山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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数字の認識(あなたの最初の漢字教材甲骨文)

甲骨文:

一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万 零 古 廿 爻 白

現代常用字

億 算 数 計


子供は数えられますか?になる!
右手を伸ばして手のひらを開き、左手で右手の指を1本ずつ引き寄せ、一、二、三、四、五、山に登って虎と戦えと終わりのない童謡を歌います。虎は失敗してリスに当たりました。リスは何匹いるかな、数えてみよう:一、二、三、四、五、丘を登って虎と戦う⋯「おい、なんで数え直すんだ!まだ五つも数字がある!」
実は、子供が五つの数を知っていることはかなり多く、4万年前の子供なら、数学者になっていたかもしれない。
四万年以上前、あまりの寒さに北の海は全て氷に凍り付き、広い海域が桑畑と化しました。現在、韓国と日本、タイとマレーシア、インドネシアが繋がっています。
その頃、アジアから旅をして来た原始人達が、うっかりオーストラリアに来てしまった。しかし、しばらくすると地球が温暖化し、海が隆起して、オーストラリアは世界から孤立してしまった。ここに住んでいた原始人達は、その後、外界と交流する機会を奪われた。彼らの文明は、四万年前と同じレベルに留まっている。
三百年余り前に、ヨーロッパ人は遥かに海を渡り、世界から隔絶したオーストラリアに初めて到達した。彼らは、現地の原始部族には1、2、3の三つの数しか数えられず、三つを超えると、いつも「多い」と表示していることの、不思議で驚くべき発見をした。もし部族長が客人をご飯でもてなす時、5人の客が来たらどうするのであろう。客を招いた人には良い方法があり、彼はまず3人を迎え入れ、はっきり数えて、座らせた。その後また戻って、別の二人の客を迎え入れた。

オーストラリア東南部で、ヨーロッパ人は、更に「富裕」で、「聡明」な原始部族を発見した。ここの人は、片手で五つ、両手で十と、自分の指で数えることができた。彼らは、世界で最大の数も5又は10と考えていた。10を超えたらどうするのであろう、自分の足の指を加えるのであろうか。彼らは(そういう数は)知らないし、また数えようとしなかった。そういう状況になったら、彼らは大雑破(ざっぱ)に「たくさん」と言った。

