
泰安市泰山は山東省中部に位置しています。北は済南に依り、南は孔子の故里曲阜と隣合わせています、西に黄河があります。泰安は温暖大陸性半湿潤季節風気候区に属し、四季がはっきりしていて、過ごしやすく、自然の景観と人文的な景観が溶け合って一体となり、東方歴史文化の宝庫の称があり、中国五千年の文化の縮図であり、中華民族の偉大な精神の象徴です。1987年ユネスコ自然遺産と人文遺産の二つの世界遺産に登録された。春秋戦国時代から泰山では斉魯文化が繁栄してきました。秦の始皇帝が即位の時、此処で封禅の儀式を行ったのをきっかけに、漢武帝、光武帝、唐の高宗、玄宗、北宋の真宗、清の康熙、乾隆等12名の帝王が神霊を祭り、国家安泰を祈ったので、全国有名になりました。さて「泰山」がこれほど名だたる山になったのはなぜなのか、見所に何があるのか、これからご案内いたしたいと思います。
泰山は最初は「岱山」と言いました。中国五岳の一つで、中国東部に位置しているので、「東岳」とも呼ばれています。山東省中部にあるこの山は延々と済南、泰安、歴城、長清などの市、県に跨り、主峰は泰安城の北にあります。総面積は462平方キロで、標高1524メートル、「華山」、「恒山」に次いで、五岳で3番目に高い山ですまた、昔から、東を「万物交替、初春発生」の地とする信仰がありまして、東岳泰山は「五岳の長」「五岳独尊」と讃えられてきたわけです。古代の封建帝王は即位後よく此処へ参拝にやってきて、「封禅の礼」や天地を祭祀する行事を盛大に行っていました。中国各時代の詩人や文学者達も此処で美文を残しました。その中に李白、杜甫の泰山絶唱が有名です。泰山磨崖刻石は2200余箇所あり、その規模の大きさ、傑作の多さ、歴史の長さ、書体の完成度において、国内外に並ぶものはありません。書道博物館とも言えるでしょう。
泰山は中国の山岳公園の一つであり、天然の歴史、芸術博物館でもある。泰山の中軸線上だけでも、現在各種の刻石が1800余箇所もある。有名なものとして、世にも稀なる珍宝「泰山秦刻石」、大字の鼻祖「経石金剛経」、千古の謎である「無字碑」、金色に輝く唐磨崖の碑刻「記泰山銘」等がある。歴代の皇帝と文人墨客はたいてい泰山に登ったことがあり、多くの貴重な文化遺産を残した。泰山の名所は竜潭ダム、中天門、五大夫松、十八盤、南天門、碧霞祠、日観峰、月観峰などがある。日の出、金ノ帯のように見える黄河、夕映え、雲海は岱頂の四大奇観であり、ほかの景色も大変美しい。
泰山の観光区域は麓、東登山路、頂上、山裏と西登山路の五つからなり、東登山路も西登山路も中天門で一本に合流して頂きに至りますけれども、距離は9キロ、階段6293にも及んでいます。途中には「柏洞」「中天門」「雲歩橋」「望人松」「対松山」「仙人橋」「日観峰」「月観峰」等の名所景観があるほか、旧跡として「王母池」「紅門宮」「斗母宮」「普照寺」「回馬嶺」「五松亭」「南天門」「碧霞祠」と歴代の石刻があります。

