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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台莱州壁画墓

長年、経済の発展に随い、莱州市の幾つかの建設工事とその他の幾つかの掘削(くっさく)工事中に、多くの記載に未見の壁画墓が続々と暴き出され、本地区の墓葬資料で極大豊富とし、種々の原因により、多くの墓葬資料は僅かに部分写真と文字資料しか残されてないが、これまでに、莱州で発見した壁画墓に関する資料は次のとおりである。

一 壁画墓概述

(1)西程壁画

西程壁画は程郭鎮西程東南磗場東南部に位置し、莱州市街から東北に3キロメートル離れ、北に蘇郭河と東南から西北への流れがあり、西南に淇水河がある。この地は平原地帯であり、土壌は厚く、交通が便利である。当墓は1989年10月に発見されたが、現在では文字記録が残るだけである。
西程壁画墓は模擬木材にレンガ構造石墓で、北に位置し南向きで、墓は南向きで、墳墓は墓門、地下通路と墓室の三つの部分で構成されている。墓門の煉瓦彫刻の屋根の溝、斗拱(ます組み)、門灯、墓門の枡形小門、上面にレンガ積の堅い山頂門楼、斗拱と額貫き(アーキトレーブ)、間の彩色画は唐草五弁花と三角匂連紋(鈎型連続紋模様)の図柄、門壁の彩色画は鳳凰の飛翔と獅子の図、門の敷居の彩色画は同時、蓮華、地下道の壁の彩色画は草、鳥、童子である。墓室の平面は八角形をなし、ドーム型の天井で、表面に8弁の蓮華を彫刻。墓室は長さ、幅はともに2.50メートル、総高3.472メートル。墓室の北側にはレンガ積みの棺桶(かんおけ)。壁と、天井の間には斗升に三つの小斗升(一斗三升)を組み合わせたます組みで、斗升間の彩色画は花卉(かき)であり、S型の匂連紋図案である。墓壁には石灰を塗り込み、また彩色画は墓主の着座休息図、酒宴図がある。画面の色彩は艶麗(えんれい)で、内容は豊富、男女の墓主の他、中にはまた執事(しつじ)、刺繍の親子族女性、抱かれた幼児、腰帯で酒瓶を捧げ碗盆に潅ぐ男女の使用人と、クッションとカーテン、銭倉、穀倉、綿倉などである。地下通路の両側には駿馬、車両、遊戯童子である。墓室と戸口と接合箇所には墨書で「金明昌六年」の記事銘文がある。葬儀器具は既に朽ちており、遺骨が二体であった。醤油褐色の陶瓷残片を採集した。

(2)塔埠壁画

塔埠壁画は莱州市街の東北に位置し、文昌路の街道办事处塔埠村西部で、南に南洋河が東南から西北まで大海に流入している。この墓は1990年4月に発見され、現在は文字記録のみ残っている。
塔埠壁画は模擬木構造の煉瓦と石の墓で、北に在り南向きで、墓も南向きである。墓は墓門、甬道(地下通路)と墓室の三部分で構成されている。墓門は木造の門扉(もんぴ)で、門扉の外からレンガ壁で封じ込まれていた。甬道は半円アーチで、甬道の東西両側の壁画はそれぞれ椅子の輿(こし)担ぎ(かつぎ)、馬と男性使用人。墓室の平面は八角形寄棟(よせむね)で、南北長さ2.80メートル、東西幅2.86メートル、総高約3.80メートルである。墓室の四方の壁は石灰を塗り込めた後に壁画を描き、壁画は三層になっており、下から上へ、第一層は、七面の墓壁に彩色で物を捧げる女侍と少年召使と、衣食、ベッドととばり。第二層は、枡組み建築の図案と、レンガ彫刻の二層の枡組み模様、彩色変形雲紋、牡丹の切枝など。第三層は、墓室の頂部で八面に分けて八羽の白鶴を彩画し、一組の鶴が後ろの鶴と呼応して様子である。墓室内部からは人骨二体を発見し、頭は西向きであるが、埋葬方法は不明である。出土した部品は陶硯、菱花形薄銅鏡など、「明道通宝」、「精和通宝」など銅銭があります。

