青石関(斉長城)
青石関は、済南市莱蕪区和荘鎮青石関村に位置し、北は淄博市博山区白洋河と、樵岭前村と隣接する所に臨み、険しい山に拠って建ち、古代は斉国から魯国に通じる必ず経る道であった。
春秋時期には、斉国が長城を建設し、魯、楚を制御し、ここに要害を建設し、青石関は斉国用道の喉元(のどもと)に変わった。青石関の東西両面には高山が挟みたち、南北に僅かに峠(とうげ)口が相通じ、ただ峡谷中の道を辿るしかなく、この谷合の道は「瓮口道」と呼び、現在は「関溝」と呼び。
関所に接近する所は、関溝が最も狭く、最も歩きづらい場所で、両側の障壁が雄々しく(おおしい)峙(そばた)ち、山の形は「V」字形で、最も狭い所は2メートルに満たず、過去には一台の木輪車しか通行できず、一旦塞がれば(ふさがる)、二、三日は通交が出来なくなる。関の北谷の青石岩盤上には当時の一輪車の轍(わだち)が、深さ15〜20センチメートル残っている。
当地の老人の言によれば、当時往来した車は長く列を作って、もし「関溝が混んでいたら」、誰も他人に譲らず、数日待たなければならなかった。
地勢の険要な青石関は「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」の説があり、歴史的に軍事家が必ず争う場所であった。少なからず斉の長城で有名な狭い関所は、やはり名が遥かに聞こえた斉魯の旧道である。ここは軍事の要塞であり、また交通の中枢であり、従って関を重要に設置して守備とした。清の咸豊年間、曾国藩が捻軍(華北の武装叛乱勢力)を鎮圧する為に嘗てここで巡視止宿(ししゅく)したので、元は「曾王所栖処(曽王の住まう場所)日があり、今なお住宅がある。
青石関古道には多くの洞穴があり、その中には有名な牛鼻子洞、青石関溶洞、南山洞、周世宗洞及び“鳳凰嘴”、“欲墜崖”など観光場所が20ヶ所ばかりある。牛鼻子洞に関して、当地には一つの広く流布(るふ)する物語るがある。
伝説には、明朝皇帝朱元璋は安徽鳳陽の人で、幼い頃家はとても貧しく、彼は嘗て此処へ来て、ある富裕の家の為に牧牛(ぼくぎゅう)をした。牛は「口に物し」て、毎日物を食べ、長年、雨風に関わらず、彼はいつも山上に行って牧牛し、大変辛苦したにも関わらず、いつも満足に食べられなかった。ある夜、彼は空腹に耐えられず、そこで起きて牛を殺して食べた。一夜を使い果たして、牛も食べ終わり、空も明けた。
牛肉を煮た鍋は盗んだものだった。空が明けると、鍋を運び出せず、牛を殺したことが、暴露(ばくろ)してしまう。朱元璋は大変焦って、困って話した。「もし空がまたひとしきり暗くなれば良い。朱元璋は上天が欽定(きんてい)した真龍天子、天子の有難い御言葉が、語り終わると、天はすぐに真っ黒になって来た。彼は夜明け前の闇を利用して、鉄鍋を運び出し、牛頭を青石関瓮口道の北側の崖上に掛け、牛尾は樵峰の前あたりに掛けた。
夜が明けると、主人は牛が見当たらないので、朱元璋に質問した。朱元璋は「牛は山の中に潜り込んでしまった。」と答えた。主人が山上を見上げると、牛鼻子は果たして山の崖上に現れた。そこで、縄で牛鼻子を繋いで全力で外に引っ張り出しが、どうしたことか引っ張り出せなかった。これから、高い崖上に、牛鼻子洞がある。
伝説以外にも、この斉魯の要衝の喉元にはまだ多くの有名人の足跡を留めている。同時の文人はいつも此処へやってきて、お茶を飲み、旗の下に居り、詩画を作り、満足しないことはなかった。
清人の蒲松齢は此処に物語るを買い取りる場所を設立し、他人が話した物語るが、蒲松齢が佳いと思ったら人に少々の銭をあげて、(話)がまずくても関係なく、路上の人に茶を勧めた。つまり、現在我々が看る「聊斎志異」に記載する精彩のある物語るは南海北路のこの地の人の口述の寄せ集めである。
要所に留まる一時に、情緒は引きも取らない。青石関は歴史の証人で、美しい未来を読んでいる。この青石が開削(かいさく)した階段道上には嘗て古代の将校達が無数の関攻めと関所の守備の殺し合いを展開し、その一幕の色とりどりの旗のはためきを絶えず上演し、風雲の巡り合い、歴史はさらに花を換え、古きを除き新しきを敷いている。
今日、山東省は地域全体の観光を創造しています。青石関付近には、ただ山峰、要害、斉の長城、古木、岩窟、などの自然景観があるばかりでなく、また山に寄り添い建設された石室の群落、古道と歴史人文の景観がある。青石関に身を置いて西を向けば、遠外の風景は尽くして視界に収まる。遊行者は孰考した後、鮮やかな懐古(かいこ)の旅を享受することができる。
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