もっと内陸に入ってゆくと、それも必要なかった。そこの原始人は、その智能はアフリカの赤道の熱帯雨林に生活するチンパンジーとは比べようもなかった。具体的な物件を見て、この哀れな連中には一本の棍棒、二匹のカンガルー、三つの蟻塚(ありづか)があることくらいしか区別がつかなかった。しかし彼らには抽象的な1、2、3という数字の概念を得ることができる能力はなかった。これくらいの知能の人は、我々の中国にもいるが、それは(知能が)不足した人である。(知能の)不足度が軽いと、人々は彼らを「二つの五を知っていても、十を知らない」と言い、大変不足な人には「1、2、3以上は数えられない」と言った。
文明社会に入る前には、我々中国人の祖先も大変良くはなかった。ある時、ある部族長が戦士達を率いて出征した。川辺に差し掛かると、橋が敵に毀されることを心配して、伍長を守備に残した。部族長は、「ここで守備をしてくれ、20日後に戻ってくるから。」と言った。しかし伍長への20の結び目のある革紐の縄を渡し、「毎日起きたら最初に、縄の結び目を一つ解きなさい。20個の結び目が全部解けたら、私は戻ってくるから、君の任務も終了だ」と伍長に言った。20日後、縄の結びめが全部解けた時、部族長は本当に戻って来た。伍長は五体投地をするほど敬服して、「結んだ縄を私が解き終わったところへ、族長先生からが戻って来て、本当にびっくりした。」と皆に言った。
部族長のこの魔法の縄は、世界でも最古の数え方である「結縄による記録」である。エジプト、イラン、中国、メキシコ、ペルーには結縄の記録方法が盛行した。我々の中国では、文字による記載の歴史資料には、結縄の記録の方法は既に失われている。
縄は野菜や稲藁で編みこまれたもので。石斧、玉器、青銅器は保存が容易く、考古学の世界では未だ原始人の先人が残した結縄の実物は未だに見つかっていない。しかし原始社会に残した岩石の絵画には、人々は結縄の網目文の図画が見つかっている。古墳で発掘した陶器にも、縄門図を見つけている。副葬した漁網も現在では朽ち果て(くちはてる)ているが、陶器の網の錘(おもり)は保留されている。
これらの事物は、我々の祖先が遥か古代に縄をよりw、網を結(ゆ)い、魚を捕獲していることを提示していて、結縄して記録することは確かに証拠がある。また近代に至るまで、中国の東北と西南部の辺域の少数民族には結縄の方法を採用して記録をしていた。
結縄による記録は、どのように記録したのであろうか。結縄を一日一回解くようなそんな簡単なものではなかった。『易経・系辞下』によれば、「上古結繩而治,后世聖人易以書契,百官以治,万民以察。(古代は結び縄で治め、後世の賢人は書物や証書で簡単に治め、官吏は全て治め、民は全て検査したということです。」。文字ができる前は、本もなければ、ましてや証書もなかったと書いてあります。
また、『易経』を解説した『易九家言』という本には、物事を覚えるための縄の結び方として、「事大,大結其繩;事小,小結其繩,之多少,隨物众寡。(事大なればその縄を大きく結び、事小なればその縄を小さく結び、多少なれば、物事によって従う)」と書かれているそうです。それは、事象の性質や規模、或いは関係する物の数に応じて、縄に異なる大小の違いの結び目を作ることである。
ペルーのアンデス山脈に住んでいたインカは、この地域で最も強力なインカ帝国を築きました。しかし、山や川があるため、この帝国の生活様式は、スペインの植民者が到着した時点ではまだ石器時代のままだったのである。彼らは青銅や鉄の鍛錬方法を知らず、車輪も使えず、文字も発明しておらず、火薬も使うことができなかった。だから、たった136人の兵士で、スペインはこの人口一千万人近い原始的な帝国を簡単に征服してしまったのである。スペイン人が積み上げた戦利品の中には、「更に倉庫を埋め尽くすほどの結び目のある縄もあった。地元では「チップ」と呼ばれ、インカ帝国の財務台帳として使われていた。
インカ人が記事を結縄で記録する方式は、現在の会計台帳に似ている。台帳分巻、分冊の総計を出せるように、記事の縄には綱があり、目がある。数字を用いて台帳に記し、財務収支を記録するために、記事の縄は結縄手数字の大小を表す。
インカ人は、現代人同様、経済業務の違いに基づいて、各種各様の管理費用勘定、例えば人口統計、土地境界、税金徴収、工房の生産高、軍事費用などを結縄で分別を記録した。具体的な方法としては、異なる項目に従って、一本の顔料の付着した縄を主縄とし、種々の異なる台帳を作成することによって計算に便利なようにしたのである。例えば、赤は軍隊の徴兵人数を表し、黄色は徴収する黄金の金額を表し、緑は政府倉庫のトウモロコシ数量である。主縄上には、一段間隔で一本色違いの細縄を結んで、別々の地区を表した。細縄上の間隔が同じでも異なる時間を表した。金額の大小は、結縄を用いて表示し、単結びは「10」、双結びは「20」、重ね結びは「100」、双重結びは「200」を表すといった具合であった。
考えてみれば、この種の記録方法は実に大変面倒で、やむを得なければ、誰もこのような愚かな方法は利用しなかった。どうしたら良いのか。また、狩人は石斧で動物の骨か竹片にいちいち線を刻む方法があって、「木刻記録」と呼んだ。生産と生活の需要のため、六千年余り前の仰韶文化時期になると、西安の半坂遺跡から出土した彩陶盆に本物の数字記号が出現した。この時、我々の祖先には既に一から九の全部の数を発明し、数の記号を泥土の盆に刻み、焼成して陶器とした。このような陶器に刻まれた数字記号は、実際中国最初の文字で、後世それを「陶文」と呼んだ。
やはり落ち着いて良く学習して、正確な数えを掌握すれば、統計もできるようになる。金文の「數(数)」の上部は体罰を表示する「両手」で、また両手でつかまれた「人」がある。中間のその人は罰を受ける人を表し、彼の対面する「目」は、顔を表し、下の「言」は、叱責を表している。この字の本義は、しゃべり言葉の「数え立てて説教する」ことである。
大人は五、十といたずらを数え、子供の犯した間違えを列挙して、体罰や、教訓を加えた。これより考えると、古代人は早くには「数」の抽象的概念はなく、何のために一つ一つ数えたというと、自分の子供が起こした間違えを統計して、新しい事柄古い事柄を一緒に纏めるのに便利なためであった。

甲骨文には最も基本的な数字記号の、一、二、   三、   四、   五、六、七、八、九、   十がある。宋朝の詩人邵雍の小詩には、この十個の数が「一たびさること二・三里、煙村の四・五家,亭台六・七座,八・九・十枝の花あり。」と全部嵌め込まれている。

夙に6,000年前の仰韶文化の時期には、西安の半坂遺跡に出土した陶器には記録の記号がある。4,000年前の洛陽に里頭遺跡に出土の陶器には⋯などの数字、分別すると1、2、3、4、5、6、7、8、70などが刻まれていた。紀元前16世紀から紀元前10世紀の殷商時代には、甲骨文にはもう正確な計数方法があった。この時期には完備した数字符号があるばかりでなく、「十」「百」「千」「万」「億」など桁(けた)を進める特殊な文字があった。ここに至って、中国が世界に貢献した最も重要な発明の一つの、「十進法の計算法」は完全に成熟した。

甲骨文の基本的な計算符号は全部で13個あり、分別は  「一」  「二」  「三」  「四」    五」  「六」  「七」  「八」  「九」  十」  「百」   「千」   「萬(万)」であった。