(3)東三嶺子壁画

東三嶺子壁画は文昌路に位置し、市外から0.5キロメートルで、南になんよう河を望む。この墓は1991年4月に発見され、前後2座の壁画墓が発見され、M1、M2の番号に分別し、前者は文字資料を残すだけで、後者は一揃いの写真を残すだけである。
M1は擬木結構のレンガ石墓で、北に在り南向き、墓も南向きで、墓葬は墓門、甬道と墓室の三部構成となっている。墓門はレンガ彫刻の門楼式で、寄棟、両側の縦のレンガ框には浮彫(うきぼり)の枝を纏った(まとまった)草花紋、門上には門簪(装飾突起)斗枡と瓦の廂が浮き彫りにされている。甬道はアーチ天井、東西の両壁には二人の雲上人(宮中侍者)が、棍棒(こんぼう)と、長い柄の瓜鎚(メロン型のハンマー)をそれぞれ持ち徒歩奔走している様子を無傷色彩で描く。墓室の平面波長方形で、アーチ天井、東西3.28メートル、南北2.64メートル、総高2.54メートルである。母子と内の壁面には石灰を塗り込みてから壁画が描かれ、開き戸を隔てて、ベッドととばりと布団枕、侍童、吊るした官服、焚いた香炉、笏板、腰ベルト、熏炉、長いスカーフがあり、別に机と椅子と筆墨硯印の文房四宝、帳簿、男女の奴婢たちが竈を焚き(たく)、物を捧げたり、提灯を掲げ、食事と花卉盆栽を二人リフトなどで運んでいる。墓頂は彩絵日、月、星辰、祥雲があります。葬具と人骨が朽ち(くちる)た。出土した部品は漆盅、錫壺、滑石小壺など器物及び「崇寧通宝」など銅銭があります。
M2墓の形成はM1と基本は同じで、レンガ積の墓壁に石灰を下地(したじ)に塗り、当調査時には徹底的に損壊していて、壁画の一部が残存するのみであり、壁画は高さ0.78メートル、長さ1.00メートル、そこに彩色で三侍女が描かれ、皆頭を高髻(たぶさ)(頭頂でまとめて髷を作る)にまとめ、髪飾りを着け、柳眉鳳目(柳葉形の眉に切れ長の目)で、小口に紅を指し、右から左へ分別して白、赤、黄色の褙子(唐代の半袖上着が長袖化したもの)を着け、三侍女は両手で器物を胸前に捧げ、それぞれ壺(つぼ)、磁器瓶、重箱を持ち、人物画の背後の絵は戸を隔てた窓が描かれている。この壁画は剥落が激しく、かすれてはっきりしないが、人物の服装や、器物の墓葬の形成を根拠として分析して、年代は宋代に適合するはずである。

(4)菱花味の素工場壁画

菱花味の素工場壁画は港湾路オフィスに位置する棱花味の早期工場内に位置し、南部は市街地域に連続し、西は大海に臨み、西南側には南洋河が東から西向きに流れており、地勢はやや平坦で土壌は比較的厚く褐色を呈した沙質であり、当墓は1997年8月に発見され、文字資料のみ残る。
菱花味の素工場壁画墓は擬木構造の煉瓦と石の墓で、北に在り南向き、墓も南向き、墓葬は墓門、甬道、墓室の三部分から組成されている。墓門の墓室の南壁の真ん中に位置し、レンガ彫刻の門楼様式で、ドーム天井。高さ2.5メートル、北壁に一耳室(小部屋)があり、平面は方形で、長さ1.2メートル、高さ0.8メートル、壁画は描かれていない。甬道の東西両側には草葉、牡丹の花卉の彩画がある。墓室の角スミスにはレンガの隅柱、柱間の欄間額、普拍坊があり、その上にレンガ彫刻の一斗三枡様式の転角斗枡を作り、斗枡の間の色彩画は花卉、蔓草紋図案である。墓室の四壁には通して石灰が塗られ、彩画は門窓、人物などの壁画である。墓室内は人為的な破壊が激しく、墓葬と尸骨の情況が不明、随葬器物がなかった。

