山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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百年前の中国国の指導者--朱啓鈐伝

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姉さんの記録フィルムを見て、梁思成と林徽因の一生が、一人の人と大きな関係のあるのが、やっと知った。

1928年、彼らは3月21日を選らんで結婚し、この日を選らんだのは、宋代の建築の大家李誡の墓碑にある日を選らんだ。

残念ながら、私は魯班(公輸般=こうしゅはん、戦国の匠)は知っていても、李誡も知らなかった。

李誡の書『営造法式』は梁思成の父親梁啓超が彼らに寄せたもので、書信に「一千年前にこの傑作があり、我ら文化の光栄とすることが出来る。我が朱桂辛の校訂印刷で莆竣が私に贈ったもので、この本は最後に思成と徽因に贈るのでこれを長く宝蔵しなさい」と書いてある。

この本は梁と林の終身に影響した。

彼らは帰国後「営造学社」へ加入して、梁は「法式部」主任で、一代任務はこの本を研究する事であった。

彼の子は「梁従誡」と言うが、言わんとする所は「師として李誡に従う」の意味であり、この二文字には大変深い望みが込められている。梁従誡は後に二分の差で清華大学の建築学系に試験に通らなかったが、当時彼の父親は(その学)部の主任であった。梁従誡は晩年この事を話し出すと、顔面ではまだ「(私には)甲斐がない」と羞ずかしている。

『営造法式』はどれほど重要なものか知られました。

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私はこのように建築に対しては知らず、梁と林の過去はゴシップしか知らず、漠然と推測として〜営造学社?これは清華大学あるいは東北大学なのか?

記録フィルムを見て、この研究室は完全に私立機構であったことをやっと知った。

創業者は梁啓超の初心に言及された本の寄贈者「朱桂辛」=朱啓鈐(ケイケン)であった。李誡の本は長年失われていたが、彼により見つけ出されたものであった。

私はあまり留意しなかったが、梁啓超はこのような知識人であると思った。改めて彼の写真を見ると、長い中国服を着て、誠実そうな様子で、眼鏡の下に大きな眼袋のある。見たところ素朴な老人である。

記録フィルムでは、この人は当時の内務総長、交通総長、国務総長であった。

おや、国の指導者なのか。

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記録フィルムの資料を見終わり、朱啓鈐が面白い人だということがやっとわかった。

彼その人は、曹聚仁(作家)の言葉では「役人となる」といい、一生の、清末から、北洋政府、中華民国、中華人民共和国と時を逸らすことがなかった

彼の旧学は大変良く、外祖父は漢学の大先生の弟子で、母親は宋錦(江蘇の織物)片で巾着を作り、祖父が描いた頭巾には『紅楼夢』に描かれた寸金寸絲の緙絲(手織絹)を用い、彼の後の芸術に対する感情は、ずっと幼少時代のこの纏った(まとまる)錦織にあった。

彼は湖南で成長し、ちょうど清末の鉄錆びた大門がかかっと押し開かれ、山海に風雨が、絡み合い、湖南は清末の愚牛(のような)人の火花が飛び散った地方であった。官僚でさえも、巡撫(知事)陳宝箴と教育行政の江標のように、気風も開けた。江標は試験官主任となり、出題した試験の題目は「英(国)人に公・保二党があり、中国の将来に是れ此の気象があるや否や」、「自来改正の不易を論ず」、「古今儀器考」⋯である。

少年朱の友人も年が若く、青年の才能を悔らない(あなどる)のは不思議で、「呉(上海)に往来して遭い、かの国の賢人先生と大変交遊し、内憤を募らせ、改革説を好んだ」。

戊戍(ぼじゅつ)の変法の失敗以後、維新派は絞殺(こうさつ)され、彼は長沙で、元通り章士釗(しょうししょう)と「秘かに(みそかに)禁書を購入し、相互に伝習し、意気はなくなっていなかった」。

だが朱は文人ではなく、彼は科挙には出ず、22歳で地方の小役人から初め、仕事を始めてからずっと仕事で、進んだのは世を納め(おさめる)役立てる道であった。


朱啓鈐、張百熙(右)と袁世凱(中)は京師大学堂訳学館前の撮影

1905年、彼は清末に「首都警察」制度を創設したが、当時の警察は安全、交通、消防、衛生、社会保障、救済⋯⋯何にも全て管轄し、曹聚仁は「我々は今見てきたように、警察はどうであろうか、当時、これは得難い大事で、年若く度胸と見識があれば敢えてなしえて敢えて遂行した。」と書いている。

