売していないのかという、連想を掻き立てた。
この外、張裕は中国最初のワイン企業の一つで、その顧客は海内外に及び、一定の知名度を持っており、葡萄の種苗(しゅびょう)、醸造機械を兼営する企業として、煙台張裕の共通基盤を利用して営業と知名度を拡大することができ、これは一挙多得というべきである。
この葉書の発行範囲は広く、煙台だけに限らず多くの使用例が1898年にある。1898年7月の香港での前面の使用のほかに、図3は1898年11月に青島ドイツ郵便局からドイツのヴィースバーデンに送られている。

注: 張裕葡萄酒博物館


煙台朝陽街と北馬路の交差点から北馬路を海岸方面に向かって歩くと、やはり大きな車道である解放路との交差点で「張裕集団」と書かれた建物が見える。この奥に「張裕葡萄酒博物館」という、ポルトのワイナリー宜しくこの会社のワイン作りの歴史やワインにまつわる展示をみることができる場所がある。

2種類入場券があり、高いほうの入場券を買うと小さいポルトに入ったブランデーを貰うことができる。いずれの入場券でもワインの試飲ができる。

張裕集団の創始者、張弼士はインドネシアで商売に成功した人物で、後にフランスのボルドーと同じ緯度にある煙台に注目してこの地に葡萄を持ち込みワイン工場を作ったのだろうか。何人かの外国人技師を雇い中にはすぐ辞めてしまった人もいるが、外国公館の職員と掛け持ちでこのワイン工場に携わり製造技術を伝授し育てた外国人がいたとの展示があったと記憶している。

館内ではこうした張裕集団の歴史や彼らが山東省各地に持つ葡萄畑や工場の紹介があり、地下に入ると木樽(たる)でワインを保存している場所を見ることができる。
世界で一人当たりワインの消費量が多いのはフランスでその次にイタリアとポルトガルが続き、スペインはフランスの6割ほどで意外にもスロベニア・クロアチア・スイスよりも少ないののだとか。ここが廉価に手に入れば中国でも日々ワインを飲むことができる。

著者 煙台 林衛濱