徐福と煙台(ニ)
『史記』の『秦始皇ほん記』に「徐市等費以巨万計、終不得薬」、『淮南衡山列伝』に「遣振男子三千人、資之五穀百工而行、徐福得平原広沢、止王不来」のことが載っています。漢代の設置された徐郷県は徐、徐福が仙薬を求めたことからこの名があり、現在山東省龍口市の徐福鎮に当たります。そこに徐福祠があり、本堂に徐福の像が安置されています。民間伝説では、徐福が秦の始皇帝を説得して「長生不老の薬」探しに、3000人童男童女百工を連れて日本へ渡ったと伝えられています。
徐福が文字、農業そして医薬を日本に伝えた話は日本でも有名で、「徐福上陸の地」の伝承地が佐賀、和歌山、千葉などに今も見られます。
徐福に第一回東渡の航路
徐福は秦の始皇帝の命令を受け三神山に不老長生の薬を探しに行ったが、東渡の準備のために彼は自分の田舎の山東龍口一帯に戻り、労働者、船員及び千人の男児女児を探し、また船上には五穀の種子、各種の家畜、船匠(造船技術者)を載せ、山東半島の蓬莱で準備と集結を完成し、ここで最後の検査を完了した後、紀元前219年に蓬莱港から最も近い遼東半島の南端へ出航した。当時斉の船隊は遠洋航海の経験があり、北航路〜沿海航行を選択し、遼東半島近海の斉地の船隊は鴨緑江口の丹東、義州を経て朝鮮半島の西海岸の南下を継続した。南下の途中に平壌の前面の海域の席島、白翎島、火青島、徳済島などを経て済州海峡に到達した。
徐福が東渡に出航した時期は航海に有利な秋季と仮定され、西北季節風の追い風の影響を得ることができ、この他にも海流も秋季と冬季のみ発生することができ、やっと南下する渤海湾の海水面の寒流に遭遇することができる。
もし春季と夏季に出航すれば、済州南部に発生した対馬海流の支流の一つ、またの済州海流が正に北上する時期で、それで艦隊は山東半島と遼東半島を隔てて南下する回帰海流に遭遇することができ、これも済州へ南下する航路となる。ただし、この季節の風光は主に東風あるいは東南風で却って逆風であり、このような状況は海上航行には不利であった。
もし徐福の船隊が秋季に出発して、かつ台風などの突発的な天気の変化がなければ、それで済州海峡と呼ばれる朝鮮半島南部へ、海流と順風の影響を受けここへ素早く到達でき、順調に進むことができた。
徐福が済州海峡を航海している時、意図しなかった潮の流れと海流に流される事故が起きた可能性があります。船団の多くの船が主船隊から離脱してしまい、航行を継続するのに、本来考えられる必要な人員物資と装備などが皆失われてしまったのかもしれません。この状況下で、当初の航行の継続は一切皆変わって不可能になり、仕方なく、故郷に帰ると言う選択が困難であることを決定したのでしょう。
徐福第二回東渡の航海
注:斉の太公望は(受封以前の旧在地神を)八主神と見做して、五主神は膠東(威海成山日主神を宿る、煙台芝罘山の陽主神を宿る、煙台黄県の月主神を宿る、莱州の陰主神を宿る、青島膠南四時主を宿る)に存リ、四主神は煙台威海に在り、斉の稷下学宮は神仙思想の源流であり、歴史上の煙台蓬莱は往々に蜃気楼があり、秦の始皇帝や漢の武帝には、膠東半島は神仙の領域であった。環渤海湾海岸は仙境海岸と称されています。徐福はその時代の神仙思想の代表として活躍しました。
秦の始皇帝は在位期間に五度巡行に出たが、その中の四度は東巡して、かつて七つの刻石で功績を示し、五碑は山東に在り、その膠東を三巡で、貴重な「芝罘刻石」「芝罘東刻石」と「芝罘湾の大鮫魚(神魚)の大弓連射漁」を残した。
八主神の陽主神は煙台芝罘島にあり、男性の生殖器と象徴;陰主神は煙台莱州三山島にあり、女性の生殖器と象徴とした。渤海は女性の子宮の状のようになる。陽主は芝罘島、西に女性生殖器の象徴の渤海海峡を向けて、陰陽交合,勃起、妊娠、繁殖、興旺、豊饒,だから「勃」は人口増加の神聖のこと、勃は性崇拝の神聖要求。渤海は神聖の海、神海のものであります。
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