甲骨文の    (一)は、混沌が初めて開けて、万物の始まったことを表し、古くは「太極」と言った。つまり天地万物の「太初」の状態である。造字の本義は、天地開闢の初め、万物形成の始まりの「混沌」状態を表す。「一」は最小の計数単位であり、最小の非素数でもある。
甲骨文の   「二」は、二つの「一」の組み合わせで、古くは「両儀」と言い、上部は天を表し、下部は「地」を表す。この字の本義は、混沌とした遥か昔から分化して、天と地とが並列したことを表す。上古の神話では、盤古が天地を開き、混沌として最初の頃、清い気が上がり天となり、濁った気が下降して地となり、中央を地平線が分離したという。
甲骨文の   「三」は、古くは「三才」と言い、上下の横線が「天」と「地」を代表し、中間の一横線が「人」を表す。天、地、人の三位一体で、完璧な世界を構成した。道教の元祖老子は『道徳教』で「道を一に立て、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」という。意味は、混沌とした太初の存在の全体は「一」であり、その後の混沌の「一」により、天と地が分かれ出でて、天地に二極の間にまた第三の部分「人」が生まれ出て、天地人は宇宙万物の根本であることを言う。
甲骨文   「四」の字形は、「二」の二倍であることを示す。造字の本義は、二の倍の非素数である。周代初期に使われた金文    は甲骨文の字形を継承し、また早期の金文の横が気を縦書きにして、「llll」となった。「llll」と「二、4は2の倍数を表示する」と一個の角がまち「口」の合成により、  「四」と変わった。晩期の金文の  「四」は  「四」の基礎にまた「二」を加え、「四」と「二」の倍数関係を強調した。篆書の  四は晩期の金文  「四」の中の「二」を省略し、最終的に現在のこのような様子となった。

「五」は特殊な指事文字で、「五」の初期の甲骨文の字形   「㐅」は一個の交差記号で天、地万物の合一を意味して、「四」より大きい素数を表している。後に八卦の算出に使用する「爻」字との混淆(こんこう)を恐れて、晩期の甲骨文  「五」は早期の甲骨文  「㐅(万物混淆)」の字形  「天地の間」を加えており、造字の本義は、金、木、水、火、土を「五行」と称し天地万物とを構成する基本元素とした。甲骨文の造字は「二」を根元として、天地両極を表示し、「㐅」は陰陽両気の交錯し、「五」は陰陽両気の天地間で交錯し、相生相克(養育と抑制の関係性)し、世界の万物に変化する事。

「六」は象形文字で、早期の甲骨文「六」は家屋の屋根框(がまち)の形であり、堅壁と、傾斜した屋根があり、四方の壁が屋根板の二面を乗せ、部屋の空間の次元を表している。東、西、南、北を「四方」と言い、天井板と地面を加えて、一行の完全で、見閉した空間を構成することを、「六合(天地東西南北=宇宙)」と言う。
「七」は特殊な指事文字で、甲骨文   「七」の書き方は「十」である。横一は、全て、一切を表し、横一に縦一を加えて、全体の進行の切り分けを表示した。早期の金文   は甲骨文字の形を継承している。晩期の金文「七」は「十(10)」と区別するために、縦画を屈折(くっせつ)している。造字の本義は、古代人が切り分けるれる限度の数と認めた。六よりも大きく、六と八の間の素数である。篆書の字形   「七」は基本的に晩期の金文の字形を継承している。隷書「七」は   を書く。「七」の「切り分ける」本義が消失してから、篆書には更に「刀」を加えて「切」を作り代替した。
「八」は特殊な指事文字で、甲骨文   「八」は相反するニ本の弧線の指事記号で、「分」じと淵源を共にし、一個の物体が等しく二つに分離したことを示す。造字の本義は、切り分けること。金文の「八」と、篆書の「八」は甲骨文の字形を継承している。楷書「八」は隷書の字形を継承し、一撇一捺(左はらいと右はらい)で書く。「八」の「分割」する本義が消失してから、篆書には「刀」が加えられ「分」が作られ代替された。古代人は「八」を極限の数と考えていて、「乱七八糟(入り乱れる)」と言った。十進法が発明される以前には一、二、三、四、五、六、七、八、九の、全てが古代人の認識の中での極限の数字であった。
九、甲骨文の    、 「九」の本義は研究する(調べる)の「究」であり、意味はニの腕「厷(肱)」を穴に入れて、中から物を引き出し、穴の中に何があるのかを見ることである。造字の本義は、手を伸ばし、穴の中の情況を探ること。金文の「九」    、  は甲骨文の形を継承している。篆書の   「九」は手の形に風化している。「九」の「手探り、力づくで状況を確定する」の本来の意味が消失してから、篆書はまた道の空間を表す「穴」を上に加えて、別に「究」を作り代替した。『説文解字』に、九は、(陰陽の)陽数の最大の変数である。文字は、物事が紆余曲折して、究極に至る様子を表している。
この10個の数字の古今の変化の過程を、以下の表のように凝縮することができる:

