山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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張学良が残した東北は無抵抗を遥かに超えていた!‼︎

中国の近代史には、非常に混沌としていた時期がありました。中国は、外は列強、内は軍閥が領土を奪い、中国全土に勢力圏を分けると言う

内憂外患の真っ只中であった。1930年代初頭、最も強力な軍閥の一つが張作霖であった。

最盛期には南京国民政府の直轄部隊よりも強く、陸海空で30万人以上の兵力を有していた。当時、東北にはアジア最大の軽重量兵器を生産できる兵器庫があった。


清朝末期の洋務運動以降、各地に軍需産業企業が誕生した。ロシアの東北侵略に対応して、旅順造船局、奉天機械局、東北三省兵器総局などの近代の軍需産業が設立され、東北地方の軍需産業確立の基礎が作られた。張作霖は、民国時代の初期に奉天に奉天兵器廠を設立した。しかし、当時の奉天兵器兵器工廠は比較的に規模が小さく、生産する武器や装備は手榴弾や弾丸が中心で、重火器はなかった。

1918年9月、徐世昌は中華民国第二代総統として、張作霖は東北三省の巡閲使(監督官)に任命した。張作霖は正式に東北三省の実権を握り、戦力を増強するために5億元を投じて10年がかりで当時の中国最大、1920年代にはアジア最大の「東方のクルップ」と呼ばれた工廠を建設したのである。


東北クルップは、もちろんドイツの技術で始まった。第一次世界大戦後、敗戦国であるドイツは、ベルサイユ講和条約によって、軍需産業の設備を転売しなければならないことが判明したからである。この知らせを受けた張作霖は、早速部下をドイツに送り込み、機械設備を購入させた。


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1922年、張作霖は奉天兵器工廠を東三省工廠(別名、東北工廠)に改築した。銃、砲弾、大砲の3工廠を建設、機械は全て日本から購入し、日本人技術者を設計指導者として採用した。1925年楊宇霆は監督官に昇進した後、楊はドイツにドイツ技術者を派遣し、多数の機械を調達し、追加の銃工廠と軽機関銃工廠を建設し、8,000台以上の機械と数万人の従業員を擁し、当時、国内最大、アジア最大の兵器庫であった。




東三省兵工廠は中国国内有数の軍需産業専用の精密検査機器の設備を有し、年間生産は各種歩兵銃6万丁あまり、軽重機関銃1,000丁あまり、野砲、山砲、重砲等の各種大砲150基、砲弾20万発あまり、銃弾1〜1.8億発、及び大量の爆薬、航空爆弾などの軍需物資であった。東三省兵工廠は生産能力の強さだけでなく、研究開発の能力も大変強かった。国内外の優秀な技術の人材を頼り、東三省兵工廠は各種の類型の武器を模倣して研究開発した。75ミリメートル野砲、山砲、平射砲、高射砲から240ミリメートルの炸裂弾巨砲まで全て網羅し、特に日本の兵器の模倣については、日本が所有する兵器全てに対応して形式を模倣した。完成後の兵工廠は、長さ2.5キロメートル、幅1.3キロメートル、従業員は数万人であった。兵工廠には無煙薬、兵銃、弾薬などの各種製工廠があり、他に火力発電所、製鉄所、危機工廠等各種工・鉱業の企業が付属した。このほか、更に迫撃砲と主とする奉天迫撃砲工廠が単独に設立された。


東三省兵工廠は先進技術設備を導入すると同時に、技術革新を強化し、設備、工業技術を生産過程での改善を進め、基本的に機械化、自動化生産を実現した。1929年後半に、東三省兵工廠の銃弾生産は日産40万発以上の膨大な生産能力を達することができた。

1930年の東北兵工廠は年間に大砲150基、砲弾20万発あまり、歩兵銃6万挺余り、機関銃1,000挺以上を生産し、1ヶ月で一個聯隊を編成する準備ができた。下部組織の迫撃砲工場は毎月迫撃砲80基、砲弾4万発を製造できた。その生産を研究した「遼13」歩兵銃は、チェコや、日本、ドイツなどの多くの国の歩兵銃の特徴を総合し、総合した性能は日本の三八式歩兵銃より特色があった。砲身にはシリコマンガンの鋼材を使用し、全て自動生産であったが、性能は輸入品と少しも変わらなかった。

これより当時の東北軍の実力がどんなに精悍かと見ることができ、国内では完全に群雄を見下ろしていた。東三省兵工廠が模造した大砲の性能は大変出色していて、日本の大砲には既に対応する模造型番がある。ドイツ、オーストラリア、スウェーデンなどの兵器工業の強国の大砲も皆模造の範囲であり、その生産の範囲は高射砲、対戦車砲、キャノン砲、山砲、榴弾砲など各種の型番である。その模造したオーストリア1000軽榴弾砲の性能は元のままと差がなく、その模造した240ミリメートル大砲はアジアでは大変少なく、東三省工廠では意外にも全生産ラインがある。

当時の東三省兵工廠は大型トラックと飛行機の部品も生産でき、また飛行機の整備能力も高く、戦車や飛行機以外は全て製造することができたと言える。

しかし、一切全ては1931年の「満州事変」以後は日本軍品となった。

当時日本は瀋陽を占領するとすぐさま東三省兵工廠を接収したが、日本人を瞠目(どうもく)唖然(あぜん)とさせたのは、倉庫は各種の兵器で埋め尽くされ、10万丁の歩兵銃、拳銃6万丁、うず高く積まれた砲弾と銃弾は数百万発、大砲が大砲のカバーも外されず、各種機関銃は2,500丁あまり、迫撃砲工廠は各種の迫撃砲2,300基余りを損失し、国民政府全体の飛行機の総数よりも多く、張作霖が購入した数十両のM-18戦車とアメリカ製のFT-17戦車、殆ど全部を日本軍が横取りした。

東北で損失したこれらの装備は、その後全てが日本が中国を侵略する戦争兵器となった。