山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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遼塔の遺跡は少なくなく、契丹族の建築水準は高い


遼塔の主要部分は中国北方にあり、東北、華北が最も多く、遼代の主要な遺跡は、契丹族の建築の質に対する研究を反映している。多くの遼塔は鮮明な民族特色があり、堅固にして高大である。

応県の木塔、万部華厳経塔、雲居寺塔、朝陽北塔、遼陽白塔、北鎮双塔、応州白塔、寧城の大明塔等数々の塔は、歴史文化の価値が大変高いものがある。


千年の風雨を超え、神秘の契丹族は早くから他民族との融合しているが、彼らの残した遼塔は、大遼の嘗ての栄光を現在に伝えている。遼塔は遼の時代の建築芸術の起点的な作品で、中国の東北や更に北方の歴史的発展や、民族の文化交流と古代建築技法を研究する重要な根拠である。現在中国に現存する大型の遼塔は約80基存在し、数量は中国第一である。遼寧省で、各文化財の保護部門に列入している遼塔は40カ所で、単体の総数は51基を数える。その中で、中国の重要文化財の保護部門は6基、各省の文化財保護部門は36基、市部級の保護部門は9基である。


残念なことに、特殊な時期に、一部の遼塔が爆発され、一切の資料はひどくは写真しか残っていない。

実際、遼塔の正確な数量、歴史について、建築学界はずっと様々な見解があった。遼代の古塔と近代の古塔は構造と建築様式で大変相似しており、また古代の文献の記載が欠失しており、そこである塔はいったい遼代または金代に建造されたのか、学説は一定せず、そのため遼塔の統計的な数量にも矛盾を生じている。

歴史的に、遼王朝の国家の統治者は毎年巨額資金で仏寺を造営し、民衆も援助を競い合っていた。遼塔は膨大で雄渾な気概は、遼と同一時期の北宋の簡明な優美とは鮮明な対比を形成している。

遼塔は遼代建築の結晶であり、更にはその時代の歴史的価値を反映したものである。各地に散在する遼塔を通して、我々は仏教文献のこの王朝での隆盛を見、遼代に創出した経済と文化的な輝きを見ることがすこしは見ることができる。

遼塔は中国の古塔建築群の中でも特殊な地位を占めており、遼塔は遼代の古塔の略称であり、中国市場で契丹民族が建立した遼が残した重要な歴史遺跡であった。遼塔は風格が独特で、建築は精美、濃厚な地域文化の特色を保有し、中国の古塔芸術の傑作である。

  瀋陽地区の遼塔

遼代における仏教の隆盛は、各地に多くの仏教寺院や仏塔が建設されたことが顕著な表れである。ただし、寺院は一般的に木造建築であったため、今日まで保存されることは困難である。一方、仏塔はが煉瓦や石で建てられることが多く、現在も保存されている数は比較的多い。現在知られている範囲では、瀋陽市内には遼代の仏塔が七つあり、それらは以下の通りである。塔湾塔、崇寿寺塔、城南卓望山塔、城南白塔堡塔、石仏寺塔、新民遼濱塔、法庫小塔子塔。その中で、五つの塔からは石の函(碑)が出土し、これらはこれらの塔の建設に関する重要な情報を提供している。

