山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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傅斯年:孔祥熙と宋子文を攻撃して失脚させ、蒋介石もある程度畏れたが、晩年には気性が荒く自分も嫌になっていた。

1941年に、香港が陥落すると陳寅恪一家は空港に駆け付け、逃亡する準備をした。

しかし空港に到着すると、陳寅恪は、「孔ニお嬢さん」に席を譲るように言われて、一家は飛行場に待機を迫られたので、生死のほどは分からなくなった。

この事を知った傅斯年は雷のように激怒し:

「国家級の大先生が、高官の家族と外国の犬に席を譲ることを迫られるとは、孔祥熙を殺して天下に謝るべきである。」と言った。

一介の文化人で、単独行動で、権勢もないのに、如何に権勢が天を突く孔家と戦う方があるのであろうか。


あなたは傅斯年には、「傅老虎」と「傅大炮」二つの別名があり、もし彼を怒らすと、後々大変なことになることを、知らないであろう。

孔ニお嬢さんが陳寅恪を横暴に追い出したことと、孔祥熙夫妻の長年の汚職・不正行為によって、傅斯年は上に二冊の陳情本を出し、蒋介石に公の説明を希望した。

蒋介石はこのあらさがしを取り上げないことは誰もが知っていて、彼の怒りを鎮める事は、簡単なことであった。

このような情景を目の当たりにして、傅斯年は半日腹を立て、元のまま諦めず、提案を準備し、参政会に提出し、世論に訴えることを決定した。

傅斯年のこの事実を弄する事を意識して、蒋介石は終に焦り出し、まず陳布雷を説得役に招き、後に胡適に説得の援助を求めた。

しかし、傅斯年は元のまま動じず、あなたは、私のために考えてくれて、ご立派ですと、傅は尽く(ことごとく)無視した。


国民参政会の開始を待って、傅斯年の攻撃は、世論を騒がした。

蒋介石は自ら出頭せざるを得なくなり、「先生、私を信任しているのかね?」と訊ねた。

傅斯年は「もちろん信任しています。」と答えた。蒋介石は次いで「あなたが私を信任しているのならば、私の使用人も信用すべきだ。」と言った。

傅斯年はこれにはこれには喜ばず、厳しい顔で「委員長、あなたが私の首を切り落とせば、私ももう喋れないません。」と言った。

蒋介石は苦虫を噛み潰したように言葉もなく、もう何も言えなくなった。


間もなく、孔祥熙は退任し、宋子文が財政部長を引き継ぎ新官僚として就任した当初は、宋子文はやはり大変期待され、国民の地名度も間違いなかった。

馬には乗ってみよ人には添うてみよである。間もなく、宋子文の本態が明るみになってきて、その貪欲さは姉の夫孔祥熙と比べても、遜色のないもにであった。

傅斯年はその状況を見て、またいてもたってもおられず、宋子文を糾弾(きゅうだん)する、3通の檄文を連発したので、再び群衆の怒りを買って、宋子文は退陣を余儀なくされた。

連続の「砲撃」で財務部長が退陣して、ある人が傅斯年に:

「先生は我々が言いたくても言えなかったことを言ってくれ、本当に君子です。」と手紙を書き送った。


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確かに、傅斯年は権利を恐れず、勇敢に正義と公正の立場に立ち、一兵卒とも無駄にせず、二人の背景が強大な、権勢が天に昇るような金権役人を馬から引きずり下ろすことができるのは、中国史を通して見ても、このような人物は大変珍しい。


抗日戦争の勝利後、北京大学では派閥闘争が激しく、売国の文人が青年を奴隷化し、えせ教員が次第に増えたので、北京大学の学術の自由を維持するために、懲罰が急務であった。

みなが議論の末、傅斯年だけがこの重責を担当すべきとなった。

そこで、彼を北京大学の代理総長に就任を求める、招待状が発行された。

傅斯年が登壇後手にした最初の火種は、えせ教師の排除を声高に求めることであった。

傅斯年を休職させるために、これらのえせ教員がストライキをして、高官に請願して、至る所に援軍を求め、それでだめならば訪問して抗議し、新聞に弁護を載せ、無理やりに傅斯年言うことを聞くように迫った。

しかし彼は「私は北京大学を浄土世界に留めたいだけなのだ。」と最後まで態度をしっかりと持った。


台湾に到着すると、当時の大学は憂慮に満ちており、学生運動が絶えず、傅斯年はまたまた台湾大学のごたごたを引き継いだ。

当時の台湾大学は、多くの高官の子弟が関係を頼って入学したがったが、傅斯年が掌握してからは、一切の子女や取りなした人は尽く門外に拒まれ、進入も許されなかった。

続いて、彼は学風の整理を開始し、その手段は瓜を切り菜を刻むようにてきぱきとし:

例えば無駄飯喰らいの職員は、解雇。

学力が水準以下のものは、退学。

清廉潔白でないものは同様に追放となり、全く容赦はなかった。

この一連の整理は、傅斯年に多くの人の恨みを買わせたし、彼自身に更に面倒を引き寄せた。


その後、台湾大学と師範学院では学生運動が勃発し軍隊警察の包囲に直面したが、傅斯年は強い態度で:

「きみ達が学生を駆逐したら学校に残れないではないか、そうでなければ、私は君らに命を屠すぞ。」と言った。

当時、学生を駆逐する責任を負い、どんな文化人をも眼にもくれない軍隊警察は、却って傅斯年の気勢にしっかりと制圧された。

このようにして、台湾大学は今回の活動で保護され、惨劇の発生を避けられ、台湾大学の教師学生達は、傅斯年は本物の男だと頻りに感嘆した。

現在でも台湾の軍隊警察が台湾大学構内に勝手に進入できないのは、傅斯年の威風にある程度頼っているのである。


1950年12月20日、第一回国民教育会議で、ある人が傅斯年に、教育経費を私腹化していないかと質疑した。

一向に正直果敢な傅斯年は、話すほどに激昂して、一口も喋れなくなって倒れたが、救命の効もなく、54歳で亡くなった。

一世の知識人の背骨が、このような形で亡くなると、後世の人に啜り泣きをやめさることなく、腕組みでの嘆息をさせた。