万に満たない女真は何故に大遼と北宋を続けて滅亡したのか?
大遼に騎馬民族であり、女真金国によって滅亡された。北宋は伝統的な中原王朝であり、女真金国によって取って代わられた。大遼、北宋、いずれも金国の好敵手ではなかったのだろうか?
実はそうではなかった。金朝は、人が少なく、金は少なく、地も少なくて、決してどこも優勢な点を備えていなかった。では、何故少を持って多に勝つことができたのだろうか?後金時代と同様、少を以て多に勝つのは満州族祖先が戦争した時の一貫した特色であった。
この面には二つの問題があった。第一、歴史上の女真族は、十分団結していて、常に巨大な凝集力と執行力を有し、且つ、異族と団結することに長じていた。後期、清末の満州族は団結しておらず、団結することに長けてもいず、戦闘力を失われていた。遼時代、遼の太宗耶律德光は北方に遼国を建て、更に女真を脅迫して契丹に臣従させたが、この挙措が客観的に見て女真族の団結と軍事戦闘力増強を促進した。
金朝初年、金軍は相次いで出河店、黄龍府、盧不達岡を攻めて三戦三勝、しかも遼の上京を占領した。その後、北宋は自発的に金国に平和交渉を求め、且つ、『海上の盟約』に署名して、金国を幇助して遼を滅亡させることに同意した。女真族は北宋と団結するのに長けていて、大遼に戦勝した。
第二の問題は更に鍵となるポイントである。女真族は機会を捉えたのである!
大遼も北宋も腐りきっていて、大遼や北宋の民衆さえもが王朝の交替を待望していて、金朝の侵入は、時雨(しぐれ)のように、機会に順応して人の和を得たのである。言い換えれば、大遼、北宋の天運は既に尽きていて、またちょうど決起した女真に出会ったのである。
女真族は、長期にわたって長白山と黒龍江流域で生活していたので、白山黒水の劣悪環境を克服する必要があっただけでなく、遼国の野蛮な搾取を甘受する必要があった。金太祖完顔阿骨打(ワンヤン・アグダ)は、部族を継いだ後、遼国の圧迫に反抗するために、3,700名窮地に陥った族人を率いて長白山から決死の脱出を敢行した。この3,700名が最終的に遼国10万の大軍に勝利し、遼河店の大勝利の奇跡を起こして、この初戦後、「女真族万に満てば無敵」の神話が始まった。
いわゆる天の時、地の利、人の和という言葉があるが、金朝女真人は、天の時、人の和を我が物としていた。
女真は、地理の面だけは劣っていて、中原に主として入り、中原の指導者となったが、中原は故郷ではなく、百年の長きに渡って占拠したものの、地の利がなかったために失ってしまった。
金朝を樹立した完颜部は、女真の中に生まれた部落ではあったが、当時、目立たない小部落に過ぎなかった。しかし、不断の努力により、緊密な団結に頼って、金朝の統治は100年の長きに達し、中国北方の重要な王朝時代となった。
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