殷商時代の人が十進法を発明する以前は、一、二、三、四、五、六、七、八、九は古代人が認識した極限の数字をであった。
一、宇宙混沌、全てを表す。
ニ、天地、乾坤、陰陽または一切のものを表す。
三、天、地、人、またはも一切のものを表す。
四、三を超越した数で、「二」の倍で、究極の数である。
五、天地の合体、また一切を表し、中国の伝統の珠算(しゅさん)は、初め五進法を採用しているので、当時の人々は五を究極数と考えていたことを照明している。
六、家屋の「前後左右」四壁と、屋根と床の六面を含んで、また宇宙空間の一切を代表する。
七、割り切れない数字(素数)の極限で、一切を代表する。
八、「分(わける)」から出ており、「七」と同様に、割り切れる数の極限を表す。
九、手で力の限りつかむことで、最大多数を示し、中国の伝統的な珠算と算木では、みな「九」を最大数とし、更に一を加えると位をあげている。
位を進める数字の代表には十、百、千、万、億がある。
十は結縄の記録が終了したこと。
百は口を開け、延々としゃべり続けて言い(白)終わらないこと。
千は千弾万水を行き渉り、移動し続けること。
万(萬・厲)は山林や岩壁に、数え切れないほどの蠍(サソリ)がいること。
億字は周代に出現し、無限大の数字を表す。当時の人々は、このような大きな数は、現実世界には根本的に存在せず、想像の中にしか存在できない、無限で和やかな憧憬(どうけい)であった。
十の甲骨文   「十」は象形文字で、つるした結んで記録した縄を、象っている。古代人は結縄を利用して記録し、数を計算し、一本の縄が主題の記録を表し、全数を表した。造字の本義は、結んで記録した一本の縄で,満数、全数を表す。『説文解字』では、十は十進法で位が上がる全てが揃っていることを表す。「一」は世界の東西を表し、「l」は世界の南北を表し、「一」と「l 」を交差して東西南北中央が揃っていることを表している。
金文    では縄に指事円圏点記号    を加えて、結縄の記録を表示している。晩期の甲骨文   「十」は「七」と区分するために円圏「結縄」  を短い横の  を書いている。

古は,甲骨文   「古」は   「十」の   「口」を貫き、大変昔の事を語るのに、たくさんの話が必要なことを表している。ある甲骨文の   「古」は「古」    の字形の基礎にまた   「口」を加えて、「古」の伝説の意味を強調している。金文    (     、  )「古」は「古」   字形の基礎に   「卅(三十)」を加えて、伝説時代の長く果てしないことの先触れを強調している。篆書の古は   を書く。造字の本義は、長い過去の歳月で長い時代にわたり代々伝えられたこと。

叶の籀文   は   (口)と   で構成されており、叶の篆文   は   (口)と  (十)で構成されており、複数の人が同時に話し、声がうるさいという意味です。隷化後楷書の叶は   を書く。

計、金文   「計」の意味は、多くの   (十)人が相談   (言)し、篆書の計は  を書く。隷書の計は   を書く。草書の計は   を書く。楷書の計は  を書く。造字本義:皆が口八舌で相談し、計画する。『説文解字』:計、合計、算計、また「統計」という意味がある。
廿、甲骨文     、 (廿)は2本の記録の縄    のように、一本の縄は数「十」を表し、2本の縄     は二つの「十」を表します。造字本義:二十、二つの「十」が合併(がっぺい)し、つまり十の二倍である。初期の金文       、 (廿)は2本の結び目のある縄を繋ぎ合わせた。後期金文  (廿)は紐を横線に結んだ。
白、甲骨文       、  、  、  (白)は舌の形をした口の模様      (曰)に由来する。口の真ん中に一横の指事記号をつけて、寒い冬に口から出てくる白気を表します。これが(白)です。金文の白は     、   を書く。篆書の白は   を書く。気を取る前に口を開かなければならないので、白は「白話」「説明」という意味になった。篆文(白)は「曰(説)」になる上には縦をつけて、口を開く動機や結果を表す。『説文解字』は、「白は、西天の色を表す」と言った。喪に服を吊るす時、品物は白紙を貼って、故人の魂が安らかに西に帰ることを祈る。
百、早期の甲骨文の    、  、 「百」の、本字の字体    、  は長い舌先   , 白」で、舌の上に舌先が描かれているように見えるが、唇を揺り舌 を打ち、話が終わらないことを表している。舌を打ち話をする図案に一本の指事記号「➖」を付け加え、話が尽きないことを表示している。金文の百は    、 を書く。篆書の百は   を書く。
千、甲骨文の   「千」は「遷徙(せんし=移動)」の「迁(遷)」であり、人    の下肢に指事符号の  を加えて、足元の動作と関係のあることを示している。   (ニ)と  (千)は  と構成されている。   (五)と   (千)は   と構成されている。金文の   、篆書の   は甲骨文の字体が継承されている。隷書の千は   を書く。造字の本義は、山水を跋涉して、休みなく移動することで、「迁(遷)」の本字である。隷書の変化は大きく、甲骨文、金文、篆書の字形の「人」形を失っている。「千」の「止まらず進む」本意が無くなると、後に「辵」を加えて「迁」を作り代替した。
甲骨文万

金文の万

万(萬)、甲骨文    、 「萬」は、頭が尖り(とがる)、大きなはさみの、尻尾があるサソリの象形である。造字の本義は、山野にまんべんなくいる、数え切れない大量のサソリである。おおよそ遥か古代には中国平原ではサソリの数量が大変多かったので、サソリで巨大の数量を表した。金文   には手(又)が加えられ、サソリを捕まえることを意味している。

