山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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泰山


泰安市泰山は山東省中部に位置しています。北は済南に依り、南は孔子の故里曲阜と隣合わせています、西に黄河があります。泰安は温暖大陸性半湿潤季節風気候区に属し、四季がはっきりしていて、過ごしやすく、自然の景観と人文的な景観が溶け合って一体となり、東方歴史文化の宝庫の称があり、中国五千年の文化の縮図であり、中華民族の偉大な精神の象徴です。1987年ユネスコ自然遺産と人文遺産の二つの世界遺産に登録された。春秋戦国時代から泰山では斉魯文化が繁栄してきました。秦の始皇帝が即位の時、此処で封禅の儀式を行ったのをきっかけに、漢武帝、光武帝、唐の高宗、玄宗、北宋の真宗、清の康熙、乾隆等12名の帝王が神霊を祭り、国家安泰を祈ったので、全国有名になりました。さて「泰山」がこれほど名だたる山になったのはなぜなのか、見所に何があるのか、これからご案内いたしたいと思います。

泰山は最初は「岱山」と言いました。中国五岳の一つで、中国東部に位置しているので、「東岳」とも呼ばれています。山東省中部にあるこの山は延々と済南、泰安、歴城、長清などの市、県に跨り、主峰は泰安城の北にあります。総面積は462平方キロで、標高1524メートル、「華山」、「恒山」に次いで、五岳で3番目に高い山ですまた、昔から、東を「万物交替、初春発生」の地とする信仰がありまして、東岳泰山は「五岳の長」「五岳独尊」と讃えられてきたわけです。古代の封建帝王は即位後よく此処へ参拝にやってきて、「封禅の礼」や天地を祭祀する行事を盛大に行っていました。中国各時代の詩人や文学者達も此処で美文を残しました。その中に李白、杜甫の泰山絶唱が有名です。泰山磨崖刻石は2200余箇所あり、その規模の大きさ、傑作の多さ、歴史の長さ、書体の完成度において、国内外に並ぶものはありません。書道博物館とも言えるでしょう。

泰山は中国の山岳公園の一つであり、天然の歴史、芸術博物館でもある。泰山の中軸線上だけでも、現在各種の刻石が1800余箇所もある。有名なものとして、世にも稀なる珍宝「泰山秦刻石」、大字の鼻祖「経石金剛経」、千古の謎である「無字碑」、金色に輝く唐磨崖の碑刻「記泰山銘」等がある。歴代の皇帝と文人墨客はたいてい泰山に登ったことがあり、多くの貴重な文化遺産を残した。泰山の名所は竜潭ダム、中天門、五大夫松、十八盤、南天門、碧霞祠、日観峰、月観峰などがある。日の出、金ノ帯のように見える黄河、夕映え、雲海は岱頂の四大奇観であり、ほかの景色も大変美しい。

泰山の観光区域は麓、東登山路、頂上、山裏と西登山路の五つからなり、東登山路も西登山路も中天門で一本に合流して頂きに至りますけれども、距離は9キロ、階段6293にも及んでいます。途中には「柏洞」「中天門」「雲歩橋」「望人松」「対松山」「仙人橋」「日観峰」「月観峰」等の名所景観があるほか、旧跡として「王母池」「紅門宮」「斗母宮」「普照寺」「回馬嶺」「五松亭」「南天門」「碧霞祠」と歴代の石刻があります。


泰山登山道は「岱廟」の北に位置する「岱宗坊」から始まるわけですが、しばらく行くと「王母池」までやって来ます。泰山南麓の避暑地として有名な「王母池」はいつ造られたか未だ調べようがないのですが、李白の詩に「朝王母池に飲み、暝る時は天門闕に投じる」というのがあることから唐代から既にあったことが分かります。現存の建物は明清のものが多く、前後二つの庭に分かれていますが、正門の裏側に「王母池」が造られ、その西側にある「王母泉」から清らかな泉が湧き出ています。母やには「西王母」が祭られ、裏庭の「七真殿」では、「海を渡る八仙人」の神話で有名な「呂洞賓」ら七真人が祭られていました。

もう少し前へ進むと登山用の石階段が見られ、本格的な登山に入ります。この逆凹形の建築が紅門宮である。紅門宮の南麓は大蔵嶺に二つの赤い巨岩があり、形が二つの扉のような巨岩があり、これが泰山で有名な地質的な見所であることによる。この道の途中には地質的な景観が多く、我々は泰山の雄大で深い歴史文化と優美壮麗な自然景観と同時に、泰山に世界の地質の公園としての独特な魅力を感受させることができる。

皆さん、我々の面前の登山道を跨ぐように建っているこの楼閣は「飛雲閣」であり、建物の下の門洞に上には「紅門」二文字がある。飛雲閣の西側には、紅門宮建築の説明があり、上記に最初の文章は我々が次に続く泰山の説明板によく見られる「創建年代は不明」である。歴代が長いために古建築の始めて建てられた年代は既に考証できないが、現存のものの、絶対多数は明清両時代に修復、再建されたもので、紅門宮も当然例外ではなく、紅門宮の建築は大変巧妙である。それは飛雲閣を中心として凹形の空間を形成し、宮前の三つの石坊(鳥居)と碑碣は、一組の高低入り乱れ、色彩が鮮明で、配置の緊密な古建築を構成している。この建築は東西二棟に分かれ、東棟は仏門、西棟は道教寺院で、両棟は結合していて、仏教道教が併合し、中間には高く「飛雲閣」を築き、それらは、繋ぎ連結している。