泰山登山道は「岱廟」の北に位置する「岱宗坊」から始まるわけですが、しばらく行くと「王母池」までやって来ます。泰山南麓の避暑地として有名な「王母池」はいつ造られたか未だ調べようがないのですが、李白の詩に「朝王母池に飲み、暝る時は天門闕に投じる」というのがあることから唐代から既にあったことが分かります。現存の建物は明清のものが多く、前後二つの庭に分かれていますが、正門の裏側に「王母池」が造られ、その西側にある「王母泉」から清らかな泉が湧き出ています。母やには「西王母」が祭られ、裏庭の「七真殿」では、「海を渡る八仙人」の神話で有名な「呂洞賓」ら七真人が祭られていました。
もう少し前へ進むと登山用の石階段が見られ、本格的な登山に入ります。この逆凹形の建築が紅門宮である。紅門宮の南麓は大蔵嶺に二つの赤い巨岩があり、形が二つの扉のような巨岩があり、これが泰山で有名な地質的な見所であることによる。この道の途中には地質的な景観が多く、我々は泰山の雄大で深い歴史文化と優美壮麗な自然景観と同時に、泰山に世界の地質の公園としての独特な魅力を感受させることができる。
皆さん、我々の面前の登山道を跨ぐように建っているこの楼閣は「飛雲閣」であり、建物の下の門洞に上には「紅門」二文字がある。飛雲閣の西側には、紅門宮建築の説明があり、上記に最初の文章は我々が次に続く泰山の説明板によく見られる「創建年代は不明」である。歴代が長いために古建築の始めて建てられた年代は既に考証できないが、現存のものの、絶対多数は明清両時代に修復、再建されたもので、紅門宮も当然例外ではなく、紅門宮の建築は大変巧妙である。それは飛雲閣を中心として凹形の空間を形成し、宮前の三つの石坊(鳥居)と碑碣は、一組の高低入り乱れ、色彩が鮮明で、配置の緊密な古建築を構成している。この建築は東西二棟に分かれ、東棟は仏門、西棟は道教寺院で、両棟は結合していて、仏教道教が併合し、中間には高く「飛雲閣」を築き、それらは、繋ぎ連結している。
飛雲閣の西側は碧霞元君廟である。廟前には清の康熙年間の石坊があり、上には「紅門宮」、下には「瞻岩初歩(岩の見始め)」の四文字がある。紅門宮は元々道教の建築で、碧霞元君の神像を祀っていた。紅門宮の東の弥勒院にはいつもにこやかに笑い、大きなお腹の弥勒菩薩「布袋様」を祀り、東院の南庇に祀っているのは九連菩薩(観音の一)である。明の万暦帝は彼の母親を九連菩薩の加護に封じるために、泰山に現存する最大の銅像を鋳造した。そのために紅門宮は仏教と道教が仲よく共存する場所となっている。東西の院は飛雲閣により連なり、その建物を跨いで通過することができて、この仏教と道教が共存する一連の建築群を習慣で「紅門宮」と総称している。紅門宮から上に登ると更に多くの仏教、道教が共存する建築があり、その表現する所は「寛容」という文化の神髄である。
「紅門宮」から上に仏教、道教一体の建築が沢山あります。この「寛容博大」の文化神髄が呈し、即ち:「泰山は何と雄大なのか、万物全てを包容する。泰山は何と寛大なのか、万象全て帰納する。泰山は何と尊く厳しいのか、万物全て包含する。一切の宇宙の事象は、皆このように儒釈道である」と此処泰山に見ることができる。
前に「一天門」「孔子登臨処」「天階」と題する三つの石坊が建てられています。登山道はアーチ型の孔を潜って行くわけですが、振り返れば、もう泰安城を鳥瞰できるほどの高さまで来たことに気が付かれるでしょう。毎朝、日が昇ってくると同時に山の半分ぐらいが赤く染まり、実に景色が素晴らしい所です。「紅門曉日」という名で呼ばれています。
次は道教の寺院だった「万仙楼」です。建物の外側には明代の石刻が六十枚も嵌め込まれ、北のほうは「桃花谷」というさくらんぼや笹の生える所で、東のほうでは渓流が音を立てて流れる中を木々の緑が揺れ動いています。そよ風が優しく吹く夜など、清流に冴えた月が映ったりするとなお情緒たっぷりの景色になります。「仙楼月夜」と呼ばれているそうです。
「万仙楼」より北の山道の岩壁に風と月の字の囲いを取ったものが刻み込まれています。どんな意味か当てて見てください。清代の済南の名人劉氏が刻んだのですが、「風」「月」の二字の芯を「囲い」から出して、此処の景色は限りなく美しいという意味の表現だそうです。「斗母宮」は元々女性道士のために建てたものです。門外には明代の槐樹が植えられています。幹が地面に伏すように生え、伏している龍のような形をしているので「臥龍槐」と言われています。境内東側の「聴山泉房」からは「三潭畳瀑」という滝が眺められ、雷のような音が耳に入ります。「斗母宮」から東へ1キロほど足を運ぶと、『金剛般若波羅蜜経』が刻まれた経石峪(谷)になります。50センチ四方の字で、1043字ほど残っています。北斉時代の作品らしく、歴代にわたって、「大字の鼻祖」「榜書ノ宗」と尊ばれています。