それでは、あなたはライトを動かし試してください。

北京の夜はいつも真っ暗で、朱啓鈐は北京の路上に街路灯を設置したいと考えたが、首都の某御史は自宅に数世代ライトが点されたかったという理由で、皇帝に彼を弾劾(だんがい)し控訴(こうそ)した。

曹聚仁は、「朱啓鈐はまだ城外の大柵欄で一方通行制(システム)を導入していたが、敢えてこの規律を違反したのは肅親王善誉の福晋(夫人)であったが、彼らは勇気を持ってその福晋に銀貨で10元の罰を科し、本当に権威を侵したが、意外にも肅親王を納得させ、これは大変スムーズに施行された。」と言う。

世界の元で、王土の無い帝国はなく、どんな公共生活に言うべきことがあるのか。だが朱先生は三十代になってそれを動かす決心をした。


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袁氏(袁世凱)が国を興した、1913年に朱啓鈐は内務総長を担当した。中国の都市化は資本の力によって取り巻いて出来て来て、京奉、京漢の二本の鉄道には前門まで道が作られ、両側には商店が種々立ち、首都は初めて混雑が出現した。

最も賑やかなのは正陽門で、それは「聖主は陽に当たるべく、日は中天に至り、万国瞻仰(センギョウ=仰ぎ見る)の意味で、それは国の門で、八国連合軍は北京に進入し、正陽門の城楼と矢倉楼は燒毀たれ、西北へ亡命した西太后慈禧と光緒が宮廷に戻った時、城門上に五間の紙製の碑飾りを貼り付け、門を装丁する人気があった。

屏を作ろう(閉塞を制御したい)と思えば、この門上に土を運び穴を開け、これは手を焼くことで、朱は「中傷の余り旧俗を壊し公共を侵すことはあり、土木を好み娯楽を求めるものが居て、誹謗の書物がたくさん出て、ついで条理を語り、甚だ至っては風水の水として、道路を驚かしで伝聞している。」。

そしてまた政府は、道路を作るのかと言う。良いことには、私にはお金がない。 

朱は鉄道を見つけて、あなたはこれをご覧になってもあなた方のために良く、あなた方はお金を出せば言い、お金を出したら、後程旧城址の土はあなた方はまた道に埋め歩くこともでき、留めて私に草花を植えさせてくれれば、このようにすれば、彼の整理した費用は節約できる。

彼は正陽門の両側に二つの大穴を開け、東西に進出して、またふ右街、南長街と北長街、南池子と北池子を通り、長安街と南北方向の交通の主要道を開通した。

当時のアメリカ公使ポール・ラインシュ(Paul Samuel Reinsch)は、「建設者として、彼は北京のオスマン男爵となった」と彼を評価した。

オスマンはフランスのセーヌ省の行政長官で、パリで大規模な市政改革があり、新しい給水と排水路系統を建設し、新しく樹陰道の建設、公園の開設をしたが、しかし私はこの比喩の背後には隠されたある意味があると考えているが、それは朱啓鈐とオスマンは皆総統を前任してまた皇帝を称したDC者支持を受けた。

袁世凱は支持のために、彼に銀の斧と、紅木に銀の箍(たが)、上面には「上鐫」と記したものを送り、内務総長朱啓鈐は大総統の命令を奉じて正陽門を改修したが、朱総長は1915年6月16日にこの機器(銀の斧)を持ちいて旧城門の最初のレンガを取り除き、交通を長く便利とした。」


朱啓鈐は雨の中で最初の旧城壁のレンガを叩き落とし、これは「民が北京を治める先河を開啓す」と呼ばれている。

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だが朱の改造は相槌(あいづち)一振りだけでなく、全て打ち壊したがありません。
彼は正陽門の正面甕城の箭楼を、建築の大きなものは全て保存され、ドイツの技士が改良を加えた。ポール・ラインシュは中国の外国設計士が中国建築を知らないことを喚起したが、この人は文化にプライトの大変高い人であったので、朱啓鈐とは簡単ではなく、「公私の建築を見ると、ただ欧風なのはまずまずとしても、旧式の法規は、伝統として伝わらず、湮滅(いんめつ)しそうで、目を見張って憂いとなした」が、彼は「旧きを旧きの如く修す」の概念を提出し、初めて「勝迹保護条例」を公布した人である。