飛雲閣の西側は碧霞元君廟である。廟前には清の康熙年間の石坊があり、上には「紅門宮」、下には「瞻岩初歩(岩の見始め)」の四文字がある。紅門宮は元々道教の建築で、碧霞元君の神像を祀っていた。紅門宮の東の弥勒院にはいつもにこやかに笑い、大きなお腹の弥勒菩薩「布袋様」を祀り、東院の南庇に祀っているのは九連菩薩(観音の一)である。明の万暦帝は彼の母親を九連菩薩の加護に封じるために、泰山に現存する最大の銅像を鋳造した。そのために紅門宮は仏教と道教が仲よく共存する場所となっている。東西の院は飛雲閣により連なり、その建物を跨いで通過することができて、この仏教と道教が共存する一連の建築群を習慣で「紅門宮」と総称している。紅門宮から上に登ると更に多くの仏教、道教が共存する建築があり、その表現する所は「寛容」という文化の神髄である。

「紅門宮」から上に仏教、道教一体の建築が沢山あります。この「寛容博大」の文化神髄が呈し、即ち:「泰山は何と雄大なのか、万物全てを包容する。泰山は何と寛大なのか、万象全て帰納する。泰山は何と尊く厳しいのか、万物全て包含する。一切の宇宙の事象は、皆このように儒釈道である」と此処泰山に見ることができる。

前に「一天門」「孔子登臨処」「天階」と題する三つの石坊が建てられています。登山道はアーチ型の孔を潜って行くわけですが、振り返れば、もう泰安城を鳥瞰できるほどの高さまで来たことに気が付かれるでしょう。毎朝、日が昇ってくると同時に山の半分ぐらいが赤く染まり、実に景色が素晴らしい所です。「紅門曉日」という名で呼ばれています。

次は道教の寺院だった「万仙楼」です。建物の外側には明代の石刻が六十枚も嵌め込まれ、北のほうは「桃花谷」というさくらんぼや笹の生える所で、東のほうでは渓流が音を立てて流れる中を木々の緑が揺れ動いています。そよ風が優しく吹く夜など、清流に冴えた月が映ったりするとなお情緒たっぷりの景色になります。「仙楼月夜」と呼ばれているそうです。

「万仙楼」より北の山道の岩壁に風と月の字の囲いを取ったものが刻み込まれています。どんな意味か当てて見てください。清代の済南の名人劉氏が刻んだのですが、「風」「月」の二字の芯を「囲い」から出して、此処の景色は限りなく美しいという意味の表現だそうです。「斗母宮」は元々女性道士のために建てたものです。門外には明代の槐樹が植えられています。幹が地面に伏すように生え、伏している龍のような形をしているので「臥龍槐」と言われています。境内東側の「聴山泉房」からは「三潭畳瀑」という滝が眺められ、雷のような音が耳に入ります。「斗母宮」から東へ1キロほど足を運ぶと、『金剛般若波羅蜜経』が刻まれた経石峪(谷)になります。50センチ四方の字で、1043字ほど残っています。北斉時代の作品らしく、歴代にわたって、「大字の鼻祖」「榜書ノ宗」と尊ばれています。


経石峪

泰山の美しさは石の彫刻にあり、泰山には2,500を超える石の彫刻があり、海に散らばった巨大なシステムから、3つの言葉と2つの言葉の驚くべき言葉まで多岐にわたります。今、私の後には、中天門の下で最も有名な古典の一つがあります。

ご覧の通り、二つの山頂の間の谷底には、古くて有名な『金剛経』が刻まれた滑らかな石の広い領域があります。経石峪『金剛経』は中国最大の現存する仏教の磨崖石刻です。経文は、2000平方メートル以上の緩やかな斜面の石の床に刻まれています。東から西に、仏教の『金剛般若波羅蜜経』が刻まれており、合計44行、25語または10語,合計2799語です。単語の直径は50cmです。石刻は千年以上の風雨によって侵食されており、まだ41行、1069語が残っています。

西暦401年、西域高僧鳩摩羅什が中国に到着してから地元に暮らすことにした。それから、413年で円寂する(亡くす)ようになった。この間(十二年間)では彼は中国語で訳した74部の総合384巻お経があり、それらの中に広く世の中に流通するのは『金剛般若波羅蜜経』今にも現存する年代が古い『金剛般若波羅蜜経』は868年に敦煌蔵経楼に収蔵した物である。1900年に海外に流失した。目前はイギリス博物館に保存した。西暦六世紀の経石峪に刻んだ『金剛般若波羅蜜経』よりも三百年ぐらいに遅いのだ。

