山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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日本人が旅順に造営した神宮、神社、西本願寺、東本願寺別院

日本の植民地時代、関東神宮、金刀比羅神社、西本願寺・東本願寺別院などの建物が旅順地区に建てられました。


関東神宮門前の鳥居


関東神宮神門


関東神宮外拝殿


関東神宮主殿


関東神宮全景

関東神宮の跡地は白山通り北端にある軍の施設内にあり、建築面積は2665平方メートル。日本の植民地時代に中国本土で建てられた唯一の官幣大社(*1)で、目も奪わんばかりに華麗な建築でした(本殿は銅板葺き(*2)。天照大神と明治天皇が祀られた神宮は、植民地当局が神と天皇の威光を用いて中国の人民を奴隷のように酷使(こくし)した証拠でもありました。1958年4月4日、市政府の調査後解体する運びとなりました。現存しているのは日本の風情が深く残る西側殿のみになります。


白玉山塔と金刀比羅神社


金刀比羅神社写真


金刀比羅神社位置(劉勇供図)


金刀比羅神社位置(海風供図)

1939年、日本人は白玉山南側のふもとを切り拓き、中国の海神廟(海の神様を祀る寺院)に相当する金刀比羅神社を造営しました。こちらの神社は1950年代初頭、植民地支配の痕跡を一掃する際に取り壊されています。金刀比羅神社は香川県西部の海抜521メートルの象頭山の中腹にある。日本三大海神の社の一つである。そこは海の守り神である“金毘羅(こんぴら)さん“が祀られている事で知られている。病気平癒(へいゆ)に厄除け・厄除け、幸運をもたらす神様と言われ、古くからお参りが盛んであった。


西東本願寺位置図(劉勇提供)


東洋橋と西本願寺


東洋橋と西本願寺


遺留の鐘楼亭(改造された遺構)


改造後の鐘楼亭

日露戦争前、この場所はウラジオストクと極東地区で最も裕福な華商である。山東出身の紀鳳台の旅順事務所であった。旅順瑞昌木材行(この場合、行は商店に該当すると思われる)から大・小興安嶺の木材が旅順港を通じて全国各地に販売される事で、紀鳳台は僅かな期間で財を成した。日本軍が旅大(大連の旧称)を占領した後、彼の財産は全て没収された。事務所は壊され、西本願寺の別院が建設された。1958年、鐘楼の大銅鐘は、旅順中学の韓先生によって学生用の力車で学校に引き戻され、焼き直された。60年代にもこの建物は残っており、納骨堂には遺骨が保管されていたが、後に取り壊された。


京都西本願寺

西本願寺は浄土真宗本願寺派の大本山である。文永9年(1272年)東山に創建、京都大谷に建てられた浄土真宗の開祖親鸞聖人の寺廟を開基する。天正19年豊臣秀吉により京都の土地が寄付され、現在の場所に落ち着いた。それは日本の京都最大の寺院であり、日本仏教の浄土真宗本願寺派の総本山である。日本国内及び世界各地に10,500ヶ所の寺院、1,200万の信徒を擁する。本願寺は11代法主顕如の二人の子が誰が継承するのかを確定する人の関係でニケ所に分かれた。三男の本願寺準如の本願寺は、西本願寺と呼ばれる。このように本願寺は東西両家に分かれた。「真宗本願寺派」と呼ばれる西本願寺法統は、正統なままである。長男本願寺は「真宗大谷派」と呼ばれる東本願寺法統を一脈として教えている。東西本願寺は京都にあり、文化的景観となっています。両寺は日本の国宝に並び、西本願寺はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されている。

旅順の太陽溝に住んでいた大谷光瑞は日本仏教の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22世法主である。旅順監獄全景の旧写真は旅順西本願寺の門主(もんしゅ)納覚が1916年に撮影したものである。現在では、地図に東本願寺の位置は示されているが、遺構は見つけられなかった。


京都東本願寺

20年前に、私は白玉山下の溝の中に取り壊された寺院の柱やレンガを発見しており、何方も愛好者が一体どうなのかを探ろうと思うのならば、私はあなたをお連れする。

*1、元の社格の一つ。官幣社(主として歴代皇室の尊崇した神社で、宮内省から幣帛料の供進を受けた神社のこと)のうち、格式が最も高いもの。

*2、銅板を用いた金属製の屋根の仕上材のこと。

著者 旅順 李華家