瀋陽塔湾塔:瀋陽で最も保存状態が良い遼代の塔であり、皇姑区塔湾街に位置している。これは典型的な八角十三層の密室煉瓦塔で、高さは約33メートルである。塔の基部は2層に分かれ、上部は蓮華座を仰ぎ、腰部中央には各面に一つの石彫りの伏獣がいる壺門がある。蓮華座の上部には2層の蓮花弁の煉瓦塔があり、高い塔身を支えている。塔身の各面正中には拱券式の仏龕があって、それぞれに蓮座と仏坐像が一つずつ置かれており、龕の両側には二人の脇侍が立ち、上部にには宝蓋と飛天がある。塔身の上部には、南面には宝生仏、西南面には等観仏、西面には平等仏、北西面には惠華仏、西北面には大慈仏、北東面には普済仏、正東面には阿閦仏という仏名煉瓦が嵌め込まれている。塔身の上部には煉瓦彫りの斗拱があり、更に十三層の密室と塔剎が加えている。この塔の全体のデザインは、端正で美しく、煉瓦彫りは精緻で生き生きとしており、遼代の建築技術水準を反映している。
1985年、文化財部門は、この塔を修復中に、地下室で覆斗式の石函を発見した。この石函は、地面を除いて各面に漢字の銘文が刻まれており、総文字数は5000以上に昇ります。これは、遼代瀋州の仏教の発展を理解し研究するためには貴重な資料となります。石函の銘文から、この塔の名前は「無垢淨光舎利仏塔」と言い、内部には仏舎利が1536粒納められており、納骨日は遼興宗重熙十三年(1044年)4月15日であったことがわかります。塔を建てる際の願いは「太后、皇帝、皇后、太妃万歳、諸王、公主千秋、文武百官が常に恒例の地位にあること、太師(耶律庶几)が福を享受し、風調雨順で国が豊かで民が安らかに暮らせること」であり、これは遼代中期から後期にかけて塔を建てる際に良く使われた祈りの言葉です。塔を建てる理由は「街の住民である李弘遂ら100人余りが、武家庄東埚(とうほ)の地が広く、平らであることを見て、僧侶である沙門雲秀に功徳主となってもらい、更に僧侶法直に塔院主となってもらって、無垢淨光舎利仏塔を建てることを願った」というものでした。それ以外の部分は、建設費に寄付するし、参加した各界人士の名簿であり、総数は1000人余りに及びます。

法庫小塔子塔
法庫小塔子塔:瀋陽康平県郝官屯郷小塔子村にあり、塔の東にほど近く遼代の祺州城遺跡がある。この塔も八角形十三段の実心密檐式煉瓦(磚)塔(みつえんしきせんとう、中心までレンガ積みの軒間のたてこんだ塔)で、通高25.4メートルである。塔身の各面には仏龕があり、内部にレンガ彫刻の坐仏があり、そのほかに脇侍、宝蓋、飛天も揃っている。しかしこの塔の具体的な建築年代は不詳である。
瀋陽地区のこの七基の仏塔の内四基が瀋州、一基は遼州、一基は祺州、一基は双州に建てられた。建築時代から考えると、二基は遼の興宗の時代、一基は遼の道宗の時代、二基は天祚帝の時代、二基の建築時期は不明であるが、遼代後期とと分析される。これは瀋陽地区の仏塔寺院が基本的に遼代中晩期に建設費されたことを言うもので、この時期が遼代の仏教の最盛期であった。前述の七基の中の五基には仏舎利の石函(碑文)が出土し、石函表面には銘文があり、じれが我々が遼代の仏教を理解する第一資料となる。

遼の塔以外で、遼代の境域に現存する仏教遺跡で最も多いのは石経幢(石柱)である。石経幢は唐代に立て始められ、遼代に盛んであった。遼代の石経幢は一般に八角形で、笠蓋、幢身、幢座の三部分の構成で、幢身八面の柱状で、その中の広い四面は四つの窪みがあり、主に梵字の音訳陀羅尼を刻み、前面には啓清品(開経人)現在あり、背景に、立幢時期、立幢の目的などの内容を記す。遼代の経幢で最も彫られたのは『仏頂尊勝陀羅尼経』であるので、尊称幢とも言う。もちろんそのほかの陀羅尼を刻するものもある。この種の陀羅尼は「能(よ)く善住七返家に殃(わざわ)いを迥(とお)ざけ、能く六道先亡の苦しみを救う(現生の禍いと来世の苦しみを救う)」と言われている。もし仏頂尊勝陀羅尼の経幢表面の灰塵が体についたりその影が身に掛かり、あるいはこの種の経塔を目にするたけで、50大悪のような罪も消し去り、天に上ることができる。もし一日一回唱えれば、無上の悟りへの修行を完了させることができる。臨終ともなれば十方の聖人達が、花傘を開いてあなたを西方の極楽浄土へ迎えに来てくれるであろう。この簡単便利な修行方法は、多大な蠱惑的で誘惑力があったので、遼代には各地に大量にこの種の石経幢を作り出し、今日に保存されている数量も少なくない。