(5)五里侯旨村壁画

五里侯旨村壁画墓は永安路街道办事処五里侯旨村の工事現場に在り、莱州から1キロメートル、東はやや南陽河に依り、北には福禄山があり、この墓は2006年10月に発見された。この墓の発見当時は、墓葬の大部分は掘削機(くっさくき)で推し壊され、甬道両側の壁画が幸いに難を逃れていた。
五里侯旨村壁画墓は擬木構造の煉瓦と石の墓で、北に在り南向き、墓も南向き、墓葬は甬道、墓門と墓室の三部分から組成されている。墓室の平面波ほぼ円形を呈し、ドーム型の天井である。墓室は北側にあり、北壁に寄り、レンガの棺桶(かんおけ)があり、四方の壁の墓葬の竪壁と天井部分の連結部分にはレンガ隅のレンガ彫刻の斗枡、欄間額などで、斗枡間の彩色画は花卉の図案である。壁画はまず墓壁に石灰を塗り込み、その後壁画を描く方法である。壁画図面は色彩の人物、花卉などの内容である。葬具と遺骨の状況(じょうきょう)は不明で、随葬の器物の出土はなかった。
現存の壁画が甬道の東西両側に描かれている。東側壁画画面:長さ0.64メートル、高さ0.67メートル。東側壁画の画面:門神と男性使用人を描き。前者は門神で、横眉縦目で、表情は威厳があり、両手に武器を固く握り、頭に兜(こう)を戴き、上に房紐(ひも)があり、両側は耳を庇護し、下に黒色の長靴を履いている。後者は男性使用人を描き、頭に瓦溝帽子(庶民帽)を載せ、下着は赤色の細袖シャツで、上着は白の半袖長裾の中国服を着け、腰にベルト、足の部分はかすれてはっきりせず、両手で酒杯を置いた盞托を胸前に捧げ従っている。西側の壁画の画面は、長さ0.63メートル、高さ0.46メートル。門人と女性使用人を描き、前者は門神で、横眉縦目で、表情は威厳があり、八字のひげ、両手に武器を固く握り、頭に兜を戴き、上に房紐があり、両側は耳を庇護し、内側に黒いとの細く絞った袖の着物を着け、上着はゆったりした袖の(長裾の)中国服を着け、腰に束帯、足は皮サンダルに乗っている。後ろは女性使用人で、髪を高く結い(ゆう)、簪(かんざし)を着け、身体には黒のショール、半臂(ベスト)の無袖を着け、手に(中国服の)シャツとスカートを着け、腰には組帯を結び、手に酒壺を捧げて従っている。この残留壁画の保存は完好で、壁画中の人物の服飾、器物の特徴及び出土のレンガと石積みの墓制の分析を根拠に、この墓葬は宋代の風格に符合している。

(6)西大宋村墓群

西大宋村墓群は虎頭崖鎮西の大宋村の西南50メートル、莱州市の西南、市街から1キロメートルに位置する。主要な分布は当村西南の緩い(ゆるい)丘の台地上で、地勢は東が高く西が低く、村の南に海鄭河があり東から西に向かい大海に流入し、西北約2キロメートルの所は古港の埠頭虎頭崖港である。墓地の西部には深さ約1.2メートル、広さ約2メートルの水路があり、水路の断崖で西大宋村壁画墓を発見した。西大宋村墓は擬木構造の前、後両墓室と西耳室(副墓室)のレンガと石の墓で、北に位置し南向き、墓も南向きである。墓門は前墓室の南壁の真ん中に位置し、ドーム天井である。門を塞ぐレンガは平レンガ積みで、レンガを墓門と甬道の間に嵌め込んでおり、菱の実形を呈している。甬道長さ0.86メートル、幅0.69メートル、高さ1.20メートル。前、後の墓室の平面でほぼ四角形を呈し、墓室の西壁四面は徐々に上に向かい収められドーム天井を形成する。前後の墓室の間には通路があり、西耳室と後墓室もまた通路があり相通している。前墓室の壁画は、製作が粗雑でかすれてはっきりしない。まず墓壁に泥を塗り、次に石灰を塗装し、絵を描く方法を進行した。現場によれば、墨線で描かれた宝相華(瑞花)、牡丹、雲紋、縄条紋などの図案と人物、門窓などなどの内容が判別できる。後墓室は壁画がなく、四壁はレンガが嵌め込まれ、壁面を高くしている。北壁の真ん中に擬門を(レンガで)積み出し、西壁は机と椅子の図で、中間に一卓をレンガ積み、机の両側に背椅子を立てかける。東壁は既に破壊され、内容は不明である。墓の立壁は擬木構造で、欄額と普拍坊をレンガ積みし、四壁の角は斗枡などをレンガ積みする。西耳室の平面はほぼ方形で上部はドーム屋根を呈する。東西1.10メートル、南北1.18メートル、通高1.80メートル。西耳室の内壁には全くレンガの浮き彫りや壁画を描いていない。
墓室は人によってひどく損傷し、葬具と骨は無く、埋葬器はなかった。
西大宋村墓群は、2008年に、文化財作業者が埋葬文化財全面調査中に発見した。調査の理解によると、1960年代1970年代に、当地の村民も土地を整地している時に、また多くの同じ墓葬を発見した。1971年に、発見した墓葬中に、一軒の現代の青花瓷玉壺春瓶が出土した。分析で、この墓群は宋代時期である。