篆書はサソリの二つのはさみを誤って両手の形状に書いている。隷書の「萬」は再び両手を誤って草冠「艸」に書いている。魏晋時代の楷書の「万(萬)」は、永遠不尽の「卐」の符号が変遷してできている。
億、金文は    に作り、「言」字の下に更に「口」を加えて、言い尽きない様子を表している。現代の計数方法では、億は「万の万倍」であるが、周代では、億の意味は「十万」であった。篆書の    「億」は「人」と「意」の組み合わせで、「欲望」を表すが、造字の本義は無限の憧憬の中にしか存在しない、極大の数である。
甲骨文字は「一、二、三、四、五、六、七、八、九」の9つの数字記号と「十、百、千、万」の四つの位の記号で、「一」から「十万」以内の任意の自然数を表示できた。
これは当時の世界の最先端の科学的な計算方法であり、巧妙な部分があった。10以内の数字を記録するには、単体の計数符号1〜9を直接使用すればよかった。10以上の数字を記録するには13個の数字記号を使用し、規律にあった配列の組み合わせをした。例えば:()この20個の符号は、(20、30、40、50、60、70、80、200、300、400、500、600、800、900、2000、3000、4000、5000、8000、30000)と20の数字が表示できた。35921を表示するには、ただ「」と書けば良かった。
桁数(けたすう)で計算を進行する場合、キーとなる文字「零(0)が足りなかった。「零」字は大変重要で、もしこの仮借文字がなければ、503、4059と言った種類の数を表示することができなかった。「」と書くのは、桁数が減ってしまうのでできなかった。甲骨文の書き方では口口で、この「口」は「空白」「無」の記号で、「口(コウ、くち)」とは読むことができず、「零」と読む必要があった。
零の本義は「零星小雨(まばらな星と小雨)」であり、早期の甲骨文は      「雨」と作り、天上からの降水が、徐々に舞い落ち小雨が大地を潤すことを表している。甲骨文は    「霝」と書き、   「雨」と     「口」の組み合わせで、祈祷師の祝詞で天帝が感動し、小雨を降らすことを表示している。もちろん、この字は本来計数には用いられず、造字の過程で便宜的に借用したもので、漢文ではこの種の借字の用法を通仮文字と呼ぶ。金文の零    の    は    を代替した。ある金文の   の    は   を代替した。篆書の    は金文の   字体が継承されている。
漢字を使用した数目の表示には「小字」と「大字」の区分がある。明時代以前には全て小字を利用し、また甲骨文の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十を踏襲した。この10個の数目の文字に、「壹、貳、叁、肆、伍、陸、柒、捌、玖、拾」の、10個の「大字」の数目の文字が対応した。
財務会計の専門職の眼から見れば、小字は読みやすく書きやすいが、容易に改変できる。例えば「一」は二、三、五、六、七、十等に書き換えることができる。そこで、明の太祖朱元璋は汚職に反対し、清廉な政治をするために、千・万の漢字の中から発音が同じで改竄(かいざん)しにくい漢字を選出して、財務帳簿と証書類の専用の数字とした。この10個の複雑な漢字の原義は数目ではなかった。
壹(壱)は、即ち随一である。貳(弍)、心変わり、背反である。叁は、「参」の別の書き方で、加入、謁見である。肆は、恣意的な行動。伍、古代に「五人を伍(組)と為す」の言い方があった。陸は、水面から高く出た平坦な土地の事。柒は,漆樹或いは漆の木から作った塗料。捌は、整地器具の、刃のあるものが耙(ハ、まぐわ)で、刃の無いものを捌(八チ、とんぼ)である。玖は、黒く美しい石。拾は物を取り上げること。
算の、篆書の「算」は「竹」と「具」の組み合わせである。「具」は両手で操作する意味で、造字の本義は、両手で竹串や竹札を書添えることである。計算に用いる道具は「算籌」といい、一般に「籌碼(チョウマー)」という(日本の算木)。いわゆる算木は、細長い竹串や木の棒である。算木で数を計るには、一から四までは、古代人はみな一本一本算木を横に置き表示し、一は一本の横に置いた算木で、四は四本の横に置いた算木である。五になると、五本の算木を置くのはちょっと多すぎる。そこで、五からは、古代人は表示方法を別に置き換え、二本の算木を垂直に置き、六は元の算木の下に二本(の算木)を縦置きにし、十は中間に横の一本を加えた。算木に始まり、漢字の数字は甲骨文、金文、篆書、隷書を経過して、ずっと発展進化して現在に至る。
爻(こう)、甲骨文の爻の「乂」は、二本の算木の交錯、組み合わせを表示している。造字の本義は、古代人は天地の変化の規律に倣い、陰陽の組み合わせ(八卦)の変化を用いて、世の中の変化を推測、計算したこと。『説文解字』に、爻は、交錯なり。「易」の卦中の六爻の相交を象る。(陰陽の組み合わせ=爻で四象が生じ、これはまた陰陽を組み合わせ=三爻で八卦が生じ、八卦の組み合わせ=六爻で、大成卦=六十四卦が生じる)。
我々殷商時代の祖先は、当時の世界で最新進の数学知識を持っていたばかりでなく、数学の知識を土地面積の計算、商品交易の換算、都市・要塞工事の建築、水利行程の設計、手工芸品の製造、戦利品の分配などに用いて、理論を実際に関連づけることができた。明確な十進の以外にも、数学に「奇数」「偶数」と「倍数」「分数」の概念も使用した。
中国殷商時代の人と比べて、同一時代のその他の古代文明の数学水準は全て遥かに落語していた。古代バビロニア人は60進法を採用し、マヤ人は25進法を採用、ローマ人は5進法と、10進法の混用で、彼ら数学家の頭の混乱は神のみぞ知っていた。

