三人日本軍捕虜が鐘家村河西で働いた
1945年に日本が投降すると、8月22日、ソ連のバイカル副司令イヴァノフ中将は250名の空挺部隊を率いて旅順飛行場に着陸し、旅順司令に就任した。日本軍の旅順駐在司令官小林謙五海軍中将は帯刀をソ連に手渡して投降した。小林謙五はソ連軍によってシベリアへ護送された。1948年にそこで病死した。旅順で投降した日本軍は全員が現在の7417前の空き地に集中し、その空地内はテントで満ち溢れた。ソ連軍の規定では、日本軍の将校は帯刀をして、日本捕虜を管理するのに用いてもよかった。ソ連軍が周辺で銃を持ち警備した。
一部分の日本軍捕虜は旅順中路の労働に参加した。現地人の話によると、道路建設の日本軍は日本人の将校により管理され、ソ連軍は警戒の責任だけであった。彼らは重肉体労働に従事したが、食べても腹を満たせず、夜に付近の民間に駆け込み食べ物を求めた。ある人は逃亡して捕らえられ、見せしめのために、衆前でつるはしを使って人を打ち殺した。
ある夜、3人の日本兵が飢えに堪えられず、担当官が寝入ると生命の危険を冒して逃げ出した。彼らは全く北へ向かい、山を超え、山向こうの鐘家村河西の王氏の民家へ駆け込んだ。彼らは働きができ、飯をくれれば、銭は要らないと、哀れに切に手でジェスチャーした。王と名付けられた華族は、3人がボロボロで痩せているのを見て、彼らは哀れだと思ったので、ちょうど家に日雇いが足りなかったので、彼らを引き取った。彼らは山里の公路工事から逃げ出したことを知っていたので、主人は、これがソ連軍に知られたら、面倒なことだと、少々不安であった。他人に発見されないように、主人は彼らに当地の農民の衣服と取り替え、労働の時にはいつも藁(わら)帽子をかぶせ、道路を行く時は頭を下げて話を禁止させたの。村人は誰もが、王氏に雇われた3人の作男は少々変だと思っていたが、誰も日本兵だと考えもしなかった。後に彼らが本国に送還された時、誰もが、王氏が雇った3人の作男が本来日本兵であったと、やっと知った。村民は悶々とした王氏の心が多きく、敢えて日本兵を作男として使ったことを皆が褒めた。農地改革の時、搾取(さくしゅ)の問題を研究するために、王氏が日本兵を雇ったのは搾取ではないと示唆された。作業部会は、日本兵を搾取ではなく革命的な行為として利用することに合意した。
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