(7)東南隅壁画墓

東南隅壁画墓は莱州市文昌路街道办事処東南隅村東南に位置し、2010年1月建築の施行中に発見され、発見当時、この墓は人的に破壊されました。当地は一墓群であり、地所は莱州市街南陽河の北の沖積(ちゅうせき)台地上であり、更に南には雲峰山があり、海抜約58メートル、墓群の南約100メートルには南陽河が東から西向きに流れ、また幾つかの支流が東南から西北に南洋河に合流している。
東南隅壁画墓は擬木構造の煉瓦と石積の墓である。北に在り南向き、墓も南向き、墓葬は甬道、墓門と墓室の三部分から組成されている。
封門は、レンガ積で密閉(みっぺい)されている。地面から4層に分割でき、第一層は、1重縦積レンガ、高さ0.35メートル。第二層は7つの斜め1重平積(長て積み)舗装で、第三層は二重の平積み舗装され、一番上は13層の1重斜め積で、交差したレンガで菱の実形の半円アーチとなっている。
甬道(地下墓通路)は、墓室南壁の真ん中に位置する。墓門内はレンガ積の1重積の半円アーチ天井で、フランス積で、内、外層でアーチを作り、内層のアーチ厚は32.5センチメートル、外層のアーチ厚は4.5センチメートル、地面からアーチ頂部の高さ1.44メートル、広さ0.92メートル、深さ0.96メートル、幅0.85メートルの廃水路が東、西に進み、両壁と天井部は石灰を塗り、同時に東、西両壁には共に壁画がある。甬道の門内はレンガ壁で閉じられている。
墓室は初めにほぼ方形の土壙を掘り、その後レンガ積の墓室を作り、平面波ほぼ方形で、東西は2.20メートル、南北2.25メートル、通高3.40メートル、レンガ積室は擬木構造で、墓室内壁は墓室の過度(かど)にレンガ積の社員柱があり、1重のレンガが傍立ち、柱高は約0.98メートル、柱礎はなく、四角の地面に立ち、柱頭には角斗枡があり、柱間斗枡(詰組)があり、(枡組には)柱頭、大斗、秤肘木、巻斗があり、巻斗上にはレンガの梁があり竪壁上のレンガ積は次第に覆斗形天井(寄棟)となっている。墓室内は1重のレンガ敷きで、高さは甬道地面よリ0.10メートル高く、北壁に寄り添った中間にレンガ積の棺桶がある。棺桶残高約0.25メートル、東西長さ2.20メートル、南北幅1.40メートル。
墓内は人為的な破壊が激しく、棺桶の西北側で少量の人骨残片を発見し、葬具と遺骨の情況は不明、随葬器物はなかった。
壁画は主に甬道と墓室の四面に描かれ、最初に白灰を塗りその後壁画を描く方法を採用している。墓室の東壁は建設工事中に掘り崩して損壊しており、僅かに壁画が残る。墓室の頂部には壁画が無い。墓室内の壁画は画面を二層にかけることができ、上層は斗枡建築構造の図案で、主に斗枡組、舗拍枋(梁)、欄間額と牡丹唐草などの装飾図案で、対称的なレイアウトである。下層は主に家居や、人物の生活情景である。壁画の色彩は豊富で、褐色、赤、黒、黄緑、青、橙色などである。
墓室南壁の甬道内両側の壁画は、甬道内上方のアーチ部分の壁画は二層に分けることができ、上層は全体に赤色の「〜」形態の装飾図案を帯びて、下層は白い背景に墨線で牡丹の切枝の図案を描く。甬道内の東側には男性使用人を描き、太眉太眼、体形壮健、頭に白巾と褐色の三角笠、上着は赤褐色の右前の細袖の絆纏で、両袖を捲り上げ、上着の下裾は腰に巻かれ、白い腰布と緑の腰帯が露出し、下半身はタイトな白の股引(ももひき)、足に布草履、右手に斗笠(三角笠)左手に平の長い工具、「戥(小秤)に似たようなものを持ち、振り向き歩く様子で、画面の右上に朱で「大吉」二文字を題しているが、「大吉」「利市」は中国古代の民間伝説の人物で、ここではまさに吉利(幸運)を希求する意味である。

