銀雀山漢墓➖千古の謎を解く
文字の出現と使用は人類が文明時代に進入した重要な標識で、しかも文字を書写する媒体も多種多様で、紙、青銅器、甲骨以外にも、中国古代の戦国から魏晋の時期には、竹簡と木牘(すんとく)(木札)は文字の書写と流通をする主要な媒体であった。山東博物館所蔵の臨沂銀雀山竹簡は一時期は簡牘文化財の優秀な代表であった。臨沂の古称は瑯琊、沂州が沂河に隣接する為名を得て、古代より兵家が必ず争う地であった。臨沂城の南面には、二つの東西に向かう小丘があり、東側を金雀山、西側を銀雀山と呼び、二つの小丘の勢が臨沂城を取り囲んでいる。
1972年4月10日、臨沂市衛生局はインフラ工事を銀雀山上で施工したが、施工の作業者が不断の採掘に従って、一つの大型古墓が次第に明るみに出て来た。考古発掘を経て、この大型古墓は銀雀山一号漢墓であった。すぐに、一号漢墓の西側にまた二号漢墓を発見した。二つの墓は0.5メートル離れており、どちらも木棺、木槨墓を用する6基の長方形竪穴式墓である。久しい年代を、建築内部に水と汚泥が蓄積し、墓主の性別も弁別できなかった。二つの墓葬からは大量の文字消息のある竹簡と陶器、漆器、銅銭貨幣などが発見された。これにより、専門家は二つの墓葬年代は共に前漢前期と推断した。
銀雀山漢墓から竹簡が出土したが、長期に汚泥中に浸かって(つかる)いたので、竹簡を蓮綴する編縄は全てもう古く腐乱しあるいは断裂し、竹簡も腐朽(ふきゅう)し残存(ざんそん)は深刻で、表面は深褐色を呈し、墨を使って書写した書跡(しょせき)も個別の文字の見分け難いのを除いて、殆どの部分は大変はっきりしていた。ただし当時の山東省では、漢簡を保護、整理する条件が備わっておらず、遂に国家文物局に援助を求め、そこで箇あれらの竹簡は尽く北京に運ばれた。
1972年10月、国家文物局は山東省博物館と全国で抽出した文物の専門家を組織して、これらの地区間に全面的な整理、保護と研究を展開した。1974年5月、簡牘の整理作業は初めて収束を報告した。6月、周恩来総理は専用列車を振替て、これらの簡牘を山東へ運び、山東省博物館に入庫した。
専門家の二年近くの詳細の考究(こうきゅう)で、一号漢墓では5,000枚近く漢簡、これら2,000枚余りの残片、総数7,000余り、長短両種を分けて整理した。長簡が大部分を占めるが、簡の長さ27.6糎メートル、幅0.5乃至0.9糎メートル、厚さ0.1乃至0.2糎メートル。短簡の長さ約18糎メートル、幅1.5糎メートル。この他少量の木牘で長さ23糎メートルを発見した。二号漢墓の整理では竹簡32枚が出、簡の長さ69糎メートル、幅1糎メートル、厚さ0.2糎メートルであった。
刻まれた『孫子兵法』の“存亡之道不可不察”文句がある漢簡
銀雀山漢墓監督の書写年代は紀元前140年から118年の間で、内容は4大類を包括するが、即ち兵書、政治と謀略の書、陰陽数術とその他の古書である。
これらの珍しい文物遺産は中国の歴史、哲学、古代兵法、古暦法、古文字学、簡冊制度、古籍校勘と書法芸術などの方面に対して、計り知れない価値がある。
これらの竹簡には、兵書の数量が最大で、また最も重要である。しかも最も世人の目を引くのは『孫子兵法』と2000年近く失われてていた『孫臏兵法』が同墓から出土したことである。銀雀山漢墓から出土した『孫子兵法』竹簡は300枚近く、計2,600余りの文字であり、伝世本13編と佚文5編を包括する。『孫臏兵法』竹簡は200枚余り、『擒龐涓』『見威王』『陳忌問垒」』など16編がある。
『孫子兵法』はまたは『呉孫子』と称し、中国で最も影響する軍事著作であり、「兵学聖典」として知られている。作者の孫武は、春秋後期の人、呉で名を成したため、「呉孫子」と称す。『孫子兵法』はおよそ春秋末期に成立した。歴代たくさんの著録の整理があり、最終的に現在見る所『孫子兵法』13編を形成した。
『孫臏兵法』はまた『斉孫子』と称し、作者は孫臏本人とその弟子であり、『史記』などの記載では、それは斉で名を成したので、「斉孫子」という。『斉孫子』は隋代及び以後の文献に見えず、孫子と孫臏に関しては、宋代より起こり、学者の多数の説が繽紛(たさい)として、一つにまとまらなかった。
ある学者は『史記』の記載を支持し、孫武、孫臏各々があり、それぞれ兵法の著作があり世に流伝したとと認識している。ある人は歴史上の孫武という人があったことを否定していないが、ただし『孫子兵法』は孫武の編著ではなく、しかも後の人の委託の作とする。ある学者は『孫子兵法』は孫臏の著す書で、孫武と孫臏は実は一人で、「武」はその名、「臏」は字名とする。また歴史上に孫武と孫臏二人があるが、現存の『孫子兵法』の作者は孫臏であるとする。はてはある人は『孫子兵法』は三国の曹操の著作で、書中に提示した「孫子」が実は春秋時代の伍子胥とする⋯⋯
臨沂銀雀山漢簡『孫子兵法』と『孫臏兵法』は同墓から出土し、1,000年余りの謎を解決し、孫武、孫臏は一人でなく、彼らは百余歳を隔て、それぞれ主人に仕え、それぞれ兵書の伝世があることを実証したが、この一発見は、「石が破れ(やれ)天が驚く」ほど奇抜な事であった。
1947年6月8日、『人民日報』の一面に『有名な【孫子兵法】と散逸(さんいつ)の【孫臏兵法】などの竹簡が山東省臨沂銀雀山前漢漢墓で発見された』という記事が掲載され、世界中で大きな注目を集め、『孫子兵法』研究の新しい波が押し寄せた。
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