山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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膠東半島の八神の遺跡に中国の海上神話の源流を見る


膠東半島先史遺跡図

一、蓬莱神話の起源

中国古代神話は二大分流に分けられ、一つは崑崙系の神話で、つまり西王母の伝説である。もう一つは蓬莱系の神話で、また海上三神山の伝説である。この蓬莱は、単に今日の行楽観光地の蓬莱を指すだけでなく、海上の三神山の名称に代わる。三神山の伝説は東周に即ち流行が始まり、『荘子』、『列子』、『山海経』などの先秦(戦国時代以前)の歴史書に大変多くの記載がある。伝説には渤海に蓬莱、瀛州、方丈の三つの神山があり、山上には逍遥自在の神仙が住み、人に長生不老をさせることのできる仙草がある。古代の渤海の範囲は今日の渤海よりも大きく、黄海北部の一部を包括し、膠東半島はこの海域の主要部分であった。東周時代には、ここは斉国の東方海域で、歴史書では、神山の情況を伝えた方士(神仙修行者)盧生、徐福などは「燕斉海上方士」と呼ばれ、三神山神話の分布域はまさに燕国、斉国の沿岸地域であると見るべきである。

蓬莱神話は海洋環境と海洋生活活動を反映している。三神山の出没は常ではなく、飄々としていて不安定で、車馬やかまどの煙が立ち上がっていても、近寄れば消え失わせてしまう。これは明らかに黄海と渤海でよく見られる海上蜃気楼の現象とわかる。『史記』中には徐福、秦始皇帝と大鮫の闘争を記述しているのは、明らかに漁民の海上での大冒険の反映である。


徐福の東方冒険は民間に流布する後代に歴史的物語で、近年は学術界に広く注目される話題となっている。徐福はこのような方士を、どうして「五穀、多くの職人、少年少女」と共に海外に向かわせたのか、これは目先の利く人が、ある人が予々(かねがね)企んだ海外移民活動を理解したものである。長年、人々は徐福の物語を一つの奇妙な伝説を見做していた。しかし近年のますますの考古学の研究でこの物語はもはや奇妙ではなくなった。この中には中国山東省臨淄の東周墓地出土人骨と日本北九州の弥生人骨の比較研究がある。まだ、先史時代の中国水稲の朝鮮半島、日本列島への伝播に関する煙台博物館の研究もある。これらの研究の結果はいずれも古代中国の東方と海外に多くの文化が伝播していたことを示している。だから、徐福の東渡は嘘ではない。


このため、徐福の東方冒険は、架空や嘘と見ることはできない。斉地方の八神は『史記』の表記である。この八神の分別は、天主神は臨淄、地主神は泰山(山麓の)梁父、兵主神(武神)は東平(暘谷)の蚩尤塚、四時主(四季)神は瑯琊、日主神(太陽神)は栄成成山(一説は日本)、月主神は莱山(龍口に位置する)、陰主神は莱州三山、陽主神は芝罘山のそれぞれ神である。天主神、地主神、兵主神の3神を除いて、その他の5神は膠東半島を廻り海岸にある。


秦の始皇帝は東巡は、名義では八主神を祭祀祭礼であったが、実際には主に仙人と仙薬を求めることであった。『史記』では大量の篇幅で秦始皇帝が瑯琊、成山、芝罘などの地で神を祭祀し仙術を求めた活動をしている。明らかに、海の辺の神を司る山とこれら海岸の神霊は密接に関係している。三神山は茫漠として掴みどころがないが、瑯琊山、成山、芝罘山、莱山、三山の八主神の場所は海岸に実在している。そのため、我々は今日蓬莱神話を研究すると、膠東半島の八主神の遺跡は我々に一本の入り口を開いてくれた。

八主神の陽主神は煙台芝罘山(島)にあり、男性の生殖器官の象徴;陰主神は三山島にあり、女性の生殖器官と象徴とした。渤海は女性の子宮の状のようになる。陽主神は芝罘山、西に女性生殖器官の象徴の渤海海峡に向けて、陰陽交合,勃起、妊娠、繁殖、興旺、豊饒,だから「勃」は人口増加の神聖のこと、勃は性崇拝の神聖要求。渤海は神聖の海、神海のものである。

二、八神の遺跡の考古に発見

長年、煙台市博物館は膠東半島の斉国八神の遺跡に考察と研究を進行し、重要な収穫があった。近年、国家計画により、中国国家博物館、山東大学と各地文化博物館部門は斉国の八神の遺跡に全面的調査、試掘(しくつ)、発掘、測量作図などの考古学的作業を進行し、豊富な成果を獲得した。以下は膠東半島の場所の遺跡の簡単な紹介である。