墓室の西壁壁画は夫婦対座図で、画面の真ん中にレンガ積の一卓があり、卓下に胴縁(横木)と脚木が見える。高さ0.49、長さ0.75メートル,卓の両側にはレンガに背もたれの椅子があり、両脚の間に一本のつなぎ貫きがある。右椅子高さ0.62メートル、幅0.43メートル、左椅子高さ0.62、幅0.38メートル。卓、椅子の表面の緞通は褐色で、卓面の下には褐色の歯牙紋様を描く。卓上には、托と杯、椀と皿、大皿、大皿には各種の食物を盛り、卓辺に夫婦が対座している。右側の主人は頭に褐色頭上結び(無脚)の頭巾をかぶり、身には丸襟で褐色の細い袖の長い袍の着物(文官服)と、抱え帯を着け、両手に銚子を持つ。右側の夫人は頭を高髻に梳きあげ、簪と、笄(こうがい)を着け、ピンクのチークに、赤い唇(くちびる)、身に褐色の褙子(中国ベスト)を着け、微笑んで主人と見つめあっている。男性主人の後には、男性使用人を描き、白の頭上結び(無脚)の頭巾(ずきん)を着け、身には赤色の右前の細い袖の長い着物で、腰には褐色の布ベルトを巻き、腰際の両側には緑色の下着を露出し、下半身にはタイトな股引、足の白布の浅履を履き、両袖をたくしあげ、両手で箒(ほうき)を握り床を掃除している。

墓室の北壁の壁画は門の似せ絵で、画面の真ん中にレンガ積で門框門簪(突起飾り)を築き、朱色を塗り、同時に朱色の大門を描き、門の左右両側にレンガで一曲の連子窓を作り、赤色に塗装した。左側の窓の傍らには女性の使用人を描き、おさげの束髪で、髪を後ろに結び、頭飾りを差し、薄い頬紅、上着は白色の花柄の褙子(中国ベスト)を着け、下に丸襟シャツ、白の胸ポケットが有った。下には白いスカート、腰に二本の緑色の布帯垂らし、足には白布浅靴を履き、両手に托と杯を持ち、上に酒杯を置き、東に面して立つ。墓室の東壁壁画は損傷が激しく、レンガの四角い卓と燭台が残るだけで、角卓、燭台図を作り、赤褐色を敷き、角卓で、卓面と支柱の間は菱形の装飾図案と牡丹図図鑑が隠されている。脚はまっすぐで、脚先に装飾がある。