初めのフィルムには、「中国の悠長な歴史の中で、王朝は更迭(こうてつ)し、勝てば官軍負ければ賊軍ですかな。二千年来の歴史革命の成功者は、法を項王(項羽)に倣わないものはなく、(秦の)咸陽宮の放火は三か月消えず、威風を見せつけ、破壊は激しい」と言う示唆に富んだ言葉がある。
更に一点を付け加えれば、周有光の言葉で、「実際一度の火事は二千年となる。英仏連合軍は中国の弱点を欺き(あざむく)、秦の始皇帝の焚書坑儒は功を建てた」である。
辛亥革命はこの火を免れる(まぬかれる)ことができるが、やはり誰かが知っている。胡敵は新思想の最大の役割をまとめた。それは「全ての価値を再評価する」ことだ。再評価とはどう言う意味ですか?「科学的な方法で正確な考証を行い、古代人の意味を明確にする⋯各家は彼の本来の姿を返し、各家は彼に本当の価値を返す。」
真の価値が何であるかを知ったら、単純に拝む(おがむ)か倒すのではなく、何を廃棄するが、何を大切にすべきかを知る。

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1928年、梁思成林徽因は汽車でアメリカ人夫婦に出会い、彼らと一緒に中国に戻った。「屋根は覇王車に乗る乗客でいっぱいだった。それでも、雨が漏れて来て、新聞で折れた帽子に滴り(したたる)、座席の背も垂れに点灯した蝋燭(ろうそく)を濡らした。こうして北京に到着し、一つの鼻の穴は晩香玉の匂いで、もう一人の鼻の穴は糞の臭い⋯」

梁思成と林徽因
当たり前だが、1900年の頃は、仲芳は『庚子記事』に「最近の各界の西洋人は、人が街路に大小便を出すことを許さず、綺麗な桶(おけ)に用を足した⋯⋯しからばトイレを建てれば、尚便利であるが⋯⋯偶々街路上で用足しがあると、ひとたび外国人が見かけると、あらゆる方法で殴り、凌辱(りょうじょく)されるものは、計り知れなかった。」と記す。
中国の都市の最初の公衆衛生は、このように開始したため、見ると何とも言えなくなる。
民国になるまで、公共トイレはどんな様子であったのか。徐城北は〜当時最も繁華の前門は、大戲園子の右側に、大変大きい露天に小便所があり、観衆ももちろん出演者まで、一端「便意を催したら」、皆すぐさまそこに駆けつけて、ズボン開けてその中へ「水龍を直射した」。
当時の首都には、広渠門外の墳墓は雑草で、道路と言うべきもなく、公園もなく、博物館もなかった。嵐もなく三尺の土が、雨が降ると街を泥侵しにした。
朱啓鈐が内務総長になった時首都市政監督も兼ね、北京市街の排水溝と暗渠を整理し、それらを「水道は湮滅し、民家は水没し、街路は深く埋まり、困難で不便」な場所で、このため「城門を開き、道路を開き、土手池を浚え(さらう)、あふれた水を収め、ゴミ土が戸を塞げばこれを取り除き、壊れた垣根が道をふさげばこれを削り、境界か既に正しく、百壁は皆栄える。」。
彼は道路の両側に槐の樹を植え、城壁の堀には楊柳を植栽し、これで春は新緑で冬は真白に、真夏には我らの頭上の木陰となる。

