山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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臨清運河鈔関:ある城の「青春期」500年の目撃


臨清運河鈔関は中国重点文物ユニットに登録しました。

臨清運河の鈔関(税関)は会通河の臨清段西岸に位置し、明清両代の中央政府が臨清に派遣した漕運税収を監督管理する直属の機構である。明清両代の八大運河の鈔関の中で、臨清鈔関は税関設置で最も早く、閉関も最後で、歴史が最も長く、貢献が最大の課税官署であり、1429年に設立され、1930年に全廃された、臨清のこの運河で栄えた都市500年の「美しい歳月」を目撃者であった。

水で興起(こうき)した「臨清倉庫」

歴代的に、臨清の盛衰(せいすい)は密接な関係がある。これによって、臨清を言及することは、大運河は迂回できない話題である。

南北大運河は隋代に開削が始まったが、後世に対する意義は重大であった。隋唐時期には、政治経済の中心は北方にはなかったので、これによって運河沿線北部の臨清は依然として無名で誰も知らなかった。歴史の車輪が元代に操縦されると、臨清はやっと転機を迎えた。1271年、元の世祖フビライが北方を統一すると、首都を大都に定め、中国の政治版図の中心は、中原から北方に移った。元は洛陽を中心とした運河は、もう北上運輸の需要を満足させることができなくなり、新運河の開通は目前に迫っていた。

元朝の至元26年(1289年)、フビライは礼部尚書張孔孫などに南の須城県から、北の臨清に下る新運河を開くように命じた。この新運河は会通河と称された。会通河は元洛陽を迂回していた大運河を「真直(まっすぐ)にし」て、それによって今日見ることのできる京杭大運河を作成した。これから臨清の地理的位置は多いに変貌した。会通河の開通当初、元政府はまた天津直沽に「臨清万戸府」を設置し、毎年春秋両季に大都へ漕糧を転送した。臨清万戸府の設立は、元代の海運を止め、水運の歴史を起こした標識である。

臨清は北に北京に通じ、南は江淮を控え、軍事、交通等の方面で共に重要な位置にあり、これによって明清時期には、政府は漕糧の保存運送の為に、臨清に倉庫を建設して穀物を貯蔵した。明朝の初期、明の太宗朱元璋は徐達、常遇春に命じて、臨清に三棟の穀倉を建立させた。この三棟穀倉は臨清にレンガ城壁都市を建設する以前に建てられ、臨清に城壁都市を建設以後、倉は城内となり、遂に城壁都市面積の四分の一を占めた。皇家の穀物貯蔵基地の為に隆盛してきた臨清は、またそれで「始め臨清倉があり、後に臨清城あり」の一説がある。

臨清が本当に運河で発展の契機を迎えたのは、明の成祖朱棣が北京に遷都してからである。遷都後、中国の政治中心は更に北へ移り、京杭大運河は江南と北京を連結の紐帯(ちゅうたい)となった。

封建統治の地位を維持保護するために、南北の水運の航路を開通し、漕糧の北運を加速し、明の成祖永楽9年、朱棣が明の洪武24年に閉塞した会通河の疎通を命じた。永楽13年に、運河の浚渫工事が完成し、大運河が滞り(さまたげる)なく通じ始め、これから漕糧は皆京杭大運河により北京に運送されたので、海、陸の二本の穀物運輸線は全部排除された。

明朝第五代皇帝宣徳年間になると、明朝は再び臨清倉庫を増築し、完成後、臨清倉庫の貯蔵量は300万石に達したが、しかし当時京杭大運河の漕糧の年間運送量は400万石であったので、臨清一ヶ所の穀物倉庫では全部の漕糧の四分の三を収容できた。


公堂遺跡

八大鈔関でトップの臨清

会通河の疎通した後、京杭大運河南北水陸の要衝となり、臨清もこれから漕船の必ず経る場所となり、商品経済は迅速に繁栄した。記録によると、明朝の永楽年間に、臨清は全国33カ所の有名な商業都市の仲間入りした。南から北へ向かう商船が運河沿いの都市を結んだ商品経済の発展を連動し、課税役署の「鈔関」もこれから歴史舞台に登場した。
永楽21年、山東巡撫陳済は、奏文を上呈して言った:「大運河沿のこれらの都市は商人の集まる場所で、首都北京の商品は以前に比較して数倍多くなり、専門者を派遣して監督し、年ごとに定額納税を進めるべきである。」。朱棣はこの一意見を採用した。
宣徳皇帝朱瞻基が皇位継承後、軍費と皇室費用に増加に従って、鈔関(税関)の徴収様式が「登場」した。鈔関の名は、明代を初めとする一種の税収制度〜鈔関税は宣徳4年に明王朝が新増した商品税目の一つであり、この年に始まり、朝廷は鈔関で税金の徴集を開始した。千里の大運河上に、全部で7ヶ所の税関が、南から北へ順に:杭州、滸墅、揚州、淮安、臨清、河西務、崇文門が作られ設置された。この7ヶ所の鈔関と長江上の九江の鈔関はまとめて運河の八大鈔関と呼ばれた。その中で、地位の最も突出したのは臨清鈔関である。
臨清鈔関は1429年に設立され、八大鈔関中設立が最も早かった。宣徳10年、明朝は臨清鈔関を戸部分司に昇格した。この時臨清鈔関は、敷地4万平方メートル余り、中には役所(衙門)庁堂、倉庫、巡察室があり、建築規模は膨大であった。明代には、臨清鈔関の通常の「人員編成」は278人で、当時「特級」機関単位と言えた。臨清鈔関の成立後、国家に巨大な財産をもたらした。明朝の前期には、臨清税関の、毎年の徴収税は白銀に換算(かんさん)すると4万両であった。万暦6年には、山東一省の課税の銀換算は僅か8,860両であったので、臨清税関の十分の一に満たなかった(みつ)。万暦25年、臨清鈔関は税銀11.79万両を徴収し、運河鈔関全部の税銀の4分の一を占め、これは北京崇文門鈔関より多く、八大鈔関のトップであった。その重要な地位は、これによって知ることができる。
臨清鈔関は南来北往の商船を「出迎え」、また臨清の都市的変化を「目撃」してきた。明朝の隆慶、万暦年間に、臨清が全盛時期に侵入すると、その繁栄の程度は、平均的な州都市を大幅に上回っただけでなく、府城都市も超越し、北方の省都市でも十分に珍しく、当時全国的に有名な北方最大の商業都市となった。明末になって、臨清城には百万の人口があり、スーパー商業の大都会の称の湛えた。明末の15大都市中で、臨清は第12位に排列された。臨清の当時の手工業、商業、サービス産業の繁栄の程度を見ることができる。