(8)御龍居壁画墓

御龍居壁画墓は莱州市御龍居小区内(高層住宅団地地区)に位置し、東方の南五里の宋代紀年壁画墓から500メートルの距離にある。2013年1月、団地地区の建設工事中に発見されたが、墓葬は人為的破壊を受けた。
御龍居壁画墓は擬木構造のレンガと石の墓で、北に在り南向き、墓も南向き、墓葬は南向き、墓葬は甬道、墓門と墓室の三部分から組成されている。
墓門は、1重レンガの平積で菱の実形を形成している。甬道は、アーチ天井。幅0.88メートル、深さ0.90メートル、高さ1.30メートル。墓室の平面波八角形を呈し、寄棟天井で、墓室の長さ、幅は3メートル、通高4.3メートル。墓室は1重の青焼きレンガを敷き詰め、甬道床面から0.35メートル高く、「凹」字形の棺床を形成し、墓室内部は破壊が激しく、棺床の上に少量の腐朽した棺桶の木片を発見したが、棺桶の情況は不明であった。頭骨と骨片が墓室の東側の一角に散乱していたが、随葬物はなかった。
壁画は墓壁をまず石灰で塗り、後に壁画を描く方法を採用し、同時に、レンガ彫刻と絵画を結合する方法を採用し、三層を見ることができる。第一層は花卉と起居の図、伎楽の図など。第二層は、斗枡建築の図案、レンガ彫刻の2層の斗枡、斗枡の正面の外縁は黒の枠取りで、白字は赤褐色、側面は赤土色、アーチ絵は黒地に牡丹の切枝の花卉と黒地に黄色の鶴草紋様で、欄間額、普拍枋(欄間の上の空間)には黒地に白花と薄紅色の蔓草紋の図案など。第三層は、墓室天井の雲鶴図で、八面に分割し8匹の白鶴を描き、仙鶴が羽を広げ高く飛んでいる。
墓の南壁と甬道の両側の壁画は、甬道上のアーチ天井部は赤色の牡丹の瑞華紋を描き黒縁、洋装の両側部分の絵は赤茶色の巻雲紋の装飾図案であるが、脱落が激しい。
東南壁の画面は宴席と侍者の図。画面中では4人の侍女が酒食の準備をしている。右中間近くに二台の赤茶色の食卓があり、まっすぐな脚、二枚の真っ直ぐな幕板、卓上に八種の食事セット、碗、把手壺、果物皿、托と杯、食品箱など様々な食器が詰められ、食事セットには食品と点心が盛られ、テーブルの横には燭台が燃えており、ケース前には3人の侍女(ウェイトレス)が描かれ、中間の女性は高い結髪に白巾を交え、頬に薄紅、唇に朱を指し、身には深紅の細い袖の中国チョッキを着け、赤色の胸当て、下半身は赤色の長いスカート、両手には瓜のうね型大碗を捧げ、肉を盛り、東を向いている。左の女性も高い結髪に白巾を交え円盆を捧げ、頬に薄紅、唇に朱を指し、身には深紅の細い袖の中国チョッキを着け、赤色の胸当て、下半身は赤色の長いスカート、両手には円盆を捧げ、盆内にはレンコン餅を盛り、東向きに立る。右端の女性も高い結髪に白巾を交え、頬に薄紅、唇に朱を指し、身には深紅の細い袖の中国チョッキを着け、赤色の胸当て、下半身は白色の長いスカート、両手には小薬缶を胸前に持つ。左の女性は髪を低く結び、頭飾りをつけ、身には小紋の青い服、手には一揃いの錦織のような長い反物を捧げ、振り向いて中間の侍女を会話をする様子である。侍女たちの後にはオレンジの仕切り扉が描かれている。

西南の壁画の面は伎楽図である。画面高さ1.30メートル、幅1.23メートル。画面には四人を描き、左前の男性は、顔色は赤く艶艶(つやつや)し、頭には裾(すそ)を出さずに黒いの頭巾を着け、身には丸首の青紫の細袖の短い着物、腰には白帯を巻き、下半身には白の股引を着け、足には白の浅靴を穿き、両手には三板(拍子木の一種)を持ち、画面の一番右に描かれた男は、頭には裾を出さず黒いの頭巾を着け、顔色はやや赤色、白色の猿股を着け、脚絆の又下は足首を露出し、黒布の浅靴を穿き、両手に鐃鈸(にょうはち、中国の小型シンバル)を持ち振り返り打つ様子。壁画中央に女性を描き、高く結った髪の中に頭巾、頬には薄紅、上半身に赤襟で白の中国上着、下は薄紅の長いスカート、足には深紅の先細靴を穿き、身を僅かに西に向け、体前に小太鼓があり、両手に撥を握り敲き(たたく)様子。壁画の東側には女性を描き、高く結った髪に頭飾りと簪を付け、頬に薄紅を差し、上に赤色の細襟が対になった中国ベストを着け、下着は白色の丸襟シャツ、赤色の胸当て、下半身は白の長いスカート、脚は赤の先細靴を穿き、両手に笙、竽(大型の笙)のような楽器を捧げる。