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北京の最初の公園も朱啓鈐が開闢(かいびゃく)し、つまり今日の中山公園である。
ここは元は王室の祭祀した社稷(しゃしょく)の壇で、清の皇帝が退位してから、人の管理が無く、祭壇は草木が群生かし、ヘビやネズミがはびこった。祭壇の番人は園内に多くの苜蓿(うまごやし)を植え、豚や羊を飼育した。
朱啓鈐は公園にしたいと考え、北洋政府は(公園に)して良いが、我々には金がないと言った。
彼は自分個人で行って、まず一千元を寄付し、理事会を成立し、対外に募金し、北京は一向に優れた都市であるが、「今の所、士農工商四民の遊休に耐えられる、公共の庭園がない」と説いた。半年足らずで四万元余りを工面(くめん)したが、寄付の最も多かったのは徐世昌、黎元洪、楊度などと、彼自身であり、それでこのように完成した。ここには山水や東屋が無く、ここには園の中東に今雨軒、投壺亭、絵影楼、春明館⋯⋯を建て、また東西の長廊は、曲がりくねって往復するが、今日私はその、藤の花がいっぱいの、曲がり角に歩くのが最も好きである。
「来今雨軒」この名は杜甫の『秋述』の小序に、「秋、杜甫が長安の旅中に病で臥せり、多くの雨に魚が生じ、青苔がベッドにまで及び、いつもの車馬の客も、古時の雨には来たのに、今日の雨には来ない⋯⋯」昔の雨と新しい友人を題に、よしみが変わらないことを意味し、この地方に行くものの多くは政客であった。
朱啓鈐はまた清宮に顔を出して交渉し、また公園と故宮の間に扉門を開いて、西花門内の武英殿に展示室を開いて、皇室の珍宝を展示して、「文物陳列所」と名付けた。」
これが中国最初の博物館で、また故宮博物院の前身である。
学者や文人がこぞって来て、学者譚其驤は「春明館は老紳士たちが集まった場所で、私はかつてそこで林公鐸に遭遇し、席に人がいなかったので、引かれて坐った。彼が口を切ったもので、幾つかの言葉を話してすぐに「譚君はどう思うのか」と挟んだ。蒙文通、錢穆、湯用彤の三人はいつも一卓に坐った。夏の公園に坐るのは夕陽が山に沈んだ時に始まリ、晩御飯は茶席で点心を呼んで御飯に宛て、継続して夜半から一・二時くらいにやっと立ち上がったが、決して誰も干渉しなかった。
園中の千年の古松柏は、多くは金、元、明代のもので、朱啓鈐は一々柵を作り、擁護し、多くの人がこの青黛色を愛した。詩人林庚白と画家林鳳民はここで賞雪闘詩、五言古詩対句で、全部で120余りの対外韻で、センセーションを興した。程硯秋と新艷秋は前後して「柏斯馨」傍らの空き地で『聶隱娘』劇中の紫雲の剣舞を演舞した。面白いのは燃焼の芸子が公園に来る時は必ず柏斯馨に坐ったので、ここは西洋式の茶店なので「リーパイリュウ(土曜日)を飲んで、「ライスカレー」を頼む必要があった。ハハハ、洋風だね。
資料を探している時に史学家謝興尭が書いた一説を見つけた:「およそ北平(北京)に行ったことのある人は、誰が中山公園の茶館を深く思わないであろうか。⋯⋯多くのかつて世界を周遊した中外の友人が私に言った:公園で最も気持ちの良いのは茶店であり⋯⋯一切の悲しい事情はしばし忘れるべきで、この地では、木のテーブル、藤椅子、香の良いお茶のポットがあり、最大の慰めを得られるようだ。」
少々やり切れないようである。

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朱啓鈐は本当に思慮の深い人であり、彼が警官だった時、毎日騎馬で巡回し、北京城の宮殿、庭園、城門、官庁⋯⋯をぶらぶらしたので、一切の有形無形の旧跡は一々皆「周回してこれを良く知っていた」
後に国務総理になった役人で、付き合いした人は「巷の民間人が多く、優れた職人や宿老であった」〜色々な街角の手練れの職人や老先生で、彼らの余り語られない言葉は「玉の腕輪のような宝物」であった。清代の「行程則例」の類の本でさえも「細読ませざるはなくしてこれを神評(素晴らしい評を)した」。
中国の知識人はずっと工人を蔑ん(さげすむ)んでおり、士大夫(役人)でさえも建築に少々興趣があってもやはり遊びであって、技術に対して記載はなく、職人の間でも全て口伝に頼っていた。顧準は「中国には多くの良い工芸があるが、科学と緊密になっては発展していない。中国には理性主義がなく⋯⋯中国には傾倒的ではない経験主義があり、一種それを知ってもその所以(ゆえん)を知らない技術伝統は、「主義」とはならず、ただ伝統の因襲に過ぎなかった。「朱啓鈐は分析してさらに、なぜ政府もこの技芸を記載しなかったの画を明白にした」文件を執筆した人は、一見して専門用語が大変深く、比例する数字も大変煩雑(はんざつ)で、文件を書いても上司が詰問(きつもん)し、自分でもはっきり説明できなかったので、頭から全て削除(さくじょ)したのであった。」
彼は、大清会典の工程作法の部分は、たった数十ページの大変薄いもので、どのように作ったのかと言うと、数字を総て「若干」の二文字に改訂したのであると言う、馬鹿げて可笑しい例を挙げた。
このようであったので、担当官吏は「一切の実権が設計者・積算(せきさん)者の手に渉る」ことを理解せず、多少多少と書いて、欺瞞を隠そうとした。
知識人たちはこの家業を軽蔑し、お金に関することはただ下品であると考えていた。蔡元培は、漢以来、最も追慕された学者はただ道徳学問を求め、現実世界から遠く離れ、董仲舒が『春秋』を収めるのに、三年間庭をもうかがわなかったという。陽城の読書集賢院は、昼夜に門戸を出ること無く、6年間で、「人がうらやみ称賛するところとなった。」
彼はこの種の態度を「身を尃らにし残るを守る(自己保守)」と呼んだ。
結果中国には文字化された建築マニュアルがほとんどなく、朱啓鈐に至って、中世の首都の近代化にを彼が始めた時、建設のこの案件は、両手も空っぽで、工程に従うべきものも無く、古典籍にも見るべきものがなかった。人に訊ねて良いのか知らなかった。
彼はその後仕事でヨーロッパに行き、人に会って「一つの術、一つの芸、総て図案を用意して、新旧の建築、全ての志を持っていることを知った上で」、やっと芸術の伝承の基準と価値がどんなに重要かを感じた。
しかし、志半ばで追い詰められ、「古書を求めて名匠を博す(はくす)」と決意した。
もちろん、政府はまだこの資金を持っていない。

