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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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北斉皇帝は如何ほど奇抜なのか?

北斉開国の君主〜高洋:前半生は勇敢知謀で、後半生は暴虐瘋癲であった

高洋は北斉の開国皇帝である。
彼の父親高歓と長兄の高澄は早々に東魏の朝廷政治を把握していた。父親の死後、自身は家族の次男坊として、兄の陰で、すくすくと成長した。
長兄が兵力を集める中で、高洋は功績を立てる為に血眼になり、人馬を籠絡した。
西暦549年、長兄高澄が調理人に殺された時、23歳の高洋は平定に出たが、年若い彼は、始めて兄の庇護を離れ、勇敢に立ち上がった。
これで、高洋のイメージは大変良くなった。
彼は危機に面しても、冷静に受容し、朝政をこなすかたわら、軍隊を指揮し、隠れ逃れた反対勢力を一掃した。
当時の皇帝は高洋に手段があり、兵馬があるのを見て、彼に命じて宰相とした。しかし、高洋は基本的に宰相の地位に満足せず、それまでは能ある鷹が爪を隠すように、ただ一撃を待つばかりであった。

西暦550年、彼は上位の詔勅を皇帝に取り付け、皇帝に署名を迫り、自ら即位して皇帝を称し、北斉王朝を建立した。

北斉が建立されたばかりの数年間は、高洋はよく征服に出かけた。

彼は兵を率いて四方へ出陣し、北は兵を使い庫莫奚(こまくけい)へ行き、東北で契丹に大勝し、突厥を破って投降に迫り、西に向かい山胡(匈奴に属す=稽胡)平定し、西北は柔然を突破し、南は更に淮南を奪い、長江に迫った⋯⋯。

これが北斉が最も輝かしい時期であった。

同時に鼎立した北周、陳と比較して、北斉は最も裕福であり、強大な国家であった。

ただ惜しいことに、ある人は逆風を欲しいままに局面を返すが、完全に順風の局面を事が出来なかった。


四方が安定すると、高洋は完全に一個人となり、行うことも一つ一つ奇抜になった。

真冬に、彼は衣服を着けずに高台で舞踏(ぶとう)し、市街の臣民に皆観賞へ来させた。
高洋は腹心には機嫌が良いが、彼のこの種の機嫌は、一般には受け入れられなかった。

彼は全国で招集した多くの女性を宮中に迎え、腹心と自分で一緒に享受した。


これを見ると、高洋の女性に対する純潔は、意に介していないのであろうか。

実際は全くなかったのである。

ある時、高洋が寵姫の薛夫人と愛し合っていた時、突然眼前の女性が、昭武王高岳と交わりがあったという曖昧な噂を思い出し、一刀のもと薛夫人を殺してしまった。
殺人後も、彼は全く気にかけることもなく、死体を抱いたまま、人と酒を飲んだりした。
その後、高洋はまた小刀を手にして、薛夫人の体をばらして、彼女の骨で琵琶を作り楽しんだ。

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高洋の奇行は、彼の老母の婁昭君を激怒させた。
当時婁昭君は手にした杖で高洋を打とうとしたが。高洋は酔っぱらいながら、「婆、私を叱るならば、お前を胡人の老婆として嫁に出すぞ。」と言った。
婁昭君は気分を害し、しかも高洋は母親が怒っているのを見て、和らげようと前に出ようとしたが、力を入れすぎていることに思いも至らず、母親を押し倒してしまった。

実母に接するにもこの態度で、ましてや義母にもそうであった。


高洋は義母に対して、それは本当に欲しいままに何らはばかりがなかった。

ある時酒に酔ってから、高洋は義母の家に闖入し、義母が椅子でくつろいでるのを見ると、大変怒って、矢を放った。
ピュン。
この矢は母親の顔を掠めた(かすめる)が、忽ち、義母に鮮血が流れた。
高洋は面白がって、私は母をぶったが、私はあなたをまだ打っていない。不公平だ。」
と言いながら、彼は馬の鞭(鞭)を取り出し、義母を100回打った。