西南壁、西北壁、東南壁の四面の画は花卉図である。画面高さ1.30メートル、幅1.23メートル、画面は黒色の額縁を描き、額縁の中には三芳の赤色の牡丹の花を描き、花卉を除いて、そのほかの部分の脱落は激しく、はっきりしていない。

北側の壁画は生活の図。画面高さ1.30メートル、幅1.24メートル。画面に朱色の横帳を描き、更に開いた赤茶色の格子の戸窓と赤色のとばり、とばりの中にはベッドがあり、その上に綺麗に畳んだ赤い着物、扉の傍らから覗く女性は、高く梳いた髷(まげ)に、やさしい眉、頬は薄紅、おちょんぼ口に紅、上身は細襟の対になった白色細袖の上着、下着は赤の細襟のシャツ、たくした赤色の胸当てて、南を向いている。

墓室の天井は八面で、一面ごとに祥雲に飛翔する白鶴を描くが、姿はそれぞれ異なり、迫真(はくしん)の出来映え(はえる)である。

墓葬の形成と壁画の風格から分析すると、この墓は前述の塔埠宋墓の特徴と基本は相似(そうじ)しており、その年代は正に宋代である。

莱州壁画墓の特徴

以上を総合して莱州壁画墓発見状況を分析すれば、当初の墓葬には以下の幾つかの特徴がある。

(1)莱州壁画墓の多くは莱州市街及び周辺区域から発見され、四周に向かって散らばる傾向で、辺縁地区に多く見られる塼石墓や、石室墓には、壁画墓の発見は極めて少なく、当地の政治、経済文化の制約を受けていると解明している。

(2)壁画墓は一般に作りが精緻謹直で、かつ絵画と線の彫刻が融合して一体となり、結構は規則性があり対称で、観察を根拠に、ここの墓葬に使用の塼(レンガブロック)は、人の作業で仔細(しさい)に磨かれ、角がはっきりしているばかりでなく、塼と塼の間の隙間も最小で、結合は大変緊密で堅固で、当時の建築の超越した組み合わせ技術を反映している。

(3)書法絵画技術の超越さは発見した莱州宋金時期の壁画墓から見て、壁画墓は色彩は豊かではないが、内容は豊富、画の技術は大変巧妙(こうみょう)、墓葬の壁画と雖も(いえども)民間の絵画師に出た可能性があるが、目下出発の壁画の絵画の風格から見て、既に精密に係わらず、緻密(ちみつ)精細に貴族美術の特色を帯びた壁画で、また用筆は率直(そっちょく)で更に濃厚な生活の息吹(いぶき)を備えた世俗化した壁画である。人物の造形からみれば、人物は大小に比例して肉付けされ、造型の生き生きとした動きは真に迫り、表情や態度はそれぞれ異なり、人物の着衣、胴体、表情、色彩など皆各自の身分に不合格し、各人物には各自の表情があり、人物の表情と態度の表現は十分生き生きとして、多くは現在生活中の本物の人物をよりどころとして描かれ、あるものはひいては起稿に拠らず手放して描かれ、筆法は簡潔で蒼勁(枯れて力強く)飄逸(のびのびとしている)であり、煽情は太く細く変化に富んで、墨蹟は非凡である。

(4)莱州の壁画墓の内容は画像以外にも、また壁画上の題跋詩詞、墓誌紀年などの形式が出現し、詩詞の内容は多く当時の尋仙問道(神仙を訪問し、真理を問う)類の名人の詩句で、その書法の用筆の闊達さは、一種実直厚情で飾り気がなく、さっぱりあっさりとしてまた優雅な書法芸術の境界をうしなわず、甬道(墓室前の地下通路)の題壁に墓誌があるのは、莱州壁画の特徴で、また山東省内で初めて発見された。