その著作について、専門家は異なる意見を持ち、一部の人々は彼らが晋朝の王羲之の一人であると信じ、より多くの人々は四大高僧の一人安道義に焦点を当てました。泰安東平の洪頂山、二洪山の磨崖石刻は、書道や結び目の両方で目の前の刻石と非常に類似しています。だから、専門家はこれは同じ人の手であるべきだと考えています。

皆さんがご覧のように、経石峪の30行目から双鉤字(籠字)が出現し始めて、明らかにこの経文の刻字が完成していない。専門家はこれには重大な事件の発生がその刻字に影響していると考えている。紀元4〜6世紀には、北魏の太武帝、北周の武帝など4度の大きな廃仏運動があり、経石峪の鐫刻を停止した。また学者は、当時の斉魯の地は北斉の領土に属していたので、北斉の滅亡がやはり本当の鐫刻中止の原因であると指摘しているようです

経石峪の磨崖石刻は筆法が跳躍し、点画は厳重で、骨力勇健で筆鋒鋭利である。字体は隷書を主体とし、変化に富み、あるものは急激なことが迸るようで、あるものは緩やかで流水がさらさらと湧き出るようであり、曲線と直線にめりはりがあリ、ある種民俗音楽の旋律の美しさが流れ出ている。書家は全く楷、草、小篆に束縛されない各種の風格の神髄をその中に融合し、我々に民俗文化の宝典(貴重な書)の大作を残している。

経石峪の石刻は、「世界一」と呼べるほどの構造と規模を誇っています。泰山はなんとなくでも、碧霞元君祠もなく、南天門もないが、経石峪があるだけだが、やはり来て見るだけの価値はある。

経石峪の美しさは周囲の環境と調和しています。周囲にはまだ多くの刻石があり、特に明隆慶六年明人が題した「高山流水(高い山の流れる水)」があり、神来の筆と呼ばれています。経石峪が高山流水の詩文になります。詩や絵画に満ちていること。経石峪は高山流水とように万年流伝と意味します。


「斗母宮」から更に上に登って行きますと、柏の木が高く聳え、日差しを遮ってくれます。木陰を歩くとさながらトンネルの中にいるような感じで、岩に刻まれた「柏洞」がそれを最も真に迫って表現しています。真夏に登山に来た人には有難いものですね。地勢がそこを登る人に急須の中にいるような感じをさせる三面が山、一面柏の「壷天閣」を過ぎると道が険しくなる「回馬嶺」にやって来ます。唐代の玄宗皇帝が馬で此処まで来たが、前へは進めず、登山の籠に乗り換えざるを得なかったことに由来するそうです。日本風に言うと「馬返し」ですね。

  乾隆題回馬嶺詩碑

天を祀り書を索する為馬に乗って来たが
天を祀り書作する為馬来たる
凸凹の悪道は進む遂に戻る。
崎岖進むに難く遂に因て回える。
泰山何ぞ林放の如くざれば
泰山何ぞ林放に知かざる?
祥符を受けず捷径を開く
祥符を受けず捷径開く。


中天門

中天門に登ると、最初に見たのは小さな広場でした。広場の中央には石坊があり、経石峪の大字が一体化した「中天門」の三つの大きな文字が入っています。石坊は古風でシンプルで、周囲の風景と調和しています。広場の周りには多くの建物があり、北の石段の上には三つの寺院があり、元々は二虎廟で、現在は財神廟と呼ばれ、残りは観光客が休息できる新しく改装されたサービス施設です。中天門は黄峴岭に位置し、「黄峴岭は土の色は黄と赤で、他の場所とは異なる土壌色」で名付けられ、地形は険峻であり、泰山主峰の自然な障壁であるだけでもなく、また、泰山の西、中の二つの小川の流域でもあります。中天門からは山を見下ろすと、群峰の低頭と白い雲が見えます。登山は此処迄で「中天」に過ぎませんが、空が広く感じ、疲れが一掃されます。

