凶刃を捨てさえすれば、直ちに生仏する(善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや)
ある出家僧が、出家前には狩人で、ラッコを専門にとっていたと語っている。ある時、彼は出かけるとすぐ大きなラッコを捕まえた。貴重な毛皮を剥ぎ取り、息を引き取ってないラッコを草叢に隠しておいた。
夕方、狩人は元の場所に戻り、ラッコの姿は何処にもなかった。細かに見ると、ようやく草の上に血痕が少しづつ着いていて、真っ直ぐ付近の小さな洞穴まで続いていた。狩人は洞窟の中を目を凝らして探ると、このラッコは皮を剥がされた痛みに耐えながら、自分の巣にもがきながら帰っていたのに、驚かされた。どうしてこのようになったのであろうか。狩人はもはや気絶したラッコを引き出すと、まだ眼も開かない2頭の子供のラッコが、真で干からびた乳首にしっかりと吸い付いているのをようやく見つけた。この狩人はこの一幕を見て、彼は従来動物にこの種の人にも想像できない母子に人間の倫理の気持ちがあるあり、自分の子供飢えることを恐れて、死ぬまで自分の子供に授乳させたことで、心身に最大の感動を覚え、ここに到って、この狩人は心ならずも涙を流し、激しく泣き、身の置きようもなく慚愧したリそこで、彼は屠殺刀を捨て、二度と猟をやめ、出家修行に出た。
この既に出家した僧であるこの人が、此の往時を思い出すと、眼中に今でも涙が溢れてくる。飲食の最低の目的はお腹を満たす事、最高の目的はは口に合うようにすること、しかし、お腹にいれることと、口に合うようにすることでは何百万里もかけ離れている。しかし我々の味覚は、口から喉に到るまで10センチ㍍余りもなく、喉を過ぎれば、何ら感覚はないのである。我々はこの10センチ㍍余りの感覚のために、このように多くの生命を殺戮することにどうして耐えられるのであろうか。
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