インド人人は紀元前7世紀になってようやく個、十、百、千の位で並べて計算をできるようになった。エジプト人は更に面倒で、彼らは十進法を使っていたが、だが計算方法は大変代用であった。例えば、もし「1589」という数字を表現する時、殷商時代の人はただ「一千五百八十九」と書けば良かったが、エジプト人はまず斧を描き、初めの位「一千」を表す符号とした。次に五本の縄を描いて二番目の位「五百」を表す符号とした。次に八本の弓を描き三番目の位「八十」を表す符号とした。最後に9枚のパピルスの葉を描いて、「九」を表す符号とし、大変めんでであった。考えてみれば、一基のピラミッドを建築するには250万個以上の切り石が必要であった。正確な位でこのような一つの数を書くために、エジプトの数学家は一日中座って描いてたのであろうか。
以上の描写から、我々殷商時代の祖先が作出したこの計算方法は、現代数学の「十に逢えば一進む」という十進法の計算方法のの源流となった。零から九に到る10個の数字の簡単な組み合わせで、無限の数を表現することができた。この簡単に見える計算方法は、返って時代の天才の創意が凝集している。殷商・周時代にはもう普遍的に使用され、春秋戦国時代にはすでに熟練され計算数学に応用された。後にこの種の計算方法は文化交流に従いインドに伝わり、またインドからアラビアへ伝わり、その後ヨーロッパへ伝わった。ヨーロッパ人はこの種の計算方法の起源が中国から来た事を知らず、現在世界で通用している十進法の数字「1、2、3、4⋯⋯」をアラビア数字を読んだ。
十進法記数法は、世界文明に対する中国の摩滅することのない重大貢献である。3600年前、世界最先端の数学成果であった。広く伝わった現在、依然として全人類の共同財産である。まさに18世紀にフランスの数学者ラプラスが、「10の記号を使えば一切の数を表すことができる。一個一個の記号が絶対的値を持っているだけでなく、位置の値をも持っている。これは深淵にてまた重要な思想である。今日、それはかくのごとく簡単に見えるので、我々はその本当の偉大な功績を見落としている。しかしあたかもその単純性と一切の計算に最大の利便性をもたらすことで、我々の数学は益々有用な発明の中でも首位に置かれている。」と説いた通りである。『中国科学技術史』の作者、イギリス人のジョゼフ・ニーダム博士は「もし十進法がなかったら、我々の現在のような統一化した世界は殆ど出現が不可能である。」と、徹底した評価を下ろしている。
漢字の中にある字符は、数字を表すだけでなく、人々の日常生活で使用する頻度が最も高いグループの常用字である。現代人でも古代人でも同じで、一時もこれら無しでは済まされない。新華社が出版する『漢語成語実用辞典』は、厳格な意味での四字成語を5000項目収録しているが、その中に含まれた数字成語は500項目あって、総件数の10分の1である。
しかし、一旦数字が成語に溶け込むと、数字自体だけが示されるのではなく、大変多くの抽象的修辞意味が付与される。この最も古い漢字と中国歴史の典故は、相結合して中国文化の広範さを明らかにし、伝統生後の奇妙な面白みをも浮かび上がらせた。更に面白いのは、日常生活の中でとても多くの成語が我々の常用語、或いは口癖となっていることである。例えば、一場虚驚(いらぬことに驚きまくる)、一団漆黒(真っ黒闇)、両手空空(すっからかん)、感慨万千(感慨無量)、十字街頭(十字路、比喩で「巷」)、大吃一驚(びっくり仰天)といった具合、などなど。
極めて多くの数字成語は、数字とその他の字句、短い言葉が組み合わさっている。「一」から「億」まで全てが対応する成語を持っている。こうした埋め込み数字の成語は大変多く実在するので、我々はいちいち列挙する術がない。総括して数字成語の共通点を要約するのみである。

一、数詞を含む熟語の、数詞の位置は一般に語頭に置かれる。

この種の四字熟語には「一」字を冒頭に持ってくるものが最も多い。『漢語成語実用詞典』には、160件余りあり、数詞熟語では絶対的優勢にある。この種の熟語の中で、四字の組み合わせは大変規則性がある。およそ頭に「一」の字を持ってくると、「不」「莫」「無」「而」「所」「之」と呼応しており、例えば「一無所有(何もない)」「一籌莫展(万策尽きる)」「一蹴而就(一挙に成し遂げる)」「一帆風順(順風満帆)」「一路平安(道中の無事を祈る)」などである。「一」を除けば、その他の数字で始まる熟語は比較的少ない。この熟語には「万」字、「百」字が多く、例えば「万箭斉発(総攻撃)」「百廃待興(荒廃からの復興準備)」などである。

