盛方頤:民国の富豪の末娘は「空前の結納」を持参し、金持ちの極つぶしに嫁いだが、47歳でアヘンを呑んで自殺したが、結局は幼年の頃に運命づけられていた
1949年、上海の荒れ果てたアパートで顔色の青白い年若い女性が、手中のアヘンを呑み込んで、自殺を選んだ。
彼女は父親の遺影(いえい)を見つめながら、赤い目で、
「お父様、これはあなたのしたことです⋯⋯」とぶつぶつとつぶやいた。
この絶望的な女性は、即ちかつて「空前の嫁入り」で上海市街の盛家のハ番目のお嬢の、盛方頤であった。
彼女は、少女時代に栄華と富貴を享受しつくした自分が、大概想像もしていなかった。
1902年、盛方頤は金のスプーンを銜えて(くわえる)生まれ(金銭に困らない諺)たのに、後半生をこんなに貧窮して困難して過ごすことになった。
当時、老父の盛宣懐は既に「苦難創業」の時期を過ぎ、盛家の蓄財は絶頂にあった。
過言ではないが、盛方頤が幼年時代の生活は、文字通り「衣来たりて手を伸ばし、飯来たりて口を張る(衣服も飯も与えられた不自由ない豊富な生活)」であった。
父親が亡くなると、残した遺産は国家に匹敵するほどで、書画文物は数え知れず、白銀だけでも、11,600万両であった。
そして、幼年時の父母の盛方頤に対する底なしの寵愛も彼女を唯独尊の、恣意的で奔放(ほんぽう)な性格を作り出した。
このような性格の欠陥は、彭震鳴との結婚に凝らすと言う、人生中最も悲惨な選択を作り出した。
この彭震鳴は「彭老七」とあだ名され、外祖父は清末の江南第一の富豪周扶九であった。
しかし父たちの経営不振で、彭家はもう衰退していた、裕福とは言えなかった。
裕福な盛家と比較して、彭家は確実に貧しく古臭かったが、名門の称号は残っており、家門を満たしていた。
しかも、彭震鳴本人はプレイボーイで、刺繍で飾られただけの能無しであった。
彼は事業に気を使うことなく、庭に出て京劇を振る舞い暇を潰すのが日常で、自分を有力にする為に京劇の放送局を創業して、お金を厭わなかった。
彭震鳴は純粋に図々しく(ずうずうしい)恥も外聞もなくペラペラと口先ばかりに頼って、盛方頤を自分に対して決心させる事ができた。
初め、盛方頤の母親蕭夫人は固くこの婚姻に同意しなかった。
彼女の眼は辛辣(しんらつ)で、一目で彭老七(震鳴)に事業心がないことを見抜き、娘が嫁に行っても幸福にならないことを見抜いていた。
如何ともし難いのは、娘は幼少から独断専横しており、彭震鳴と結婚させないことはできず、彼女も施しようがなく、二人を許すしかなかった。
娘に苦難させない為に、蕭夫人自分のへそくり(私費)を投じて、若い二人の為に一棟の花園洋房(上海式低層洋館)を建設した。
そればかりか、彼女は娘に何部屋かを家賃徴収にあげて収入源を断たないようにした。
しかしながら、このような厚い経済基礎を得ながら、二人の日々は「一地羽毛(トラブルを扱った中国小説)」のように混乱した。
盛方頤の最初の子を授かった時、彭老七は慰めを求めに出かけ初め、徹夜で帰らないことも常であった。
この経緯(いきさつ)を知って、盛方頤の神様は崩れ落ちた。
幼少から父母の手にゆだねられた彼女は、どうしてこのような事実を受け止められたであろう。
最初は、彼女は一時夫の魔が差しただけで、将来子供ができたならば、きっと心を入れ替えると考えていた。
しかしはからずも、夫の本性はこのようで、彼女はてんで、管理できなかった。
家じゅうの資産は既に彼が七・八割を使い果たしていたことに、彼女は気がついた。
数回の口論の末、彼女の精神の防御線は徹底的に崩壊し、アヘンの吸飲を初めて自分を麻痺させた。
更に大きな問題が、次から次へとやってきた。
二人は結婚後、夫婦共にまっとうな職に就いていなかった為、財産はただ出て行くばかりであった。
母親の蕭夫人の死後は、もう誰も援助すべき人が無く、二人の経済状況はますます悪化した。後に、彼らはただ盛方頤が嫁入りに持ってきた不動産を次々に売却し、上海のアパートに住んだ。
しかも、家でご飯が炊けなくなっても、盛方頤はアヘンを止めなかった。
当時は、それが唯一彼女の生活を支えるものであった。
彼女は自分の苦しみを、すべて自分が失敗した結婚と夫のせいにした。
自分の妹がこのように自信を貶め(おしとめる)ているのを見て、五姉盛関頤と、七姉盛愛頤は心を痛めた。
二人の姉は何度か助言した:「私達盛家の姉妹は、男に頼って生活せず、体は自分たちのもので、しっかり見て欲しい。」
しかし盛方頤は少しも聞かなかった。
錯誤(さくご)した道はずっと進んできたのに、どこでそんなに簡単に引き返せるのか。
(アヘン)吸い続けて、盛方頤の歯は徐々に抜け落ち、体は痩せこけてしまった。
1949年に、上海が解放されると厳しくアヘン禁煙が初められ、ここに至って、彼女はもう借家の柔らかいソファーに横たわる愛着も亡くなり、家じゅうに残っていたアヘンをそのまま呑み込み、自殺することを選んだ
喉の痛みも血生臭い味も、彼女は意に介さなかった。
臨終(りんじゅう)の際に、彼女はただ麻痺しながら壁の父親の写真を見て、遺憾を胸にはらみ:
「お父様あなたが私を殺しました、あなたは私の一生を守れなかったのならば、私に傲慢な18年を欲しいままにさせるべきではならなかったのです。」と嗚咽(おえつ)した。
人に発見された時、盛方頤の遺体はもう冷たく硬直しており、全く生命の跡形もなかった。
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