北を見ると「万緑の茂みで少し赤」の南天門が目に入り、曲がりくねった石段の棚が階段のように垂れ下がり、泰山の頂上の呼び出しが再び自信を燃やします。皆さん、山頂に至らずんば好漢にあらず(最後の目的地に到達しなければ立派な人間ではない)。会ず当に絶頂を凌ぎて、一度衆山の小なるを覧るべし(いつかはきっと絶頂によじ登り、足元に山々の小さく見えるのを眺めるであろ。「孟子」に出てくる、孔子が泰山に登って天下を小としたとあるのを踏まえている。「山頂にいる」からこそ「小さな山が一目でわかる」さあ、泰山の頂上を目指して出発!
泰山の中腹に「中天門」という東、西両登山路の合流点が設けられ、そこからは頂上の入り口の「南天門」がはっきりと目に入ってきます。雨が上がり、空が晴れ、夕日が照ると辺りが雲の中に隠れては現れて、天上の世界そのものです。「中天門」から上はよく雲に覆われるので、その北のほうの石橋を渡る登山客はよく自分も雲の上を歩くような錯覚に陥ったりします。『雲歩橋』とはなんてぴったり合った名前でしょう。
五大夫松:中国の古籍『史記』によると秦の始皇帝が(紀元前219年)泰山で封禅の礼を行うため此処まで来ましたが、突然風雨が強くなり、嵐になったので、一行は大きな樹の下に遭難した。その後、始皇帝は自分の身を守ってくれたその大樹に感謝し、爵位を与えた。その爵位は五大夫と言いました。秦の始皇帝に雨除けを提供したのは五本ではなく、一本の樹であったはずであるが、封じられたのは一本の樹だけであった。雨除けの勲功で封じられたのはどんな樹であったのか、『史記』には記載がなく、後の『漢官儀』は松樹と説いている。封ぜられた爵位は20級に分かれ、五大夫以上でようやく官爵が始まった。後の人々は「五大夫」とはどんなことなのかはっきりしなかった。それで「五大夫松」とは五本の受封した大夫官の松樹を指すようになった。そのまま風雨、盛衰を経て、清の雍正8年、つまり1730年に、欽差丁塔保は勅命を奉じて最終的に五本を植栽し、現在では二本を残すのみであるが、「五大夫」の称号は今日まで踏襲されて変わらない。
今、私達は泰山の有名な十八盤に来て、これは泰山の最も険しい部分です。開山から龍門まで「慢十八盤(緩坂)」です。龍門から昇仙坊までは「不緊不慢十八盤(中坂)」です。昇仙坊から北には険しくなる「緊十八盤(急坂)」あり,昔からそこを過ぎると仙人になり得るとの説が伝えられています。
皆様は、今、私達が行く所は、十八盤の出発点です。道路の両側には、道路を修理するために山を開いた時に残された残りの岩壁があるので、ここでは「開山」と呼ばれています。十八盤の石段から遠くない所には「龍門」の石坊があり、観光客を元気づける場所でもあります。鯉は龍門を登ると龍に変わり、あらゆる霊としての人間がブルースリーに変わり、自然に励まされ、勇敢し続けます。石坊は元々明代嘉靖年間で設立され、1994年に再現されます。石坊の右手の石壁には、清朝の有名職人魏祥が書いた草書の「龍門」という文字があります。
十八盤両側の石壁に「仰不愧于天,俯不怍于人(仰いでは天に恥じることなく、世間を見下ろしでは人に対して恥ずかしい思いのないこと)」の題刻があります。刻石の年代は不詳であります。山西の姜学海からの書です。この言葉は『孟子・尽心』から言われた「君子には楽しみが三つある。それは何が言えば父母がどちらでも健在で、兄弟に心配事がないことが、まず第一の楽しみである。仰いでは天に恥じることなく、世間を見下ろしでは人に対して恥ずかしい思いのないこと。これが第二の楽しみである。天下の英才を得て、この者達を教育することが第三の楽しみである。ここで次の言葉を伸ばし、我々への戒めとします。頂上に登り仙境に歩み入る前に、必ず自我を検討し、人としてきっと上には天に恥じず、下は人に恥なくしなければならない。この隣の「神功利済」の刻字は、私達に奨励しています。神様は困難を乗り越えるために善を頼りにしている人を助けることを最も喜びます。
昇仙坊の左手には「天地交泰」の四大字があり、乾隆48年の刻である。「天地交」はつまり天地が通じあるの意味であり、泰は吉祥で、享受に通じる。この刻字の伝える意味は、泰山か天地交合(空と大地が出会う)する場所で、天下のスムーズな安泰を象徴している(世界の滑らかさと静けさ)。
今、私達が見ているのは「昇仙坊」である。ここまで来ると、我々が登る十八盤の過程はもうラストパートに入る。私の後には、十八盤の三番目(我々を待っているのは十八盤の三段目である)。この盤道(つづら折りの道)は長さ僅かに150メートルであるが、480段余りの階段が一気呵成となっているので、皆さん、頑張りましょう、南天門に登って、天門にふきすさぶ、万里の清風を受け取りましょう。昔からそこを過ぎると仙人になり得るとの説が伝えられています。そこから上を望めば、天から垂れてくる梯子とも思える険しい登山階段が目の前にかかり、後を振り向けば、青山の間を去来する浮雲はまるで波立つ海のようで、正に雲の上に身を置いている有様です。

南天門

皆さん、10数分のロープウェイの歴程を体験した後で、私達は遂に「地に足が着きます」ことができました!岱頂風景区に入りました!南側の建物は南天門です。

泰山の主題(テーマ)の境地は突出した一文字で、それは「天」であり、古語に「天高は泰山に及ばず」と言い、泰山は天の頂点とされており、誰もが泰山の地図上の、景色の命名には「天」字を多用している。古代人は、九は陽数の最たるもので、官に九品(九段階)、人に九等級、天に九重(層)があり、そこで九霄雲外(世界外)の言い方がある。道教では「道は一を生じ、一はニを生じ、ニは三を生じ、三はあらゆるものを創り出す」と説いたので、三重の天毎に門があり、第一の三重天は一天門と言い、第二の三重天の門は二天門、または中天門と言い、第三の三重天は三天門と言うが、つまりこれが皆さんの前に展開する南天門である。この南天門の建築は上下二層に分かれ、下層は門口(かどぐち)であり、歩行者が出入りし、石ブロックを切り出して、弓型の石のブロックでアーチを作るが、東西の長さ9.7米、南北6.3米、高さ4.7米、洞門の幅は3.7米、高さ3.3米で、門の上方には鐳金(中国式鍍金)の題字「南天門」三文字があり、両側に一対の対聯がある:

門辟九霄仰步三天勝跡,

階崇万級俯臨千嶂奇観。

この対聯は「南天門は泰山の頂上に建てられており、天空の国のような感覚を味わうことができる。そこから見下ろすと、長い石段と、遠くの山々のほか幾つもの丘が鮮やかに見える」の意味であります。

上層には摩空閣があり、天空の城を思わせる空中楼閣がある意味であります。

南天門は翔鳳嶺と飛龍岩の間にあり、両側に万丈の岸壁があり、下には「天門雲梯(天国への雲の梯子)と呼ばれる十八盤がある。古人は「地を抜くこと五千尺、霄着く十八盤(地上五千尺、天上に突進する十八坂)」と称賛した。登攀の困難は思想通りである。それでは、南天門は誰が建てたのであろうか。またどのようの建設されたのであろうか。

南天門は元の中統5年に建てられ、建造者はある道教の道長である。張志純は、彼は数十年をかけて、泰山の道教寺院を二十ヶ所余りを改修した。その中で最も大きく史書に名立たるのが、南天門である。元の中統3年、彼は東岳提点監修官兼東平路道教提点(提点=会計)の職を授けられた。東平路管厳忠範の要請で、南天門の建設監修となった。南天門の地勢は険峻で、全く登れない高さで、此処に南天門を建てることの、難度の大変さは推して知るべきである。張志純の努力の元に、南天門は「之に経構を為り、累歳にして乃ち成(此処に営造して長年でようやく完成)」して、建造は成功し、泰山のランドマーク的な建築となった。


碧霞祠

皆さん、現在我々が来たのは碧霞祠で、泰山山頂で最大の古建築であり、全国でも重要な道観である。西暦1008年、宋真宗は泰山で事業を行い、翌年排水溝の流れを良くした時に、石彫の少女神像を発見し「天仙玉女碧霞元君」となればを封じて、廟を建て祭祀して、名を昭真祠としたが、清の改修後、碧霞と改名した。
碧霞祠は前後両院に分かれており、現在我々は碧霞祠の前庭にいる。南の照壁(入り口の目隠し壁)には「萬代瞻仰(いつも仰ぎ見る)」の四大文字があり、中間は泰山聖母に紙銭を燃やし香を焚く宝蔵子である。階段を登ると、東西南に三つの神門があり、清の雍正8年、南神門の上に楽舞楼が建設され、酬神演戱(神様に奉納する舞楽)に使用した。正門の内外には青龍、白虎、朱雀、玄武の四大門神を供養する。それは風雲を叱咤すると言われ、此処では天仙玉女碧霞元君のために門に立ち、彼女の威厳が一般的ではないことを明らかにしている。
「上山にしても上山せざるものを、まず王霊官を拝むべし」、現在我々が見ているこの方は道教を守護する建物の神様〜王霊官である。王霊官については「新捜神記」に記載があります。本名は王善で、宋徽宗時代の人で、元は術上でしたが、後に蜀人薩守堅に符法を学びました。
死後、玉皇大帝に「先天主将」と封じられ,天上、人間界の秩序を司りました。道教寺院では王霊官の像が多く作られており、その外観は独特で、赤面で目が三つあり、鎧を纏い鞭を持った、山門を守る神様です。
左右の両側には東西の御碑亭があり、中には二基の乾隆皇帝が泰山に来た時に立てた御碑がある。御碑亭には一対の鋳銅の器物があり、左側は明の万暦17年鋳造した「万歳楼」器皿であり、左側は明の嘉靖19年に北京の房山県が献上した「千斤(0.5トン)鼎」である。
霊官殿の両側には二基の銅碑があり、左には明の万暦43年に鋳造した「勅修泰山天仙金闕碑」であり、泰山碧霞祠金闕建造の経過を記述しており、右側は明の天啓5年に鋳造した「欽修泰岳大功告成賜霊佑宮」」と宋は昭真祠と改名し、金代は昭真観、明代は碧霞霊佑宮と賜った歴史が記述されている。碑は全体が鎦金(金箔貼)で、高さ5米、碑座、碑頂には盤龍が細かく彫刻され、手法は緻密、彫刻は精細、高い芸術価値があり、大変貴重な歴史的文化財で、碧霞祠歴史の研究に対して封建社会の等級観念は比較的強く価値がある。
封建社会の等級観念は比較的強く、ただ帝王将軍宰相、官位のある貴族のみが大殿に入って元君を拝む資格があり、碧霞祠の主体建築の正殿は容易には開放されておらず、尊厳と気品を示していた。それでは一般の人民はどのように元君を祭拝したのであろうか。大殿の前には小型の建築物があり、一般人の参拝に供せられた。明朝の時代には、この建物は相当の高い規格となっていた。万暦42年には孝定太后李氏が昇仙(逝去)すると、神宗皇帝は母の遺言に従い、泰山頂上の碧霞宮付近に万寿殿を建設し、孝定太后李氏を祭祀し、「九蓮菩薩」に勅封した。今の碧霞祠香亭の位置に武当山の「金頂」を真似て金殿を建造したが、金殿は鋳銅の金箔張りで、木造建築を模倣し、「金闕」と号した。専門に「泰山聖母」を奉斎したが、明朝末期に、
李自成の蜂起軍は銅亭(金闕)を山の麓に運んで、岱廟の中に現している。明朝に金闕が「下山」してから、元位置には現在この「香亭」が見られ、中には奉斎しているのは碧霞元君である。
香亭の西側には東西に宮殿を配し、東殿には、専ら眼病を治す、眼光娘娘を祭祀し、西側には送子娘娘(安産の女神)を供養する送子殿で、眼光娘娘と同様に聖母の化身である。泰山で子宝を求める習俗は古来続いて止むことがない。皆さん、現在我々は碧霞祠の正殿に来ています。正殿は碧霞祠の主体建築で、幅五間(六本柱)、二層厢の八角で、これは碧霞祠内の最も高大で雄偉な建築である。大殿と異なる場所の屋根全体は銅瓦で葺かれていて、360畝あり、中国の旧暦の一年360日を表し「周天之数(一年の天球の運行)」を象徴している。山頂の天候が劣悪なため、春には風、夏には雨、秋には霧が多く、冬は厳寒で、変幻は計り知れなかったので、清時代には正殿の葺き瓦、鴟尾、風鐸、鬼瓦が全て銅製に改められた。雨後に晴れるたびに、山の下の雲海が舞い上がり、山頂には雲煙が紡がれ、碧霞祠は山頂の雲の際に時に隠れ時に現れ、恰も天上の給電のようである。