二、二つの数詞を含む熟語は、数詞熟語の中でも膨大で、総数の半分以上を占めている。構造によって区分すると、この種の熟語は更に二種に分けられている。

1、二つ数詞が一緒になったもので、このような熟語は多くない。例えば三五成群(三々五々集まる)、乱七八糟(ごちゃごちゃ乱雑な事)、気象万千(変化に富む)、略知一二(少々解る=謙遜の語)等である。
2、二つの数詞がその他の語句で離れ、一つの数が一文字を挟んで、最も単純な数詞の対句を形成している。
一と、一が相対するもの:一挙一動、一心一意、一山一水、一草一木。
百と百が相対するもの:百戦百勝、百発百中、百依百順、百求百応。
一と、二が相対するもの:一清二楚、一窮二白、一清二白、一心二用。
熟語の中で「二」「両」「双」は通用され、「両」「双」が「二」に相当する例派は、一刀両断、一挙両得、一箭双雕のように多い。
二と、三が相対するもの:両面三刀、三心二意、三長両短、三言両語、三天打魚 両天晒網。
三と、四が相対するもの:丟三落四、説三道四、不三不四、朝三暮四。
三と、五が相対するもの:三皇五帝、三令五申、三年五載、三番五次。
四と、八が相対するもの:四面八方、四平八穩、四通八達、四時八節。
七と、八が相対するもの:横七竪八、七上八下、七嘴八舌、七葷八素。素
一と、千が相対するもの:一字千金、千篇一律、千人一面、千鈞一髮。
一と、万が相対するもの:万無一失、万衆一心、一本万利。
千と、百が相対するもの:千方百計、千姿百態、千奇百怪、千瘡百孔。
千と、万が相対するもの:千山万水、千差萬別、千変万化、千錘百鍊、千方百計、千呼萬喚、千軍萬馬、千秋萬代、千糸萬縷、千頭萬緒、千辛萬苦、千言萬語、千真萬確、千難萬険、萬水千山、万紫千紅。
「三」と「四」で構成される熟語の中で、「三」と「四」はもはや数詞ではなく、指事代名詞であり、「这个張三、那个李四(ごく普通)」の意味がある。この種の熟語には、説三道四、低三下四、不三不四など明らかに侮蔑した意味合いがある。

三、三つの数詞を含む熟語は、数が少なく、三六九等(ピンキリ)、七老八十(高齢である)、十之八九(ほとんど=十中八九)の僅か三つだけである。全て数構成四字熟語も大変少なく、一五一十(一部始終)、三三両両(ぼつぼつと)、三三五五(ちらほらと)、七七八八(ごちゃごちゃする)、千千万万(おびただしい)などである。