このような暴虐的な開国君主は、前代未聞であり、朝廷の家臣も民衆も予想外であったと言えるであろう。
数年前に『少林寺伝奇』というテレビドラマがあり、この中の皇帝が高洋であり、ドラマの中で、彼は人命を塵芥(ちりあくた)のように扱い、虐殺を楽しみとしたが、実際、これには史的根拠がある。
幸いなことに。高洋は酒色に溺れて、身体の衰えが大変激しく、34歳で突然死した。

この年は、ちょうど彼の即位10年目であった。前半生の5年は、精鋭して統治を図り、隆盛を創造し、後半生の5年は、彼は暴虐で血に飢え、呆けて無能であった。

奇行の人はいつもいるわけではないが、北斉は特に多いとしか言いようがない。

皇族の皇帝も、奇人の程度は高洋に遜色がなかった。

北斉の第五代皇帝〜高緯:奸臣を登用し、忠臣を殺害し、強欲を極め、酒色に溺れた

高緯は、北斉で在位期間が最長の皇帝で、また本当に北斉を衰退と滅亡をもたらした皇帝でもある。
彼の父親高湛は荒唐無稽であったが、朝政ではまだまだ節製があった。しかし高緯になると、彼は歴代皇帝の腹立たしい一面を集約していた。
高緯は贅沢で好色、後宮に500人余りの女官を置き彼が専ら使用し、女官ごとに面会して価値数万金の裙子(ロングスカート)を下賜した。
時々出遊できるように、彼はまた首都鄴城の城外に12カ所の豪華な宮殿を建立し、つまらないことがあれば、闘鶏に出かけて楽しんだ。

豪華な庭園で、高緯は役者の縁起を好んだ。
彼はわざと破れた衣服を着て、乞食(こじき)に扮し(ふんする)て物乞いを始めた。
庶民たちの生活には、彼は根本的に無関心であった。

高緯の最も有名な事跡は、馮小怜の美しい体を陳列したことと、大将の蘭陵王を殺害したことである。


高緯は大変愚昧な皇帝であった。

蘭陵王と斛律光は、高緯時代の北斉の有名な武将であった。彼らの二人は、北斉後期に僅かに北周に対抗できる武将の棟梁であった。

道理から言えば、高緯は当然このような人を厚く待遇して、自分の皇位を維持すべきであった。
高緯もどの道理があっていないのか知らずに、違った調子を唱えるしかなかった。
彼はただ自分の昔の乳母陸令萱、祖珽などの人を信じて、斛律光を謀反に陥れ、斛律光一粟を皆殺しにし、毒酒を蘭陵王にも送った。

この一連の事件を起こすと、北斉は基本的に命運が尽きた。
西暦577年、高緯は国家を保つことができないと見ると、北斉を自分の手で壊さないようにするため、皇位を8歳に満たない息子の高恒に譲って、自身は太上皇となった。
当然、彼の太上皇は長続きせず、北周の捕虜となり、息子のの高恒と寵姫の馮小怜も捕らえられた。
囚われの身となった高緯は、命乞いもせず、国の立て直しも考えず、北周皇帝宇文邕に馮小怜を返してくれるよう懇願した。
このような奇抜な脳回路は、一般人には理解し難い。
国も敗れて家もなく、彼はどうして自分の女を守ることができるのであろう。

間もなく、高緯は宇文邕に殺害された。22歳であった。

なぜ北斉の皇帝はこのように奇妙であったのか。

私は、このような奇行は時代の混乱の産物であるばかりか、家風に合うのと関係がある。

高家は元漢族(一説高句麗族)であるが、高歓が東魏の権臣となってから始まり、彼らはまもなく鮮卑(東北、モンゴル)の文化に馴染み初め、高洋、高演、高湛三兄弟の生母婁昭君は、純粋な鮮卑族であった。
鲜卑族にとって、年少の叔父に未亡人の兄嫁を娶られることは、女性として享受すべきことであり⋯⋯全て天の常で地の道理であった。
そのため、今日我々が見るような北斉皇帝の奇行は、ただ習俗が違うだけかもしれない。
しかし、この種の悪習の王族は、皇帝が統治に精を出しているにもかかわらず、全て中原人の賛同や、長期的な平安を実現することな困難であった。