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朱啓鈐
1915年、彼は43歳で、袁世凱皇帝を支持し、大典を準備するリーダー(訳註: 計画を立てた、もしくは計画を行う上でのリーダー)でもあった。この後彼は指名手配された。(訳註:彼が世間に)罵られている(ののしられている)ことはもちろんあるが、梁思成が後になって協力するかどうかの決断に躊躇った(ためらう)ことがあるのは、このためだ。(訳註:つまり指名手配されたこと)四元を連れ込んで自分の罪を着せなければならなかったとか、連れ去られたと訴える人もいた。
彼は生涯このことを口にしなかったし、弁解もしなかった。そして、懺悔(ざんげ)もしなかった。晩年は年譜に書いて項城が私を「知っている」と言ったが、これは恐らくルネシュの言った「彼は根っから中国らしい人物だ」ということになるだろう。
その後「その才能はまだ使うべし」として、彼はすぐさま赦免(しゃめん)、南北平和交渉代表として特派されたが、話し合いは破裂し、南京を通過する時に蔵書家陶湘の所から『営造法式』を浚え出し(さらえだす)たが、これがようやく見つけた最も完備した中国古代建築の記載である。
中国の古代漢語では、一切の土木工学(どぼくこうがく)は全て「営造」と呼ばれるが、この本は中国の法典(法規体系)形式の建築便覧である。

書写した李誡は北宋生まれで、北宋の建築は調度頂点であった李誡の記録は「上は秦漢に遡ることができ、下は金代を見ることができる」、側面がある。何が進化しているのかを見ることができる。何が固有(のもの)で、何が取り入れられたのか。建築は一つの国家の文化史的進化であり、「身を移して形を換え、歴然と見ることができる」。
但し古代人の用語や、句読は千年の中で既に理解し難いのは明白で、朱啓鈐は「営造学社」を発起し、この本を研究したが、開始した場所は彼の家で、看板も掛けられず、幾つかの机に、数名の漢学者を招いたが、老人たちは古代文字を理解していたが、幾つかの机に、数名の漢学者を招いたが、老人たちは古代文字を理解していたが、建築を知らず、明白でなく見えた。
当時アメリカで建築系の勉強をしていた梁思成もこの本を読んでも分からず「当時歓喜した後、私に莫大な失望と苦悩をもたらした〜この美しく精妙な傑作は天上の本のようであり、理解する方法がなかった。」
一般の人はここへ到ると立ち止まり、行うが、このような複雑な事情で、これを後世に伝え、将来の人に研究の去就(きょしゅう)をさせた。但し徐世昌は朱啓鈐に評価があり、「ことは必ず果たされる」と言った。この人は屈強(くっきょう)の気質があり、彼の書斎は「一息斉」と言い、朱熹の言葉「一息尚保(たも)ち、稍も怠(おこた)るを容れず(いれず)」から来ている。