経石峪
泰山の美しさは石の彫刻にあり、泰山には2,500を超える石の彫刻があり、海に散らばった巨大なシステムから、3つの言葉と2つの言葉の驚くべき言葉まで多岐にわたります。今、私の後には、中天門の下で最も有名な古典の一つがあります。
ご覧の通り、二つの山頂の間の谷底には、古くて有名な『金剛経』が刻まれた滑らかな石の広い領域があります。経石峪『金剛経』は中国最大の現存する仏教の磨崖石刻です。経文は、2000平方メートル以上の緩やかな斜面の石の床に刻まれています。東から西に、仏教の『金剛般若波羅蜜経』が刻まれており、合計44行、25語または10語,合計2799語です。単語の直径は50cmです。石刻は千年以上の風雨によって侵食されており、まだ41行、1069語が残っています。
西暦401年、西域高僧鳩摩羅什が中国に到着してから地元に暮らすことにした。それから、413年で円寂する(亡くす)ようになった。この間(十二年間)では彼は中国語で訳した74部の総合384巻お経があり、それらの中に広く世の中に流通するのは『金剛般若波羅蜜経』今にも現存する年代が古い『金剛般若波羅蜜経』は868年に敦煌蔵経楼に収蔵した物である。1900年に海外に流失した。目前はイギリス博物館に保存した。西暦六世紀の経石峪に刻んだ『金剛般若波羅蜜経』よりも三百年ぐらいに遅いのだ。
その著作について、専門家は異なる意見を持ち、一部の人々は彼らが晋朝の王羲之の一人であると信じ、より多くの人々は四大高僧の一人安道義に焦点を当てました。泰安東平の洪頂山、二洪山の磨崖石刻は、書道や結び目の両方で目の前の刻石と非常に類似しています。だから、専門家はこれは同じ人の手であるべきだと考えています。
皆さんがご覧のように、経石峪の30行目から双鉤字(籠字)が出現し始めて、明らかにこの経文の刻字が完成していない。専門家はこれには重大な事件の発生がその刻字に影響していると考えている。紀元4〜6世紀には、北魏の太武帝、北周の武帝など4度の大きな廃仏運動があり、経石峪の鐫刻を停止した。また学者は、当時の斉魯の地は北斉の領土に属していたので、北斉の滅亡がやはり本当の鐫刻中止の原因であると指摘しているようです
経石峪の磨崖石刻は筆法が跳躍し、点画は厳重で、骨力勇健で筆鋒鋭利である。字体は隷書を主体とし、変化に富み、あるものは急激なことが迸るようで、あるものは緩やかで流水がさらさらと湧き出るようであり、曲線と直線にめりはりがあリ、ある種民俗音楽の旋律の美しさが流れ出ている。書家は全く楷、草、小篆に束縛されない各種の風格の神髄をその中に融合し、我々に民俗文化の宝典(貴重な書)の大作を残している。
経石峪の石刻は、「世界一」と呼べるほどの構造と規模を誇っています。泰山はなんとなくでも、碧霞元君祠もなく、南天門もないが、経石峪があるだけだが、やはり来て見るだけの価値はある。
経石峪の美しさは周囲の環境と調和しています。周囲にはまだ多くの刻石があり、特に明隆慶六年明人が題した「高山流水(高い山の流れる水)」があり、神来の筆と呼ばれています。経石峪が高山流水の詩文になります。詩や絵画に満ちていること。経石峪は高山流水とように万年流伝と意味します。