大殿前の下には雍正皇帝が御賜した「福綏海宇(福は海と空を纏う)」扁額があり、また乾隆黄帝の「賛化東皇(東方神を称賛する)」などの扁額がある。大殿の中央に供養されているのは即ち聖母碧霞元君であり、宋朝の真宗皇帝が廟宇を建立して以来、千年も焼香献灯が絶えず、毎年多くの焼香客が千里の距離も構わず、聖母の面前に香を焚くためにやってきたので、明時代には朝廷は此処で香火税の徴収を開始し、国家の財政に充てた。当時の資料にはこのような「泰城(泰安)」周辺の人民は泰山お婆ちゃんは知っていても、泰山があることは知らない」の一言が書いてあり、その影響力の大きさが窺える。殿内の真中には碧霞元君を供養している。道教の言い方では、女性の仙道を得たものを元君と称し、また玉女は碧い衣に紅の裳裾を着けたので、碧霞元君と言う名を得ている。この鍍金の銅像は、乾隆年間に鋳造され、現在でも保存が完全で、祠で道観を鎮護する重宝である。碧霞祠は規模が広大で、配置が完全な古宮観の建築群で、その配置は周密で、区区の殿堂は趣きがあり、風格は独特で、中国の高山の古代建築では尊大で、建築学界の高い称賛を受けている。

大観峰

皆さん、泰山は古今を照らす歴史のようなもので、泰山は是非を証明する書物のようでもある。もし泰山を一冊の中国の大著作とするならば、即ち、現在皆さんの面前に展開しているのは、最も精彩な一頁なのである。この岸壁に認められる題刻は70ヶ所余りあり、尽きることのなく大変に壮観であり、大観峰の名を得た。大観峰の古典的な筆跡は現在我々の見ているこの一篇の金張りの作品で、これは唐の玄宗皇帝が自ら書いた御筆で、「唐磨崖」と呼ばれている。此処で唐磨崖を語るには、唐代の女帝武則天を挙げないわけにはいかない。当時武則天は大唐を大周と改め、皇太子を設立した時に、彼女は、一人は彼女の子李旦、一人は彼女の甥武三思の、二人の選択肢があった。最終的に李旦の子李隆基の補佐の元で、李旦が皇帝の位に登ったが、登壇御間も無く、韦皇后の乱と太平皇女(武則天の子李令月)の反乱が勃発し、李旦は荒れ果てた国土を自分の子李隆基に譲り渡すことと号したなった。李隆基が登壇後、間もなく反乱は平伏され、彼は内乱を救い、唐室を回復したのは自分であると豪語し、そこで泰山へ来て封禅の儀式を挙行し、天下に自分が本物の真龍天子(皇帝)であると表明した。