臨清運河鈔関の明清碑刻

繁華が尽きる時に夢を追うのが止む

臨清鈔関が通過する商船に課税し、朝廷の為に巨額な税収に貢献し、当時の経済繁栄の目印であった。ただ商人が金儲けをして、納税能力が有れば、経済の繁盛を促進することができ、社会の各方面の急速な発展をもたらす。経済が繁盛した印となった臨清税関は、そのため多くの著作にも出現している。その中で、比較的人々に知られているのはイタリアの宣教師マテオ・リッチで、彼はかつて明朝万暦年かに中国に居住していた。1600年に、マテオ・リッチ一行は、皇帝への貢物を贈呈する準備をして、臨清を経たが、臨清税関主事(鈔関の事物を「一手(頭領)」に専門管理する)馬堂が面会し、馬堂は彼の為に豪華な宴席を準備した。この宴会に対してマテオ・リッチはその著書『利玛窦中国札记』に、「場面は荘厳華麗で、人々が想像できる最高君主に匹敵できるものに足りる」と記している。
これは別の側面から当時の政府の贅沢さを反映している。聞くところでは、馬堂は宦官で、明の神宗の寵臣(ちょうしん)である。彼が臨清鈔関を司ど(つかさどる)った時、重税を搾取(さくしゅ)し、横領して個人的なポケットを豊かにした。これによって、税監反対闘争を引き起こしたが、これを史上「臨清民変(民間暴動)」という。
統計によれば明清両朝では、記録に記される臨清鈔関主事は301人あった。その中で、最も有名な主事は正に李養宇が帰属し、馬堂の前任であった。両人は前後して、正反一対というべきで、はっきりとした対比している。李養宇は明朝万暦年間に首輔大臣張居正の学生である。臨清鈔関を司った時、既に朝廷の税収を確保するだけでなく、課税の芸術にも注意を払い、徴税と節税の間で、調和の平均点を見つけ出し、当地経済の繁栄に対して積極的な作用を果たした。李養宇は「市はその利便を行えば、貨物は流通する」と主張し、「商人は安定市場に生息し、収税役人は(税収)計画を心配がなく、国庫は資本の心配がない」という良好な効果を取得した。
光陰な列車が清朝中後期になると、滔々と長大な大運河は、形勢が急転直下して、運河一杯の帆影の壮大な姿はもう見えなくなった。この時政治は日増しに腐敗し、水利は何年にも渡って荒廃し、大運河の汚泥蓄積は深刻で、運送力は大幅に低下した。その中で臨清は毎年小浚渫、隔年で大浚渫を行った。毎年河道を疎通させるために、大量の人力、物資力を消費し、沿岸の民衆に深重な負担をもたらした。
清朝道光四年の冬、黄河が決壊し、汚泥が大運河の通航を塞ぎ、翌年清政府は商船を雇用して漕糧を運んだ。この漕運方法の重大な変化は、臨清鈔関の折返し点となった。これから、臨清と大運河に関係のある手工業、商業など、漕運貿易は迅速に衰退し、臨清経済は大いに影響を受けた。清末には、津浦鉄道と京漢鉄道が相次いで建設され開通し、大運河の南北交通の大動脈の効能は更に辺縁化した。1930年、臨清鈔関は徹底的に歴史的使命を終結し、最後に閉鎖された鈔関となった。八大鈔関のほかの鈔関は既に光緒27年(1901年)に全て関所を停止していた。

臨清運河鈔関模型

注:臨清中州運河古城区:昔ながらの運河下町の風情が残っています。運河鈔関(通る船に国税を徴収する所)、鰲頭磯(自然の川と運河との合流する閘門の一つ)、清真寺(イスラム教の教会)、ニ閘口(第二級の閘門)、問津橋(天津向きの橋)などの遺跡が見所。閘門(こうもん)。