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費慰梅は営造学社の始まりは「金持ちの余暇の趣味副産品であった」と言い、言葉はやや軽いが、朱は確実に金を儲け、南北平和交渉の失敗後は、政治を退出し商売に従った。彼は曽国藩の娘と結婚し、10歳で父親に従いパリから帰国したが、岳父(妻の父)が朱に与えた最大の影響は「西洋人は製造を持って富を致す」ことで、これは国家の近代化の基礎である。朱は銀行を開設、炭鉱を開発は最初の中国の実業家であるが、もし不遇の政治家の楽しみであるだけならば、そんなに進展することはなく、学者の王世襄が朱啓鈐に委ねられ(ゆだねる)、中国唯一の漆芸の著作『髹漆録』に注釈して、彼は「現代の人が朱に対して知っている人は大変少なく、彼の重要性を理解できないが、学術方面から言えば彼は中国の多くの学科の開基者である。」と言う。
朱啓鈐は学社のために当時の学術の精鋭を招いたが、(その)名簿を見ると、一人の民間人の組織が通う(かよう)な規模〜東北大学の建築学部主任梁思成、中央大学建築学部教授敦禎、建築家楊延宝、史学家陳垣、地質学者李四光、考古学者李済⋯⋯アメリカ国籍のIKE(艾克)、ベーシュマン、日本の学者松崎、橋川、荒木(ら)に達することができるのかと感慨させる。
これは1929年の事である。
朱は「全人類の学術は、我が一民族の所有ではなく、我が東隣の交友は、幸いに古代の文物を保存し、また我らの工事方法と相当である。我が西となりの交友は我らに科学的方法を伝え、また時に新解釈を以て、我らを励ましてくれた。」
この度量。
抱負(ほうふ)もおおらかである。凡そ絵画、彫塑、染色(せんしょく)、漆塗(うるしぬり)、鋳造、工芸一切のことは、皆本組織所有の事である。凡そ信仰、伝説、儀礼、音楽歌謡は、一切無形の思想背景にあり、民族学者に属する事である。また皆本組織の近傍に対応し遠方に捜索するものである。
そのため建築学社と言わずに、「中国営造学社」と称す。
このような願望を所有するには、どうしても雄大な視野を得なければならなくて、全ての文化史を鳥瞰(ちょうかん)する必要があった。」
当時朱啓鈐は57歳で、雄心勃々(心が沸き立つ)であった。

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彼は梁思成を法式部主任に招いた。一大任務はこの本の「営造方式」の研究である。

梁思成は洋学の訓練を受けており、この「営造法式」を読み取るには、大量の屋外観察が必要なことを理解していたが、これは大変手間のかかり、費用の掛かり、骨の折れる方法であり、朱啓鈐は「科学的視点に拠らなければ、系統ある研究を為し、世界の学術の名家と公開討論はできない」と言い、営造学社はこれについて中国の建築史上の最初のフィールドワークを開始した。

梁思成
一切は原始的な荷馬車(にばしゃ)と小ロバに依存し、目的地は一般に大変辺縁の深山荒野に在り、夜に冷えたら新聞紙を上着に上に上に被せて暖を取る必要があった。しばしば「(陸上では)豪雨が突然来れば、馬を降り歩行し、身には少しも纏わる(まつわる)べき乾(いたもの)もなく⋯⋯終日波に揉まれ(もまれ)、僅かに饅頭三個を得て、一人一個(に分け)、夜間は南京虫や蚊に攻められ、安らかに枕する事が出来なかったのも最も苦痛であった。」
安全も保障でされずに、学者の会員は拘束された。朱啓鈐個人は各地の役人に手紙を書き、これらの「柔弱(にゅうじゃく)なインテリ」の保護と面倒見を頼んだ。
数千年の建築は、誰もどの王朝かを知らず、数字もなく記録もないが、莫宗江は彼らが応県の木塔を見つけてから、「九層の重なりを、我々は一層一層、柱一本、梁一桁、斗升の一組一組をきっちり図った。最後に数千本の梁に懸かる斗升を全て測量した。我々が塔の最上に着いた時にビュービューとした強風が人をこそげ落とすように感じたが、それでも相輪はまだ十数メートルの高さがあり、唯一の方法は相輪に垂らされた鉄の鎖(くさり)を上るしかなく、ただしこの九百年の鉄の鎖は、誰もそれが腐食(ふしょく)して断裂するのか分からないので、人が見ただけで恐れを生じさせた。だが梁先生はしっかりと両足を空中に掛けで上へよじ登って行った。」

林徽因
この登攀(とうはん)は林徽因が彼女が17歳のあの年、最初に梁思成と知り合った時、二人で太廟(皇帝の宗廟)を遊覧し、少女は畏ま(かしこまる)って頭を下げ前へ進み、見上げた結果、梁先生は見当たらず、もう一度見上げると、もう樹上に腹這(はらばう)って彼女を見て微笑んでいたのを思い起こさせる。
ただしこの時既に浪漫の感覚はなく、梁思成は「狂風暴雨、雷と稲光(いなびかり)が交錯(こうさく)した。我々はまさに最上層の梁の上に居リ、自身の危険を感じずにはいられなかった。」と語った。

林徽因は当時既に肺結核を罹っていたが、ただし困難の観察での記述は却って殆ど無邪気で狂気(きょうき)の心地に近く、「草むらの中に碑碣を読み、レンガの堆積(たいせき)に偶然菩薩の片手に行き当たり微笑み、全て少しも平常な感覚ではない感動をする価値があリ⋯⋯私は楽しい時に高らかに笑い、笑い声はまっすぐ対面の川や山に広がり、どの林や、どの村に行き渡るのか分からなかった。」