泰山に来て封禅(天に皇帝の即位を報告する儀式)を行った時、知事賀知章は、これまでの玉碟文書は全て天帝が見るためのものであり、これは皇帝が泰山を封禅し、仙人になることを目指したが、長生不老を目指したが、全て皇帝個人の私的な願望で、これを一般に公にすることはできないと答えた。玄宗皇帝は賀知章に、私が泰山を封禅するのは天下の民衆のために吉祥を祈念するためであり、民衆の為に吉祥を祈り、秘かに要求はないと訴えた。そこで、開元13年、西暦13年、西暦725年に、玄宗皇帝は泰山で封禅の儀式を挙行し、封禅儀式が終了ししてから、玄宗皇帝は人に命じて彼の天が封じた(封禅)玉冊を大声で朗読し、大衆に公開する先例を開創した。

眼を翌年に遷すと、開元14年、西暦726年9月には玄宗皇帝はこの文章「記泰山銘」を自ら筆写して、自分が泰山を封禅したのは大衆のために吉祥を祈るためであると、天下に明言した。この刻石は高さ13.2米、幅5.7米、刻文は24行、一行51字で、銘文に額の題字を加えると、全てで1008字であった。当時、唐の玄宗皇帝李隆基が大臣の度重なる要請で泰山に来て封禅の大式典を挙行したが、当時倹約していた彼であるが、却って今回の封禅活動を前代未聞のピークに押し上げ、文中には精細な筆墨で余力遺さず:「
張皇六師
皇帝の軍隊を拡充して
震疊九宇, 
封禅の威儀は九宇(九州)を震撼させ
旌旗有列
旌旗(色とりどりの旗)を並べて
士馬無嘩,
士馬はざわめき無く
肅肅邕邕
粛々として恭しく
翼翼溶溶
広く流れるように前進し
以至于岱宗,
以て泰山に到着しました。
順也。
全て順調した。」この様子を描き切った。
この段落には当時泰山を封禅する原因する原因と唐玄宗が泰山を封禅する隊列の壮大な気宇と気脈を余すところなく描き出しており、全文の第一段でもある。第二段は封禅の来歴を考証し、第三段では全ての封禅の大式典の全過程を描写し、また天下泰平、国民富強を称揚し、第四段で皇帝は再び上帝(天帝)に天の恵みを長く保つ決心を表明し、第五段では銘文の形式で前五代の皇帝を賛美し:「
赫赫高祖
かくかくたる高祖
明明太宗
めいめいなる太宗
爰革隋政
隋の政治を変えて
奄有万邦
全国を統一しました。
罄天張宇
国土の境界を拡張して天に到リ
尽地開封
境域を切り開いて地の果てに着き
封は疆域であり大地の果て迄切り開く
武称有截
武功は周辺国にもう強力と称せられ
截は断ち切る、武力は海外に恐れられる意
文表時邕。
文治は全国的に安定しました。
邕は広西チワン族地方で辺境まで浸透した。
高宗稽古
高宗は歴史を研究して
德施周溥
道徳の恩沢を天下に普及させ
茫茫九夷
茫々たる九夷(東方土地)を
削平一鼓。
一挙に取り戻し平定しました。
禮備封襌
礼はく封禅に備え
功齊舜禹,
功は舜禹に斉しく
巖巖岱宗
巌巌なる泰山
衛我神主
衛は我、神主
中宗紹運
中宗は前代国運を継承し
睿宗繼明,
睿宗は中宗の新政を受け継ぎ
天下歸仁。
天下は愛に帰しました。」
改革の精神の表明を一歩進めている:「
至誠動天
至誠は天に通じ、
福我万姓
天帝よ、私の人民をお守りあれ。」
この段落にそのような文があることです:「
道在觀政,
道は観政に在り
名非從欲
名声は自分の従欲ではありません
銘心絶巖
私の心を絶壁に刻し
播告羣嶽
全山全国に播告します。」つまり、皇帝として、人は政務に勤勉であり、天下をうまく統治し、国を豊かにし、人々を強くし、単に、仙道と仙術を得ることを考えず、長生きするになることも考えてはいけません。後世が覚えるのが難しいのを恐れて、後世に訴えるために崖に刻まなければならない。玄宗皇帝の開元年間における実際的な特徴を体現している。
「彌高」の刻字は、いよいよ高く、いっそう高く、ますます高くの意味です。「論語」:子罕第九にきぜんとして嘆じて曰く、これを仰げばいよいよ高く、と読みます。顔淵が尊敬する先生の孔子を見て、自分の最高が及ばないのを嘆いた一節です。
「天地同攸」刻字は高さ210cm、幅70cmで、字径45cmの楷書です。天地は永久である。
今、崖の上に沢山の彫刻された石がある。ほら、此処に趙明誠の彫刻された石や、他の題名された刻石があります。趙明誠は北宋時期の著名な詞人李清照の夫、歴史上には著名な金石学家であります。
山の気候は気まぐれて、また、泰山は古代から曇りで霧が多く、青雲洞と白雲洞があり、泰山風景には雲海玉盤があり、雲の霧が漂うことが多いため、一般的な霧は中天に支えられており、頂上は雲の上に立っているので、「雲峰」と言います。今私達が見ている「雲峰」という文字は清の康熙帝の勅筆によって書かれており、康熙帝の「雲峰」の下にあるには乾隆皇帝の『夜宿岱頂詩刻ニ首』の御詩で、乾隆十三年(1748年)に刻まれたものです。
皆さん、唐の玄宗李隆基の封禅は遠い昔のことですが、しかし、ここに立って私達が感じているのは、正に唐の烈々しい雄風ではないでしょうか。
大観峰は古代人により刻石として書き記したものが数多くある。気勢が高く堂々としてひろく、景色が壮観であることから名付けられた。此処は唐、宋、清三代の封禅祭祀の題刻遺跡が保存されています。東は宋の磨崖、中間は唐の磨崖、西は清の磨崖。孔子様は東山に登って魯国が小さいと感じ、泰山に登って天下が非常に小さいと感じました。