四字熟語は中国語の神髄である。多くの熟語の背景には、特定の典拠があり、それは歴史上の特定の場景であり、明確な物語から洗練され変化して来た。これらの熟語で、数詞で明確な数を表す数字熟語は大変少なく、大多数の数詞は数を確定していない。それらの示しているのは不確定で、抽象的な意味である。それで、全体としては、非確定的な数詞は以下の幾つかの意義がある。
「一」を使った熟語は、最も多く、「最=一番」「極限」と「程度が大きい」の意味があり、例えば短い季節の「一日三秋」、落差の大きい大きい滝の「一落千丈」、威信が最高の指揮官は「一呼百応」、最も成功した殲滅戦を「一網打尽」などがある。最悪の結末「一敗塗地(一敗地に塗れる)」、何もしない「一事無成(一事として成す無し)」、最高の原稿費「一字千金」、簡単に言い尽くせないことは「一言難尽(一言では尽くし難し)」、二言がないは「一言為定」、最高に価値のある言葉「一诺千金」、取り返すことのできない約束「一言既出駟馬難追(一言既出すれば、駟馬も追いがたし」、広い視野の「一覧無余(一覧して余り無し)」、よどみない流れの「一瀉千里」、一挙両得の「一箭双雕」最高の商売「一本万利」、最高のけち「一毛不拔」、最長の棍棒「一柱擎天」、大きい葉っぱの「一葉障目、不見泰山(一葉目に障り泰山を見ず=大局を見極められないこと)」、最大の幸運は「九死一生(九死に一生)」、最大の冒険(孤注一擲(一か八かの勝負)」、強情な人「一意孤行」、掃除の行き届いた部屋「一塵不染」、愚直な人「一窃不通」、順調な旅路「一帆風順」、貧乏な人「一貧如洗」。
「一」は最小の実数であり、「一朝一夕」「一絲一毫(一分一厘、ごく僅か)」「一点一滴(少しずつ)」などのように「少ない」という意味を表してきた。
一足す一は二に等しく、二引く一は一に等しい。「二」と関係する成語は、もし「一」と組み合わさるならば、「別々になる」ことを表す。例えば「一分為二(いかなる事物にも二つの面がある)」「一来二去(おいおいに)」「一刀両断」のようにである。もし「三」と組み合わさって「三心二意(優柔不断)」となると、千々に乱れた思いを表し、「三三両両(三々五々)」は人数が多いことを表す。
詩人の聞一多は『聞一多全集・神話と詩・七十二』で、「十が充足数である体系では、五が半数であり、五から二を引いた3は少数である。五に二を加えた七は多数である。古書では三、或いは七は、往々にしてこの種の意味合いで少数、或いは多数を印象づける数字である」と説く。「三三両両」は別として、「士別三日、刮目相看(士、分かれて三日なれば、刮目して相見るべし」並びに「三句不離本行(三言目には商売の話になる)」の「三」は数が少ないことを表す。
「三」が中国語の中で「多数」を表す例はとても多い。「詩・魏風・碩鼠』のように、「三歳貫女(=汝)、莫我肯顧」である。その意味は、「長年のあいだあなたに仕えてきたが、あなたは私に関心を持とうとしない」である。また、『論語・公冶長』のように、「季文子、三たび思いて後行うと」とある。その意味は「季文子は事ある毎に何度も考慮してから行動する」である。
「三、五、九、十、百、千、万」を含む熟語には、往々に「多く」の意味を表している。例えば五花八門、十全十美、千方百計、千姿百態等等である。熟語中での「多」は、往々にして抽象的な意味があり、誇張的でもある。この類の多数、大数は「一」と組み合わせると、一方では「多い(の意味)」で一方では「少ない(の意味)」であり、両者の成り立ちは鮮明に対比している。例えば、九死一生、千鈞一髮、一本萬利などである。
「千鈞一髮」の典拠は唐代の詩人で、文学家の韓愈にある。韓愈が生きた唐代後期の、当時の皇帝唐の憲宗は仏教に熱中したので、朝廷の宦官が政権に当たり、国民は安心した生活ができなかった。ある時、皇帝は使者を天竺に派遣して仏舎利を唐朝に迎えようとしたので、韓愈は上表して諫め(いさめる)だが、皇帝の機嫌を損ねた。結果は「一朝封奏九重天、暮貶潮州路八千。一封朝に奏す九重の天、夕べに潮州に貶せらる路八千(一度は中国全土の天子に仕えたが、終には潮州八千里の彼方に追いやられた)」。韓愈はこの事に憤懑やるせなく、朝廷の大臣は儒教も守らず、迷信で皇帝を惑わすことに加担したと見做していた。皇帝も賢人を疎遠にし、朝政を顧みず、国家を「満身創痍となし、混乱と損失に任せ、「共に危うきこと一髪の千鈞を引くが如し」であった。「鈞」は重量の単位で、一鈞は15キログラムである。四字熟語の「千鈞一髪(危機一髪)」が比喩している事態は、まるで一般の毛髪で15キログラムの重さの品物を結んでいるような、危険極まりないことを意味している。現在の一般人は最悪な危険な情況に遇った時、往々にしてこの熟語で形容している。
「三」と「四」で構成される成語の中では、「三」と「四」は、もう数詞ではなく、「三」と「四」は、もう数詞ではなく指事代詞であって、「この張三だの、あの李四だの(どこかの馬の骨)」という意味を持つ。この種の成語は、説三道四(つべこべ)、低三下四(ぺこぺこ)、不三不四(ろくでもない)など、貶す(けなす)意味合いを含有する。
成語「不三不四」は清朝作家吳敬梓の『儒林外史』『範進科挙に合格す」篇が起源である。範進は一介の書生で、科挙試験に参加すること30年、ようやく54歳にして秀才として合格した。家は困窮し、二間のオンボロ草葺き屋根の家屋を残すのみだった。老母と妻は食にあり付けないのが常で、年老いた岳父である胡屠戸に仕送りを恃まなくてはならなかった。胡屠戸は当然範進に良い顔を見せず、範進は、受験費の借金を求めると、出会い頭に胡屠戶から顔に唾(つば)を吐きかけられ、どやしつけられた。「ほら、町の挙人の旦那様、片耳がでかくなくて、お前みたいな口先が尖って頬が痩せこけた奴だ、ゴロツキめ、まだ白鳥の肉を食いたいだと!」その手があったか、なんと範進は殿試合合格者に名を連ね、本当に挙人の旦那となっていたのだ。すると胡屠戸は態度を一変し、自分の女婿が天上の文曲星の生まれ変わりだと宣伝して、「婿殿」と口を開き、「旦那様」と言って口をつぐんだ。範進に対しては極めて恭しく、市場副仲買人(なかがいにん)の顔つきそのものになった。
「三」と「四」が連用した言葉は、通常は人や人の行為をさしている。例えば、張三李四(元々は張家の三男、李家の四男という意味で、そこから「どこにでもいる人間」という意味が生じた。)、不三不四、顛三倒四、朝三暮四、急三火四等は全てこのようなものである。
「七」と「八」が呼応する組み合わせの熟語は、ほとんど指事に使い、「多くて乱雑」な意味を表示、例えば「七嘴八舌」「七手八脚」「七上八下」等がある。「七葷八素」は飲食と関連がある一つの典型的な例である。
周代の飲食は、『礼記・内則』に比較的細かく記載されている。周礼は、天子は食事に九つの鼎、諸侯は七つの鼎、士大夫は五つの鼎を規定している。鼎は青銅で鋳造され、主に肉を煮炊きし、国王と貴族は肉を食べ、菜食をしなかったので、一般に「肉食者」を呼ばれた。『礼記・内則』に記載する、周王の宮廷での宴席の主菜は「八葷(八種のなまぐさ)と言い、「八珍(八種の珍味)」の意味がある。「八珍」は肉丼、肉汁粟飯、豚の焼き肉、豚ヒレの叉焼き、牛肉のワイン煮、牛肉の照り焼き、牛肉の焼き肉丼、犬のレバー焼である。「八葷」のほかに「七素」があり、二種類の肉食の間に胃を整える野菜料理であるが、具体的な野菜の名称は古代の文献には明確な記載がない。
熟語の「七葷八素」は「七素、八葷」という伝統な飲食儀礼の反転である。元の意味は過失であり、正式な宴席での配膳を順序を間違えたもので、周代では大変厳重な失礼行為であった。その後この熟語は物事を混乱させ、収拾できなくなること、或いは人を昏倒だせて、何が起こっているか分からなくさせる意味に拡張された。漢語の語彙の中では「七と八」の並列は往々に無秩序を意味する。「七葷八素」は「七嘴八舌」「七拼八湊」「七上八下」「七手八脚」「七零八落」「七顛八𠊷」などの熟語と同様で、どれも多少は混乱して、不規則な意味がある。