1937年に林徽因は仏光寺庭内で経幢(仏号経文石柱)の高さの側図をした。
この時はもう1937年で、喜びの内に避けられない憂患(ゆうかん)があり、梁思成は「この数日で、転輪蔵の平梁の手の叉の間で、あるいは摩尼殿の木の襟の間の下で、命懸けて測量をし、ニ三寸の厚さの数十年に蓄積した塵を手で探り、梁材を測定して、一方では心中で濼東の危機的状況を考え、北平(北京)が残虐(ざんぎゃく)な隣軍の爆撃で焦土(しょうど)となることを推し測ったので、結果詳細な中にも遺漏(いろう)が有った⋯⋯」
山西で彼らは中国で最古の唐代の仏光寺に人がまだいることを確認し、夕日が沈み、人々が赤い靄(もや)に包まれると、彼らは寺院の中に坐り、持ってきた全ての食品のオイルサーデン(イワシの油漬、ビスケット、牛乳、缶詰などをどんどん開けて、一番の大祝いをした。
作業が終了し、新聞を見て、彼らは盧溝橋の抗戦のニュース⋯⋯戦争が勃発してもう5日経っていることを知った。

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梁林は一家で北京を離れることを決定したが、朱啓鈐は老体で、長旅には耐えられず、また彼は一層深く憂慮していて、彼は楽達義に、「太平洋戦争が勃発後、我々は皆、北平(北京)のこの古都が気にかかり、心配している。北平はまるで宝石店で、所々が宝物である。戦争が大きくなった今では、砲弾や爆裂弾がここに落ち、大変容易に文化財や古跡を破壊し、かつ取り返しはできないものである。」と語った。
彼は歴史的に見て、歴代の宮廷は、全て500年周期の大残事から逃れるのは難しく、伝統的な木造建築は火災と、落雷には耐えられなかったと語った。円明園の石の構造物も氷と火の災害からは逃れられなかった。円明園も戦火の災害を逃れられなかった。
彼はこの古い都市を守りたかった。この街が焼き払われても、彼はまたそれを元通りに再建したく、彼は当時北平で最良の建築師張鎛に「北平の明、清両代に保存されてきた文化財的建築物を現場で正確に実測し、本物の図絵を留めるべきで、そうでなければ日本の侵略や反抗の戦火の災害を免れ得ない。」と語った。
張鎛は3年半の時間を利用して、この仕事を完成した。
この時梁林は四川省南渓県の李荘郷に居て、二間の部屋は低く湿気て冷え、竹籤(ひご)に泥を塗り壁として、突っ張りのアンペラ(藺草)のムシロ棚にはヘビやネズミが出没し、寝床にはいつも南京虫で、水道と電灯もなかった。呉良鏞はそこで梁思成に会ったが、「彼は当時40歳過ぎて、脊椎(せきつい)組織の硬化症を罹ったために、セガ鉄のベストを着けていた。ましてや重慶の天気はひどく暑く、一般人には受け入れ難いが、彼は作図のために向かう必要があり、その難義は想像して知るべきで、彼は下顎(あご「を花瓶の口に乗せて、笑って、せんをまっすぐ引けると笑ったが、実際には、頭の重さを支える支店を探していた。

林徽因
林徽因の病状は悪化し、もう起床も出来なくなり、娘は彼女はもう痩せすぎて人形にもなれないと言ったが、しかし彼女は『中国営造学社滙刊』の復刊を担当し、活字がなかったので、「石板印刷(リトグラフ)」を利用し、製本機械がなかったので、老母と、子供とで一緒に手綴じ(とじる)をした。印刷用紙がなかったので、手漉き(てすき)の地方粗紙を利用した。
ある年天津は水害に遇い、営造学社が銀行の貸金庫に保存した全ての調査側図資料が浸水し、古建築の測量図の原稿用紙は水泡に浸かり(つかる)、うっかりせずとも破れただれ、朱啓鈐等の人はそれらを一枚づつ乾燥させ、方眼紙に裏打ちした。ネガフィルムは損なわれたので、朱啓鈐は過去に焼き付けた写真から改めて複製し、この複製したネガから選出した最も重要な一組の古代建築の写真を二組を印刷し、、梁思成に寄贈した。
菜種油の薄暗い灯火のもとで、梁思成が書いた11万字の『中国建築史』は、朱啓鈐から寄せられた資料に基づいたものである。