1、日主(太陽の司る)成山は、膠東半島(中国大陸)の最東端にあり、中国の中央(内地)は最東方の日の出の地とされ、『尚書』に、「日は暘谷に出で、鹹池(カンチ=塩の海)に浴ス」というのはここを指す。東、北、南三方は皆広々とした大海原である。通称はまた成山頭と称し、大地の尽きる先端の意味を指しているのかもしれない。成山は一群が取集まった小さな丘で(一つ説は海上での石島山は日主神の宿る山である)、海抜は百メートルに過ぎない。ここの祭祀遺跡は大変分散して、分布範囲は各遺跡の中で最も広く、南馬台、酒楼島、灯台地、三山中峰の4ヶ所で、それぞれ数百メートルの距離である。南馬台遺跡の範囲は最大で、1970年代に農民が地ならしをしていた時たまたま発見した面積の漢代のレンガ敷きの地面を発見した。我々は発掘中に大量の建築レンガを発見したほか、2ヶ所の排水管を発見した。三山中峰は位置が最も高く、明代の烽火台の基盤跡で、現在は軍用レーダーの場所である。明代から現代に至るまで、何度もの大型工事で山頂を何度もひっくり返し、大量の漢代のレンガは全て外に露出しており、一点の文字瓦をここで発見し、これは半島の祭神遺跡中唯一の文字のある瓦当(軒先瓦)である。その中で最も多いのは敷きレンガであり、その占有比例はその他のどの遺跡を大変超えている。登山階段がここの主要建築の部分と見ることができ、1986年にまた破壊されていないレンガ敷きの階段を発見したが、おそらく山頂は面積の大きくない祭祀台である。『越絶書』には越が呉を亡し、瑯琊に北上し「観台に立ち、以て東海を望む」と記すが、この種の大海(原)を望んで祭祀するのは、あるいは成山観であるだろう。

(威海市石島山脈)
月主神は龍口市莱山にある。莱山の北側は莱国の都城帰城に密着している。『漢書・郊祀志』中には中国五大名山の一つとして列せられ(れっする)、場所が崇め(あがめる)られていると見られる。ここの祭祀遺跡は2ヶ所ある。一ヶ所は莱山中腹にあり、地名は廟礓(ビョウキョウ)という。ここは東南に向かって主峰莱山山頂に面している。ここは祭祀の方面から言うと、最も合理的な位置にある。ここではレンガと石敷きで出来た建築地面と大量の東周から唐代に至る建築の瓦を発掘している。もう一ヶ所は莱山の西北の麓にあり、現在も依然として高さのある版築「夯土(こうど)」の建築基礎が保存されている。基礎の面積はもとは約50メートル四方で、膠東半島の祭祀遺跡中で、これは最も広大な一ヶ所である。ここは筒瓦、板瓦、瓦当、敷きレンガ、階段レンガが出土し、種類も揃い、製作も優れている。版築台基の傍らに、我々はまた一基の陶窯(かま)を発掘し、内部から出土したのは版築建築で使用されているレンガで、当時このような建築工事で使用されたレンガは、すべてその場で焼かれていたと見られる。莱山のレンガは質量とも最高で、ここの土質、技術は皆優勢であった。

成山頭一帯は土地が痩せていて、大部分の瓦は比較的粗末である。莱山夯土台出土の瓦当は数量が多く、図案の種類も大変豊富である。その中に戦国時期の直径60センチメートルの多重雲紋の大型瓦当があり、この大瓦は全国から言っても多くは見られないものである。この種の瓦当は棟瓦の両端にあり、当然軒瓦の瓦当に比べて大きく、これは多くの漢代の画像資料中に見ることができる。ただし莱山の瓦当の大きさは常軌(じょうき)を逸らし(そらす)ていて、建築の広大な規模は、これは明らかに秦漢の帝王に関係のあることは明らかに見るべきである。史書に記された秦の始皇帝や、漢の武帝は皆数回膠東半島に出かけ神を祭祀し仙道を求めたが、この二人の人物の大きな功績は歴史上もその前には古人には見られず後に続く人も見れらない。月を祭る莱山にもきっと彼らが来たに違いなく、重要な御駕を留めた場所でもある。