乾隆皇帝は1748年の御詩刻『夜宿岱頂詩刻二首』

雲峯(一)

攀躋凌嶽頂,僕役亦已勞。
苦難を乗り越え泰山山頂に登り、私は既に働き過ぎて疲労しました。
行宫恰數宇,旧筑山之坳。
私の仮の御所は数間あり、以前に山間の窪地に建てました。
迥為天為嶺,滃然雲作巢。
この峰は既に高くなって天に近く,雲の湧き出る中に住んでいるようです。
依欄俯岱松,凴窓眄齋郊。
欄干に依って松林を見降ろし、窓に臨めば声の国の原野を眺望することが出来ます。
于焉此休息,意外得所遭。
此処で休息することが出来、意外にもこのような美しい景色に遭いました。
恭誦對月詩,排徊惜清宵。
恭しく月詩を誦えんで、清らかな月を惜しんで俳徊します。

雲峯(そのニ)

傍晚雲霧收,近宵星斗朗。
夕方雲霧は収まり、星斗の宵は近くして朗らかである。
天籟下生竽,松花入帷幌。
天籟は笙の音のように下り、松花は帷幌に入る。
神心相妙達,今古一俯仰。
神心は相よく達し、古今仰ぎ敬う。
始遇有宿緣,初地愜真賞。
遇うに始まり宿縁あり、初めてこの地に来て本当に心が満ち足りた気持ちになった。
清梦不可得,求仙果痴想。
清夢を得ざれば、仙果は痴心(一心に想う)に求む

「泰山」登りの目的に日の出を見ることがなくてはなりません。頂上の南東部の「日観峰」という場所が最も相応しいところです。その北のほうに大きな岩が崖より突き出ておりますが、「拱北石」とも「探海石」とも呼ばれる岩です。夜明けにそこから東のほうを眺めると、丸い筈の太陽が最初は細い線のようで、絶えず赤く、黄色く変化しながら、膨れ上がり、時には流れていく雲に光が遮られてはまた射し出しながら、徐々に昇ってきますが、しばらくすると赤く染まった雲の下からいきなり弓状のものが現れ、あっという間に半円形になって、上昇の速度を早め、遂に一瞬の間に火玉のように水平線を飛び出し、光を四方に放ち出します。これが泰山の「旭日東昇」です。そのほか、「玉皇頂」も日の出を見るのに良い所として知られています。そこから昼間は玉の帯とも例えたい黄河が眺められ、晩はまた色彩の変化に富む夕焼けが楽しめます。標高1524メートルの「玉皇頂」は泰山の最も高いところです。


丈人峰(義父の峰)

皆さん、私達が今ここにいるのは丈人峰です。中国では、多くの人が義父が老泰山と呼ばれていることを知っています。なぜですか?紀元725年、唐の玄宗が泰山に於いて天地の祭り(封禅の儀)を取り行った時、玄宗はその祭りの封禅使(総責任者)に宰相の張説を任命しました。封禅使は一時的な正式な称号ですが、非常に権力がある。つまり、封禅儀式(イベント)の「入場券」は彼の手にある。張説はより注意深く、彼の努力のおかげで、封禅儀式の活動が大成功を収めました。封禅儀式が終わった後、古い法律によれば、皇帝の偉大な恵みを反映するために、3品以下の官員は一階級を昇進することができます。当時、張説の義理の息子である鄭鎰は元々九品の官吏であり、条例により8品の官吏に昇進することになった。そうしたら張説がその役に就任した途端、彼は娘婿である鄭鎰を昇進させるこの好機を逃すことはなく、張説の娘婿である鄭鎰の役職階級が九品官から五品官に四階級も特進させた。そして緋服も与えました。ある宴席上、鄭鎰の制服の色が突然変わっている(階級によって違う色の官服を着用する)のを不思議に思った玄宗が、ことの経緯を質問したところ、鄭鎰はしどろもどろに上手く答えられませんでした。そこで、宮廷音楽芸人の黄旛綽が機転を生かして「これは泰山の力のなせるワザです」と答えたという故事があります。岳父という言葉はこの故事に基づくもので、岳父の「岳」は泰山のことを指しています。黄旛綽は「泰山」の名を挙げることで、霊山の持つ霊験新かな力と、その地の祭司を取り仕切った義理の父張説を掛けている訳です。此処の泰山は、一つが封禅の事、一つが義理の父とのことである。これから義理の父親は泰山と呼ばれています。