山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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八路軍の日本人医師と看護師


私の父は袁照安は1944年に八路軍に参加し、山東浜海分区直属の衛生所で働いていました。当時は13歳でした。「八路軍少年と日本人軍医」は父が自ら語った生々しい(なまなましい)抗日戦争の物語です。


抗日戦争中、日本侵略軍が山東省で行った残虐な「三光」作戦は、焼き尽くし、奪い尽くすという悪虐非道なものでしたで、山東省の軍民に莫大な損害をもたらしました。山東省の八路軍は戦争中の日本軍捕虜に対しては、逆に厳格な「捕虜待遇」政策を実施し、人道主義に基づいた待遇を与えました。これに感化された少なくない日本人捕虜が八路軍に参加しました。


例えば日本軍士官の宮川英夫は、捕虜となり八路軍に参加しましたが、長清の日本との戦闘で英雄的な犠牲者となり、2014年9月に中国国家民政部が発表した初めての300人の抗日英雄烈士の中で唯一の日本人烈士になっています。

更に多くの人に良く知られていないのは「韓国八路」の鄭哲洙です。1944年、ソウル大学で学生生活を送っていた鄭哲洙は捕まえられて(日本軍に)入隊させられましたが、数ヵ月後鄭哲洙は同僚と3人で日本軍から脱走し、済南市郊区で八路軍に投降し、のちに延安で学んで、団政治部主任になりました。新中国成立後は朝鮮族高級中学校長、延辺文聯副主席を歴任し、1990年代に韓国に帰国後病気のため亡くなりました。2013年鄭哲洙は韓国政府勲報処から「抗日闘士」の称号が贈られ、その夫人と息子には毎月抗日烈属手当が支給されています。鄭哲洙と共に八路軍に参加した二人の同僚は、抗日戦争に勝利した後韓国ソウルに戻り、一人は著名な教授になり、もう一人は世俗を見限り、出家して僧侶になりました。


八路軍浜海分区病院には、多くの捕虜となった日本人軍医、看護師が医療の仕事に携わっていました。彼らは捕まえられた直後は戦々恐々としていましたが、少しずつ八路軍の官兵が誠意を持って彼らに接しているのを見て、次第に覚悟を決め八路軍に参加することを志願するようになりました。その後大部分の者が中国名をつけました。

「小八路(抗日八路軍少年兵)」の袁照安が軍医山田に会った時、山田医師の中国語は大変流暢であった。

山田医師は八路軍の最初の迎撃戦で捕虜となり、八路軍中で「中国在留日本人反戦同盟」要員の教育を受けて、志願して八路軍に加わった。


山田医師は日本の某高等医学専門学校を卒業し、浜海軍分区医院の数少ない高等医学教育を受けた医師である。

山田医師は八路軍の指揮官と兵が一致し、身内同士のように遇した(ぐうする)溶鉱炉(ようこうろ)の中で感化薫陶(くんとう)し、態度は日に日に「八路化」し、民家に進駐してから、八路軍の官兵と同様に家主へ水をくみ、中庭を掃除した。

個人の衣食に拘らず、物事を為すのに別人を思いやった。ある日、袁照安は付近の村に派遣され用事を済ませ、駐屯地に戻ってから夜はもう遅く、当時八路軍に頻り(しきり)に移転しており、困難な条件のもと寝床板がなく、宿泊場所では一般人の戸板を借用して寝床として休息しました。袁照安が戻ってきたのは大変遅く、戸板は既に借りられきっており、13歳の袁照安はどうして好いのかわからなかったが、山田医師はこの種の状況を見て、すぐさま自分の戸板を袁照安に譲って、彼自身は地上に稲藁(いねわら)を敷いてその上に寝ました。

当時、病院の医務専門人員には専業手当が支給されたが、山田医師はいつも彼の多くない手当を取り出し、民間のために鶏肉を買い、鶏のスープを煮て傷病者に与え栄養を補充しました。

山田医師は病院で積極的に働き、連年先進的な評価され、年末には病院から表彰を受け、その後光栄にも中国共産党に加入しました。


病院で働く日本の看護士小野恵子は高等中学卒業である。小野恵子の皮膚は透き通るように白く、性格は活発、病院中の誰にも喜ばれた。彼女に中国語に練達していて外国語訛り(なまり)がなく、内情を知らない八路軍の傷病者は、皆彼女が八路軍に加わった日本人であることを知らなかった。

ある時、八路軍の幹部が彼女に好感を示しました。すると、看護師の小野恵子さんを真っ赤にして、上手だった中国語が支離滅裂になってしまった。「私は、はい、日本人です。個人的なことは話したくありません。」と。小野恵子はずっと結婚しない、後に単身帰国しました。

病院に従い南と北を転戦し、抗日戦争、解放戦争を経て、とうとう中華人民共和国の建国を迎えた。山田先生は病院の日本人看護師と結婚して一家を成した。50年の初め、山田先生ら在中国の日本専門技術者が、相次いで日本に帰国しました。

「小八路」と呼ばれた袁照安は戦争中、絶えず成長し、部隊に従って済南を解放した。1949年11月、彼は山東省医学院に入り、医学検査専門を学び、卒業後に軍医となり、40年余りの勤務の後、解放軍第405病院の化学検察科主任を退職しました。2005年、抗日戦争勝利の60周年の際に、退職した袁照安は中国国家から「抗日戦争勝利60周年勲章」を受け取りました。