山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旅順の太陽溝に大谷光瑞の歩いた小道がある


旅順太陽溝靠山街87号の洋式の建物に位置したが、これは大谷光瑞が1915年に買い取った自家別荘である。建物の前には一本の長い階段のある小道がある。大谷光瑞が旅順に居住した期間、毎日そこを通過しなければならなかった。現在この道はすでに放置され、荒廃している。上端にはゴミ置き場ができ、下端には鉄甲将軍が門を押えている。小路の上半部分で、修繕後の大谷光瑞の官邸を見ることができる。小路下半部分は花崗岩敷きで、現在でも依然として堅固である。

大谷光瑞は日本仏教の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22世の法主である。彼は長期に中国に滞留し、上海郊外の無憂(ホウ)園を建設し、無線電信局を設置し、諜報活動に従事した。1933年大連に移転し移転し、鋼鎧の家を建て、仏教の地位と影響を利用して積極的に軍部の活動を支持した。彼は旅順、大連を基地として、上海、青島、北京、台湾、朝鮮、日本などの地を転々として往来し、日本の中国侵略政策を配合した所謂「学術訳著」「宗教研究」「考察」の政治活動に従事した。

大谷光瑞は中国に対する強硬措置を採用することを極力主張した。日本が中国の侵略戦争を発動後、大谷光瑞はまた大東亜建設審議会委員等重要な職務を担当し、日本の殖民当局が侵略、拡張、掠奪政策を推し進める為に服務する先鋒人物に充当された。

簡単に言うと、大谷光瑞は一スパイで、軍部の活動を積極的に支持し、中国侵略戦争の拡大を極力主張し、「南進」論を鼓吹し日本帝国主義の侵略のために力を尽くした。彼は内閣参議、内閣顧問となって、内閣が交付した重要な国務の計画に参与して、内閣総理大臣の運営する国政に協力賛助した。

1945年、日本が敗戦して投降後ソ連軍に拘留され、大連に滞留され、大和ホテルに留められた。1947年に帰国が許可された。1948年10月5日、73歳の大谷光瑞は膀胱(ぼうこう)癌で亡くなった。太陽溝のあの大谷光瑞が歩いた小道上を歩くと、あなたはただ旅順博物館館内に彼が盗んできた7〜8千件の西域の文物があるだけを記憶するだけでなく、あなたは、袈裟(けさ)の下に隠された一揃いのカチカチの鉄骨を、はっきりと見る必要がある。 大谷光瑞考察隊の西域の考察