(芝罘山)
陽主神を宿る山は煙台市北部の芝罘山(島)にある。島には現在一棟の陽主廟を保存し、部隊はそこに駐在している。1967年に部隊は廟内で工事を行い、8点の玉器、各々璧1、圭1、觽2の、2組を掘り出した。これは半島出土の規格で最高の玉器で、秦代の作風の特徴を具有し、研究で秦の始皇帝が陽主神を祭祀に残して埋蔵した玉と認められている。出土地点は島の康王(斉王)墳と呼ばれる山の麓にあり、これは当然に正確な祭神の場所であり、陽主神祭祀の具体的な位置の確定に対して、重要な作用を具有している。芝罘島も序列の高い漢代の建築遺跡で、玉器の出土した地点の東南方向1キロメートルの山麓の海浜にあり、芝罘島の主峰老爺山を背にして、天然の良港芝罘湾に向かう。ここは現在芝罘大疃村の跡であり、漢代の建築は全て破壊され、模様のある敷きレンガ、瓦当などの建築遺構が残り、これが普通の民間建築ではないことを証明している。ただし建築数量は大変少なく、建築規模はそれほど大きくないと推測され、陽主で事物を祭祀する役所の類であるのかもしれない。

(莱州三山島は陰主神を宿る山)

(三山島の山頂)

半島の八主神と海上の三神山

半島からこの八神の遺跡を見ると、これらの場所は皆な山である。月主神の莱山は最も高く、海抜960メートル、膠東半島第三の高峰で、また山容は雄渾であり、人が眺めて畏怖を感じ、確実に神を祭るのに理想の地である。そのほかの太陽神の栄成成山、陰主神の莱州三山、陽主神の煙台芝罘山は皆人が驚くほどでもない小山である。ただし大小に限らず、神があるので名付けられた。秦の始皇帝と漢の武帝は東巡して、掲げた旗印は「礼(うやうやし)く名山大川を祠(まつ)る」で、ただ神が居れば山は小さくとも名山であった。八神の遺跡は多く海岸にあり、それらの神は大海(原)との関連が肯定される。『史記』の八神の名は、天、地、日、月、陰、陽で、厳格に順序があり、どこに古代の王国が林立し政治をした現象があるのか。これは明らかに統一条件の下の入念な編成の産物である。中国国家博物館の王睿博士は、斉国八神は統一された命名で、当然膠東半島を統一したのは戦国時期の斉国である(一説は八神は先史の文明である、3000年前の蒙昧時代の中華先住民の信仰思想、先史岩画文明の時代の産物である)。

半島の祭神遺跡の後期の変遷

以上になされた考古学的調査と祭神遺跡の発掘から見れば、これらの祭神地点と八神の祭祀の関連建築の継続時間は長くはなかった。資料の比較的まっとうな月主神の莱山遺跡と日主神の成山遺跡から見れば、最も早く建築されたのは戦国時期で、典型的な文化財は少々の薄くて、小さく、稚拙(ちせつ)な作の半瓦当や、板瓦などである。秦が東方を統治した時間は長くなく、ただし製作はやや雑な多重の模様の瓦当が突然増加した。秦代にここで多くの活動があり、秦の始皇帝が頻繁に東巡して不死の仙道(薬)を求めた可能性のあったことを物語る。前漢時代には瓦が最も多く、製作は精良で、品種も多く、多種の模様が芸術の逸品(いっぴん)と称される。これは全遺跡の全盛期であった。その後各遺跡は共に凋落状態となった。『漢書』の記載によれば、前漢後期成帝の時、国力が不足したため、朝廷は一部分の神祠に経費を提供し無くなった。概ねこれが半島の神祠が凋落した主な原因である(前漢から独尊儒術、後漢から仏教伝来は要因になる)。日主神成山最大の南台遺跡では少々宋代の遺物が発見されたが、祭祀とは関連がなかった。廟の建築は近くの中峰の山腹に映された)。

月主神の莱山の神祠は最も長い時間使用された。遺物から見ると、前漢、北朝、唐朝に至るまで大変隆盛であった。これは一つの偶然な事件と関係がある。唐朝の太宗の時に高句麗に対して討伐戦争を発動し、大軍が莱山一帯に駐屯し、統帥の徐茂公は太宗の命令を奉じて莱山の神祠に参詣、少なからぬ寄贈をもたらした。この事件は当地での影響は大変大きく、徐茂公でさえも全く訳が分からないが月主神となされ、明代の月主神の神祠は夯土台(版築)遺跡から遠くない山の麓にあり、祭られている位碑(神位)に書いてあるのは「唐主勅封莱山延光寺月主真君徐勣之位」である。徐勣は名で、茂公は字名である。莱山廟の傍らの夯土台粛清された。(版築址は)いい加減に徐茂公墳と称される。膠東半島に祭祀された八神の神祠はもとは全て道教系統で、道観(道教建築)から仏教寺院に改めたのは、月主神の莱山は唯一の初唐の皇帝が崇仏抑道(仏教崇拝、道教抑圧)したので関係があるのかもしれない。