瀋陽地域にある遼代の石経幢は、有名な故宮博物院の「大十面」として知られています。この石経幢大廈は高さ2.1メートルで、幢座の八つの面には高浮彫りの力士が刻まれています。天蓋の上部はもう存在していません。現存する幢の下部は、八角形の亭(パピリオン屋根式)に作られており、彫刻された百垄(瓦の垂木)と檐枋があり、角には斗拱があります。幢身の第一面と第ニ面には啓請文が刻まれ、第三面と第六面には音訳された梵語「仏が仏頂尊勝陀羅尼経」の呪文が二行ずつ刻まれています。第六面の第三行から第八面まで、「五十三仏」と薬師、薬上の二つの菩薩の名前が刻まれています。幢のテキストの殆どが摩耗して不明瞭になっているため、立幢年月などの内容は存在しません。ただし、第二面に「唐開元三朝口頂」という文字があるため、長年にわたって唐代に建てられたものと誤解されてきました。実際には、此処で言及されている仏頂尊勝陀羅尼経咒は、唐代の高僧「唐開元三朝灌頂国師」不空(ふくう)の訳本を採用しています。専門家によると、瀋陽石経幢は実際には遼代後期の遺物です。遼代の石経幢は通り道や寺院、墓地などによく置かれていました。瀋陽石経幢は最初故宮博物院東華門外で発見されましたが、どの種類の経幢に属するかはわかりません。その種類が大きく、彫刻が美しいことから分析すると、最初は寺院内または瀋州十字路口に立っていた可能性が高く、墓地に置かれたものではないと思われます。

遼代の墓幢は、瀋陽でも発見された。1980年11月、瀋陽市の柳条湖で、遼代の墓が発見された。煉瓦で作られた墓室は、平面が梯形であり、墓室の中央には一つの石棺が置かれており、石棺の中には遺骨が納められていた。この石棺の蓋には、小さな石経幛が立っており、二つと結合していた。経幢は八面であり、七面には『仏頂尊勝陀羅尼』が刻まれており、一面には「清寧二年丙申歲九月小庚辰朔二十九日乙時葬、前隨駕馬步軍都孔目官張寧男文質葬訖」という文字が刻まれている。これは、張文質が父親の張寧のために建てたものであることを示している。また、塔湾舎利塔の石函銘文にも、、張寧という名前が見られ、役職は「軍衙巡官」とされている。この張寧は、この墓の張寧と同一人物である可能性が高い。このような墓幢は、通常は墓前や封土に立てられるが、石棺の蓋に立てられたものは初めて見るものであり、この瀋州の下級軍官が、熱心な仏教徒であったことを示す。

遼代契丹族墓地
1956年に6月、新民市(県)の巴図営子(遼寧省瀋陽市)で遼代の墓が発見され、墓中から金メッキの面、銅糸網蓋と鶏冠などの遼時代の磁器から、被葬者は契丹の貴族であることが明らかとなった。興味深いのは、墓から出土した、縦20.6センチメートル、横32.2センチメートル、楕円形の金メッキの銅製胸板で、周辺には半球紋を浮き出し(エンボス)加工し、上面には半円形の切り抜きがあり、両側にそれぞれ穴があけられ、前面には『肴炬如来必破地獄真言(肴炬如来が地獄をやぶる真言)』と刻まれている。この板飾りは被葬者が生前に身に着けていたものの可能性がある。死後も墓穴にまで身に着け、仏教の加護で死後の平安と昇天を願うものである。

1965年に法庫県前山村北山(瀋陽市)で遼の北府宰相蕭袍魯墓を発掘し、募集します一組を出土した。墓誌には漢文墓誌銘1,451文字が刻まれ、墓誌蓋正面中心には篆書で「故北府宰相蕭公墓誌銘」と刻し、周囲の斜面には十二支人物像が線刻され、墓誌蓋背面の中心位置には、契丹文字の大字が刻まれ、周囲には漢文と梵字で各種の陀羅尼呪文化を刻む。漢文で刻まれているものは「阿閦如来滅軽重罪障陀羅尼」「百字密語、毗三摩耶、一切如来必破地獄真言」である。これはこの契丹貴族が仏教に熱心であったことを示すだけでなく、また仏法の密教的な陀羅尼(真言)が遼代に盛行していたことの証左でもある。


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