「斗母宮」から更に上に登って行きますと、柏の木が高く聳え、日差しを遮ってくれます。木陰を歩くとさながらトンネルの中にいるような感じで、岩に刻まれた「柏洞」がそれを最も真に迫って表現しています。真夏に登山に来た人には有難いものですね。地勢がそこを登る人に急須の中にいるような感じをさせる三面が山、一面柏の「壷天閣」を過ぎると道が険しくなる「回馬嶺」にやって来ます。唐代の玄宗皇帝が馬で此処まで来たが、前へは進めず、登山の籠に乗り換えざるを得なかったことに由来するそうです。日本風に言うと「馬返し」ですね。
乾隆題回馬嶺詩碑


中天門
中天門に登ると、最初に見たのは小さな広場でした。広場の中央には石坊があり、経石峪の大字が一体化した「中天門」の三つの大きな文字が入っています。石坊は古風でシンプルで、周囲の風景と調和しています。広場の周りには多くの建物があり、北の石段の上には三つの寺院があり、元々は二虎廟で、現在は財神廟と呼ばれ、残りは観光客が休息できる新しく改装されたサービス施設です。中天門は黄峴岭に位置し、「黄峴岭は土の色は黄と赤で、他の場所とは異なる土壌色」で名付けられ、地形は険峻であり、泰山主峰の自然な障壁であるだけでもなく、また、泰山の西、中の二つの小川の流域でもあります。中天門からは山を見下ろすと、群峰の低頭と白い雲が見えます。登山は此処迄で「中天」に過ぎませんが、空が広く感じ、疲れが一掃されます。

南天門
泰山の主題(テーマ)の境地は突出した一文字で、それは「天」であり、古語に「天高は泰山に及ばず」と言い、泰山は天の頂点とされており、誰もが泰山の地図上の、景色の命名には「天」字を多用している。古代人は、九は陽数の最たるもので、官に九品(九段階)、人に九等級、天に九重(層)があり、そこで九霄雲外(世界外)の言い方がある。道教では「道は一を生じ、一はニを生じ、ニは三を生じ、三はあらゆるものを創り出す」と説いたので、三重の天毎に門があり、第一の三重天は一天門と言い、第二の三重天の門は二天門、または中天門と言い、第三の三重天は三天門と言うが、つまりこれが皆さんの前に展開する南天門である。この南天門の建築は上下二層に分かれ、下層は門口(かどぐち)であり、歩行者が出入りし、石ブロックを切り出して、弓型の石のブロックでアーチを作るが、東西の長さ9.7米、南北6.3米、高さ4.7米、洞門の幅は3.7米、高さ3.3米で、門の上方には鐳金(中国式鍍金)の題字「南天門」三文字があり、両側に一対の対聯がある:
門辟九霄仰步三天勝跡,
階崇万級俯臨千嶂奇観。
この対聯は「南天門は泰山の頂上に建てられており、天空の国のような感覚を味わうことができる。そこから見下ろすと、長い石段と、遠くの山々のほか幾つもの丘が鮮やかに見える」の意味であります。
上層には摩空閣があり、天空の城を思わせる空中楼閣がある意味であります。
南天門は翔鳳嶺と飛龍岩の間にあり、両側に万丈の岸壁があり、下には「天門雲梯(天国への雲の梯子)と呼ばれる十八盤がある。古人は「地を抜くこと五千尺、霄着く十八盤(地上五千尺、天上に突進する十八坂)」と称賛した。登攀の困難は思想通りである。それでは、南天門は誰が建てたのであろうか。またどのようの建設されたのであろうか。
南天門は元の中統5年に建てられ、建造者はある道教の道長である。張志純は、彼は数十年をかけて、泰山の道教寺院を二十ヶ所余りを改修した。その中で最も大きく史書に名立たるのが、南天門である。元の中統3年、彼は東岳提点監修官兼東平路道教提点(提点=会計)の職を授けられた。東平路管厳忠範の要請で、南天門の建設監修となった。南天門の地勢は険峻で、全く登れない高さで、此処に南天門を建てることの、難度の大変さは推して知るべきである。張志純の努力の元に、南天門は「之に経構を為り、累歳にして乃ち成(此処に営造して長年でようやく完成)」して、建造は成功し、泰山のランドマーク的な建築となった。