(5)壁画の処理方法は同じでなく、二種に分けられ、一種は磚墙(レンガ壁)を積み上げた後、まず細かい砂と粘土を表面に塗り平らにして、その後石灰を塗り、次にその上に絵を描く。一種は直接石灰を塗り、その後上絵を描く。両種の技法にはそれぞれ利害があり、前の一種の壁画は、画面が平らで、利点は絵が円滑自在で、絵画の効果が良いが、欠点は壁画が水に浸かると、壁画は(乾燥してから)割れ剥落(はくらく)しやすい。後の一種は墓室上部と模造木構造の二次的部分に多用され、利点は壁画の剥落は少ないが、欠点は画面が平坦ではなく、粗野(そや)で、線もあまり流暢でなくことである。

    結論

歴史上、宋代絵画は中国絵画の芸術発展の最高峰の時期で、宮廷画院に限らず、多くの帝王が皆絵画に対して程度の異なる関心があり、一部の士大夫でさえ絵画活動に従事し、唐代に対して、宋代壁画は大きく異なる違いがある。第一に、創作者は皆民間人と工人であり、主に墓室の装飾と為した。第二に宋代の墓室絵画の画像の配置方法は一般に融通性(ゆうずうせい)のある方法を採用し、不同の空間により不同の内容を配置することで、その中でよく見られる二種の配置の方式は欄を分ける配置と連環画(中国式連続画)に似た巻物式の配置方法で、殆ど墓室の大部分の面積を占拠するのは酒宴、楽舞、化粧などの現実生活の場面と物質享受である。第三は創作の主体は民芸作家と職人であるため、墓室壁画の創作は主に愛好に出るものでなく生計を立てるもので、そこで人力と物質力を節制するために、多く「粉本(下書き見本)のような民間絵画の形式を多く採用し、その後この地区の墓室が異なる墓室はこの作品または摸写手本を大量に使用していた。その結果はこの地区の墓室壁画は付合雷同(らいどう)しており創造性に欠乏している。多くて宋代の墓室壁画の構図領域は瓜二つ(うりふたつ)で、墓室の後壁はレンガで模擬門を築いて、左右の両壁には男女の侍者(じしゃ)、或いは夫婦が対座して酒盛りをしている図で、この図像の構図と表現技法は基本的に一致している。第四に、宋代の院体画(宮廷画院画家の絵画)と墓室壁画の間には交流と互助(ごじょ)作用がある。一方で宮廷画院は多くの職人、貴族、兵士など出身が底辺の民間画工を吸収し力量を充実したが、これは「画継」などの書籍に明確な記載がある。一方で、画院には少なからず画院画家は自分の願わない拘束を受け、あるいは皇帝やその他の官僚に罪を得たため、画院を離れ、民間画家ととなった。墓室壁画の題材を新しい壁画、技法を高めさせた。宋代の山水画家は唐人の創造した皴法(山ひだの画法)や、線条の形式に倣ったが、手段は更に豊富となった。線の風格は厳瑾、精彩な傾向がある。これは民芸術家の手中にも伝わり、墓室の壁画中にも通常に運用され、宋代絵画は斬新な繁栄真っ盛りの時期に進入した。種々の原因で、宋代の名人の書画は存在は少なく、民間が書画は更に見つけ難く、莱州に伝わる「掖県八景」の称があり「海廟壁画」は(名画家)呉道子の自筆であるが、惜しいことに破壊されて無く考察できなく、莱州出土の墓葬壁画の資料分析で、肯定的に言えるのは、莱州当地の民間の絵画技芸はすでに大変高い専業的水準に達し、一部の選り抜き(えりぬき)の壁画が当時の職業名家の手に出ることは大変可能性がある。墓葬壁画の発見は、宋代絵画の空白部分を補填した。
総じて言えば、莱州の壁画墓は鮮明な地方の特徴を具えていて、その価値は豊富な芸術表現手法にあり、洗練精密で熟成された描画技術を運用して、直接間接的に当時の現実生活を反映し、莱州地区の宋元時期の建築絵画芸術、古代の人物の服飾、葬送習俗、及び当時の政治、経済、文化に対して全て重要な意義と参考価値がある。