1946年、『中国建築史』の貢献により、アメリカのイェール大学は梁思成の訪米と学術報告をすることを要請したが、それは梁思成が学術で灼々と華やかな時であった。
この一年で朱啓鈐は家の資産を使い果たし、収蔵した肉筆書画冊、絹のスカーフ、ピアノ、古洌の錦織⋯⋯を続々と換金して、生計を維持したが、また学者の人員が各地に分散したので、営造学社は停止するしかなかった。

坐在斗拱上的梁思成
中国営造学社は11ヶ所の省に、合計190ヶ所の県と市を訪れ、1937年までに詳細な測図をした建築群は206ヶ所、建築は2,378棟、測量図原稿は1898枚に及んだ。中国建築の遠古より明清に至る時期の歴史的発展と脈絡に対して初めて道理的な認識を所有した。
これらの資料は最終的に清華大学に与えられ、清華大学の建築部は、これによって創設された。
現在まで、清華の建築学者楊宇真剣には「中国の古代建築の研究の主要な成就(じょうじゅ)と基本の枠組は依然6、70年前の営造学社の成果であり、しかもこの成果の獲得の主要は朱啓鈐社長の僅か十年間に集中しており〜この一点に関して、誠に深く考え、反省を引き起こさざるを得ない。」と言っている。

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1956年、清華大学建築学部主任の梁思成は『営造法式』(上巻)を出版し、細かく注釈を加えた。『営造法式』はもはや誰も理解できない天の書物ではなくなった。しかし中国営造学社は反動学術団体」と見做され、既に消滅していた。
梁思成がこの本の序を書いた時、熟考(じゅっこう)を繰り返し、三度の改訂を行った。彼は最初に「別方面で、我々は完全にそれが今日に偉大な祖国の社会主義の建設にどんな用途もないことを知っている。」と書いた。長考の末、彼は「用途」を削り、「直接の関係」と改めた。後に、彼はまた消して、未定稿を残した。「別方面で、我々は完全にそれが今日に偉大な祖国の社会主義の建設にどんな用途もないことを知っている」。
この幾つかの言葉は熟考の間に人を辛酸させた。

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朱啓鈐は当時『営造法式』によって、梁思成の設計により、職人を探して個人住宅を建てた。今日この屋敷は(区切られて)長屋(集合住宅)となっている。
梁思成林徽因の旧居ももはや雑草が生い茂り、朽ち果て忍びない。
私は曹姉さんの記録フィルムを見て、彼女はアメリカで当事者を訪ね、梁林が登校の成績表から、費正清夫妻との手紙、1930年代の彼らの山西での写真⋯⋯まで、こまごま総て揃えた。
彼女はアメリカの施設博物館を撮影し、壊されようとする徽州の住居全体を海外に搬出し、土地の役人が見てから、戻って新村落を全て取り壊し、古建築を再建することを決定した。これを見て、林徽因が1953年に「あなた方は本当に骨董を壊したら、将来後悔することであろうし、もし再び回復させても、せいぜい偽骨董なのである。」と語った。
梁思成の一生は紙上で焦土となった千年の中国を再建しようと試みたものであるが、彼は「もし世界上の芸術の神髄が、客観的な価値標準の基準の保護がなければ、おそらく十中八九は皆後人の権勢で主を換える時、あるいは趣味で知識人に向かう人が(知識人に興味を移し)、残すことなく毀損(きそん)することを恐れる。一つの東方の古い国の都市が、建築上で、もし完全に自身の芸術特性を失ったら、文化表現と外観方面は全て大きな心の痛みである。」と語った。
歴史を見ると、人を悲しませてもいけなく、また風刺に用いることもいけないのは、大変明白である。
今日の指導者幹部、金持ち、記者⋯⋯私たちの仕事は全て、ここに置かれ、燃やしても尽きず、塵は水没せず、皆後に再評価されるのか、やはり自分に、「私は解っているのか、分からないのであれば、理解する人を荘重することを知っているのか」と問うてみなさい。過去にどのようにするのか知らず、遂にわからなかった。現在明白な一点は、一点だけである。明白な一点は、すぐする一点である。

晩年の朱啓鈐
どのようにやる事が出来るのかは、朱啓鈐は既に、やる必要を知ることは「永久不滅」の価値があり、うまくやることは、切磋琢磨(せっさたくま)のように、いつ成ることができるのか分からず、また「終身会えない」かもしれないが、一分の気力を費やして、一層深い発見もある。
彼は「但し耕耘に務めても、収穫に計算さず」と言った。

著者 北京 柴静