碧霞祠
大殿前の下には雍正皇帝が御賜した「福綏海宇(福は海と空を纏う)」扁額があり、また乾隆黄帝の「賛化東皇(東方神を称賛する)」などの扁額がある。大殿の中央に供養されているのは即ち聖母碧霞元君であり、宋朝の真宗皇帝が廟宇を建立して以来、千年も焼香献灯が絶えず、毎年多くの焼香客が千里の距離も構わず、聖母の面前に香を焚くためにやってきたので、明時代には朝廷は此処で香火税の徴収を開始し、国家の財政に充てた。当時の資料にはこのような「泰城(泰安)」周辺の人民は泰山お婆ちゃんは知っていても、泰山があることは知らない」の一言が書いてあり、その影響力の大きさが窺える。殿内の真中には碧霞元君を供養している。道教の言い方では、女性の仙道を得たものを元君と称し、また玉女は碧い衣に紅の裳裾を着けたので、碧霞元君と言う名を得ている。この鍍金の銅像は、乾隆年間に鋳造され、現在でも保存が完全で、祠で道観を鎮護する重宝である。碧霞祠は規模が広大で、配置が完全な古宮観の建築群で、その配置は周密で、区区の殿堂は趣きがあり、風格は独特で、中国の高山の古代建築では尊大で、建築学界の高い称賛を受けている。


大観峰


泰山に来て封禅(天に皇帝の即位を報告する儀式)を行った時、知事賀知章は、これまでの玉碟文書は全て天帝が見るためのものであり、これは皇帝が泰山を封禅し、仙人になることを目指したが、長生不老を目指したが、全て皇帝個人の私的な願望で、これを一般に公にすることはできないと答えた。玄宗皇帝は賀知章に、私が泰山を封禅するのは天下の民衆のために吉祥を祈念するためであり、民衆の為に吉祥を祈り、秘かに要求はないと訴えた。そこで、開元13年、西暦13年、西暦725年に、玄宗皇帝は泰山で封禅の儀式を挙行し、封禅儀式が終了ししてから、玄宗皇帝は人に命じて彼の天が封じた(封禅)玉冊を大声で朗読し、大衆に公開する先例を開創した。


雲峯(一)
雲峯(そのニ)




丈人峰(義父の峰)
皆さん、私達が今ここにいるのは丈人峰です。中国では、多くの人が義父が老泰山と呼ばれていることを知っています。なぜですか?紀元725年、唐の玄宗が泰山に於いて天地の祭り(封禅の儀)を取り行った時、玄宗はその祭りの封禅使(総責任者)に宰相の張説を任命しました。封禅使は一時的な正式な称号ですが、非常に権力がある。つまり、封禅儀式(イベント)の「入場券」は彼の手にある。張説はより注意深く、彼の努力のおかげで、封禅儀式の活動が大成功を収めました。封禅儀式が終わった後、古い法律によれば、皇帝の偉大な恵みを反映するために、3品以下の官員は一階級を昇進することができます。当時、張説の義理の息子である鄭鎰は元々九品の官吏であり、条例により8品の官吏に昇進することになった。そうしたら張説がその役に就任した途端、彼は娘婿である鄭鎰を昇進させるこの好機を逃すことはなく、張説の娘婿である鄭鎰の役職階級が九品官から五品官に四階級も特進させた。そして緋服も与えました。ある宴席上、鄭鎰の制服の色が突然変わっている(階級によって違う色の官服を着用する)のを不思議に思った玄宗が、ことの経緯を質問したところ、鄭鎰はしどろもどろに上手く答えられませんでした。そこで、宮廷音楽芸人の黄旛綽が機転を生かして「これは泰山の力のなせるワザです」と答えたという故事があります。岳父という言葉はこの故事に基づくもので、岳父の「岳」は泰山のことを指しています。黄旛綽は「泰山」の名を挙げることで、霊山の持つ霊験新かな力と、その地の祭司を取り仕切った義理の父張説を掛けている訳です。此処の泰山は、一つが封禅の事、一つが義理の父とのことである。これから義理の父親は泰山と呼ばれています。
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