芝罘の陽主神祠(廟)は古い名を残しているようである。実際、この合理な名は記載がないが、『漢書』はかえって「芝罘山祠」と称し、更に古くはあるいはひょっとして陽主神祠と呼んだのかもしれない。この陽主廟を宿る神は陽主神であるのは当然だがで、この昔からの伝統は元代まで保留され、廟内には一基の元代の元佑元年(1086年)の碑記には「八神陽主廟記」と称している。しかし、この陽主神の役割は「人間の疫痢(流行病)を掌管する」に変わった。明代になってから、廟内の主祭神は「梁王大帝」と変わり、副祭は十殿閻羅(閻魔十王、十三仏)で、陽主廟はここに至って有名無実となった。
最大の変化は蓬莱神話事態である。その起源の海上の三神山伝説は本来長生不老を描写しており、自由で浪漫に満ちた不思議な仙境である。今日蓬莱神話に足るのは、人間が思い浮かべるのは八仙人の渡海の物語である。現在の八仙人には名も姓も、男女もあり、表現しているのは世俗は英雄を多いに歓迎し狹義には勧善懲悪(かんぜんちょうあく)であり、三神山の浪漫的な幻想は却って少ない。

史書八主神



成山頭(斗)入海
『史記・封禅書』の記載によると、紀元前219年に始皇帝は最初の東巡で泰山に登った後、海上を東遊し、祠、名山、大川と八神に拝礼した。(封禅書は)言う。「八神は古くよりしてこれ有り、あるいは太公以来これを作ると曰う。……八神とは:

「一に曰く天主(主=神)。天斉の淵水は、臨淄南效の山下に居る物なり。
ニに曰く地主、泰山梁父を誇る。蓋し天は陰を好み、これを必ず高山の下、小山の上に祠リ、命じて『畤(ジ=祭りの庭)』と曰く;地は陽を貴び之を必ず沢中の圜丘に祭ると云う。
三に曰く兵主、蚩尤に祠る。蚩尤は東平陸監郷、斉の西境に在る也。
四に曰く陰主(海水神)、莱州三山にる。
五に曰く陽主(雲の神)、芝罘に祠る。
六に曰く月主、之を莱山に祠る。
皆な斉北、并びに渤海に在り。
七に曰く日主、成山に祠る。成山頭は海に入り、最も斉の東北隅に居り、以て日の出を向かう。朝舞の地である。
八に曰く四時の主、瑯琊山に奉る。瑯琊は斉の東方に在り、蓋し歳の始まる所成り。」
斉の八主神は日本の『古事記」と関連があります。『古事記」の出処かも知れないことでしょうか。
蓬莱:中国の昔の伝説では、海中に三仙山あり、名を蓬莱、方丈、瀛州と言う。そこには仙人が住み、不老長寿の薬がある。だから中国は蓬莱という言葉に拘る。仙人が住む神山のことをイメージする。山東省のこの地は昔から良く蜃気楼が現れたので、蓬莱と呼ばれるようになる。史書には秦の始皇帝と漢の武帝が仙人と仙薬を探し求めて当所にやってきたとある。徐福が始皇帝の命令で仙薬を求めて船出したところであるとも伝える。漢の武帝が仙道を求める活動は始皇帝より熱心で、及ばないことはありませんでした。漢の武帝は23年の間、次々に8回の巡行をしましたが、殆ど毎回、蓬莱に到達しています。漢の元光二年(紀元前133年)、彼は最後の巡行で再び神山に行きたいと願ったがかなわず、ほかならぬ、この築起の小さな城を蓬莱と名付けました。これにより、実在の仙境「蓬莱」がこの世に実在するようになりました。

蓬莱は煙台の北西部約74Kmに位置しており、前漢の漢武帝が築城した町です。この地区の代表的な観光地は海岸線に位置する蓬莱閣景区です。
伝説上の「八仙過海」は、当地が本場。「八仙過海」という伝説は八人の仙人が共同の目標を持ちながら、それぞれの方法で海を渡った物語。八仙人(呂洞賓、鉄拐李、張果老、漢鐘離、曹国舅、何仙姑、藍采和、韓湘子)は蓬莱閣で酒を飲み、酔ったところで、各自の宝器により飄然と海を渡って行ったという。八仙は道教の仙人の中でも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人に受け入れられ、信仰は厚い。日本における「七福神」のような神様で、掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になる等様々な芸術的モチーフとなっている。