山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

ジェシー一家は膠東で学校を運営

近代煙台の対外開放後、西洋の宣教師が続々と来て、彼らは教育、医療、実業などの領域で西洋文化を伝播する紹介者に当たり、膠東社会の近代化の発展に無視できない作用を発展して来た。この宣教師の中で、アメリカの南バプテスト教会の宣教師ジェシーは1860年に煙台に来たが、彼の主要な活動範囲は登州、黄県などの地であった。布教のほかに、ジェシーとその一家は教育作業に従事して、煙台の近代教育のために傑出した貢献を成した。

ジェシーの神学院運営

ジェシー(1835〜1912年)はアメリカ南バプテスト教会の布教の先駆であり、1835年アメリカのサウスカロライナ州の牧師家庭に生まれた。父親は一族の長老で宣教師で、ハーバード大学の教授を兼任した。20歳の時、ジェシーはアメリカのフーマン大学の卒業で、その後アメリカのレバノン山大学の数年教授となった。
ジェシーは敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、若い頃には異郷で福音を伝播することを立志(りっし)していた。1858年、23歳のジェシーと新婚の妻を伴い上海へ布教に出かけた。上海の湿熱な天気に適応せず、ジェシーは開港しようとしている登州府(今の蓬莱)の布教を自発的に要求した。1860年末に、ジェシー夫妻は山東煙台に到着した。翌年1月、登州府に移転した。1862年になると、ジェシーは登州バプテスト教会を建立したが。
これは華北地区最初のバプテスト会所属の教会であった。1875年、ジェシーは登州の別の有名な宣教師クローフォードと意見が合わなくなり、アメリカに帰った。1893年、ジェシーは登州へ戻った。1893年、彼は登州で華北バプテスト教会訓練学校を創設した。この学校は聖書を学習し、教会の指導者を育てることを目的とした、華北で最初のバプテスト教会神学院の原型となった。1906年、アメリカ人のブッシュ氏はセミナリーを拡張するために両親に1万ドルを寄付した。ジェシーはこの寄付金を使って黄県(今の龍口)東門外に一棟のビルを建てブッシュ神道学校の校地となった。ブッシュ神道学校は教会のために伝道者の人材を訓練する専門学校で、後に黄県の崇実大学のもとに設けられた神学院となった。

ジェシー夫人の運営した寄宿学校

ジェシーは前後三人の妻があり、最初の配偶者エリザは、1870年に亡くなった。次の夫人ジュリアは最初の妻エリザの妹であり、結婚8年後に亡くなった。1881年、ジェシーは三番目の夫人シャーロットを娶った(めとる)。ジェシーの最初の夫人と三番目の夫人は皆登州で女学校を経営した。
1861年、ジェシー夫妻は登州へ来てから、当地の文化教育は大変遅れており、女子は更に教育を受ける機会がないのを発見した。そこで、ジェシー夫人は、登州女子学校を開設し、勉強の機会がない貧窮者の家庭の女子を専門的に募集した。
この学校は南バプテスト教会が華北で運営した最初の女子学校で、最初は僅か8名の女子学生であった。運営中に、ジェシー夫人は種痘(しゅとう)免疫も導入した。間もなく、南バプテスト教会の方針が改変され、学校は閉校した。
1893年、ジェシーの三番目の夫人シャーロットはまた登州へ戻った。同年、シャーロットは登州で寄宿学校、即北街学校を開創した。学校規模はやや大きく、女子校の教務を担当するジェシーの娘アンナ・バートンが残した文字記録を根拠にすると、女子校校長は郭夫人という中国人で、学校には37名の学生がいた。その内、28名の女子学生はもう放足(纏足をやめる)していて、ほかに12名の学生はキリスト教徒であった。
1903年、ジェシーの第三夫人が亡くなった。彼女の死から1911年まで、登州の寄宿女子学校はジェシーの娘アンナとテイラー嬢が担当した。1906年、寄宿学校の学生は41名に達した。1907年、登録学生は43名で、この届の学生は皆纏足をしたことがなかった。
ジェシー夫人の創業した女子学校は登州最初の教会女子学校ではないと言っても、それでも重要な意義があった。彼女は膠東で新時代の知識女性を育てただけではなく、無形の中でも中国が踏襲してきた数千年の「男尊女卑」の封建の悪習に対して挑戦を発起(ほっき)した。

ジェシーの経営する崇実学校

ジェシーには7人の子があった。その内、3人の女子と1人の男子は中国で教育、布教作業に従事した。彼らの活動状況は、ネリーは広州、アンナは登州、黄県、ロッティーは紹興、杭州、息子のチャールズは黄県であった。
チャールズは、1884年アメリカ生まれ、1893年に父に伴わ(ともなう)れ登州にきて、よく流暢な山東方言を話し、芝罘学校とアメリカのムッソーリ州立大学で教育を受けた。1909年、バプテスト教会から黄県に派遣され、バプテスト教会の華北代表を担当した。黄県に到着すると、チャールズは宣教師キケロ夫妻創立の黄県華洋書院を受け入れた。間もなく華洋書院は「崇実学校」と改名し、チャールズが校長を担当した。
1920年、崇実大学が黄県で成立した。それは崇実学校とバプテスト教会が登州、黄県で開設したほかの4ヶ所の学校と合併(がっぺい)しており、キケロが校長を担当し、チャールズが文科系主任を任じられ、下に文学科、神学科、師範科三科があり、その内、文学科、師範科は小学から大学まで経営された。学校の資金はバプテスト教会の寄付により、学生300〜400人、教員40〜50人があり、毎年の卒業生は100余名で、優秀な校友〜愛国的な将校で、東北軍で有名な将校于学忠(蓬莱人)や、台北バプテスト教会の首位中国人の女性宣教師彭蓮生などを生み出した。
教育活動に従事するほか、チャールズは説教区的に黄県の社会公益活動に参与した。例えば、民国時期の山東省の通俗講演の演説家朱全の『朱全社会教育講演集』に1922年6月24日にチャールズが黄県で「タバコと酒、欲を断ち財を断たしめ、毒物をなくす」に関する社会公益の講演で、当地の民衆に煙酒などの不良嗜好を止め、奢侈な浪費をさせないよう進めたことを記録している。チャールズの社会公益活動は疑いもなく民国時期の当地の不良習俗に積極的な影響を生産した。
アメリカで、チャールズはアメリカキリスト教聖公会の女子を娶り妻とした。彼の妻はアメリカバプテスト教会への加入を望まず、そのほかの宣教師のように中国の一般人との交流を望まなかったので、中国の布教活動に参与する方法はなく、さらにそのほかのバプテスト教会の宣教師との交流の方法もなかった。このため、チャールズは大変苦悩した心身疲労の末に脳膜炎(のうまくえん)に感染し、1927年に、42歳で亡くなった。亡くなってからチャールズは煙台万国共同墓地(今の芝罘虹口公園にある)に葬られた。

著者 煙台 魏春洋