軍神が憑依した古代の美男蘭陵王は、33歳で死を賜り、インターネットでは北斉は滅亡すべきだ
西暦573年に、病と称して家にいた蘭陵王高長恭は、北斉の最後の皇帝高緯が人に命じて一杯の毒酒を送り、また「朕は昨日、夢に先帝が、あなたを探して相談があるという夢を見たので、お前が行ってみてくれ」という突然の知らせを受けると、蘭陵王は冷笑っして、酒を一気に飲み干した。
伝説の蘭陵王高長恭喜は容姿端麗で、身のこなしも健やかで、気質も抜群であったが、、その過分なしなやかな美しさでは戦えないだろう、つねづね敵軍に身のこなしを嘲笑された。それで、蘭陵王は毎回出征の時は必ず鬼神の面を付けて行ったが、向かうところ敵なしであった。
しかも歴史上の本当の蘭陵王は確実に四大美男の1人であったが、十分悲惨な人物であった。北斉は歴史に大変でたらめな時代で、歴代の国主は全て精神が異常で、皇帝になるとすぐ尋常な道を進まず、裸の王様同様になり、また寡婦となった義姉と交わったりした。
北斉で最も有名な歴史は最後の皇帝高緯に属しており、冒頭に毒酒を送ったあの皇帝であり、彼はまた「玉体横陳(美しい体の陳列)」という成語を創造した。
有名な妖后馮小怜は高緯の新しいお気に入りであった。このような事の出来る皇帝には、蘭陵王に死を賜ることも説明は難しくない。
蘭陵王高長恭は北斉文襄帝高澄の第四子で、蘭陵王の母は寵愛を受けなかったので、彼自身も自然と気に掛けられなかった。高澄が刺殺されると、弟の高洋は皇位を簒奪し、根こそぎにするため、高澄の子供達に大殺戮を進行したが、高長恭は貧しく空白であったため背景に何もなく幸いに免れた。
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しかし、高長恭の幼少期は苦しく、皇室の一員ではあったが飢餓に耐え、人の目を気にした。幸いに、天は彼に憐れみを垂れ、彼に絶世の容貌を与えただけでなく、軍神同様の指導力と戦闘能力を備えさせた。高洋が崩御すると、帝位は弟の高湛の手中に渡り、高湛は充分に高長恭を信任した。
また高長恭は蘭陵王に封ぜられ、突厥の戦役で度々の重要任務を委ねられた。蘭陵王の軍事経験と名声はこの時期最も成長し、彼は一事が万事向かうところ敵なしであった。
聖歴564年、邙山の戦いで、高長恭は500名の騎馬兵を引き連れ北周軍隊の包囲網を突破し、包囲されていた金墉城を救出した。北周の軍隊は鎧兜を投げ捨て、陣幕を放棄して逃亡した。
この一戦で、高長恭は奇跡を想像し、戦士達は彼の戦績の頌歌し、自発的に『蘭陵王の陣に入る曲』を創造した。その後、高長恭は斛律光と併称される北斉の中心的主将となった。彼は常勝将軍となった。北周に対面しても、突厥に対面しても、高長恭が居れば、基本的に充分勝算があった。。全ては大成功があれば、必ず恩はあだで返されるという。
しかし高湛は玄学(老荘思想)によって高緯を後継者に選んだので、この時期の蘭陵王は功高盖主(功がありすぎて君主に脅威を与える)の嫌疑を免れなかった。高緯の考えは一般人とは異なっていた。彼は、蘭陵王が北斉に対する忠誠心は一番であっても、蘭陵王を留めて置くのはやはり災禍があると考えていた。
ある時、彼は蘭陵王を呼び寄せもっともらしく気にかけて「愛卿(=家臣)よ征戦は、保重を要すべし、傷を受けるを要さずば纔に好ろし」といい、蘭陵王も深く考えずに「臣は戦場に上がらば、国事は就いては是れ家事にして、顧りみて生死に上らず」と答えた。
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