山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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「豆」と言っても食べることができない。この特別な「豆」は「盒(蓋物)」から来ている。

「豆」と言うと何を思い浮かべるだろう。雑穀であろうか、種であろうか。古代においては「豆」は初め食べ物の名称ではなく、一種の容器であった。今日はご一緒に素晴らしい銀製豆器を見てみましょう。


この「豆」は食べる豆ではなく

食器であり 祭器である

「豆」は現代人の知識では食べ物であるが、古代の「豆」は脚の付いた皿「高杯、たかつき」の容器であった。古代の文字は直接的な証拠を示している。小篆の「豆」は脚に柄があり皿と蓋がある典型的な象形文字である。


「豆」の出現は新石器時代晩期であり、春秋戦国時代まで流行した。初期の「豆」は漬物や肉の醤(ひしお)などを盛っていた。貴族達の宴会で使用された多数の器の一つであった。


仲姞豆  斉文化博物館収蔵

両周時代には、青銅の豆は次第に、鼎や壷などとセットで使用される重要な祭礼器物となり、「豆無くば(祭)礼を成さず」の言い方が現れた。

「禮(礼)」字は祭礼を示す「礻」に「豐(豊)」字を加えた構成である。「豆」器に盛られた禾苗や美玉の構成である「豐」字は祭器の「豆」で豊作を祈る祭祀の過程で起こった作用を表している。

盒子から豆器への変遷はシルクロードが証言する

古代の豆は一般に陶器や青銅の材質であった。この前漢の斉王の墓から出土した銀製豆器は、当時貴重であった銀を打って成型した造型で、頗る(すこぶる)異国情緒がある。


銀豆の本体は扁平(へんぺい)の銀の盒子であり、蓋と器には花弁の模様が草食されている。花弁の先は対になっており、交錯して排列されているが、このような模様はペルシャの器物の特徴に符合する。


盒子の蓋には三つの銅製の獣のつまみが付いており、線刻は細かく無邪気さに満ちている。銀豆の高台は銅製のラッパ形である。銀豆の内部ははっきり見て取れ、青銅の底部と獣のつまみを嵌めた痕跡が見て取れる。


それはペルシャ人が製造した銀の盒子であったのかもしれない。シルクロードを転々と前漢の斉国王国へ運ばれた。或いは中国の伝統的な使用方法に合わないために、三つの獣のつまみと高台を付け加えて、中国人の使い慣れた豆器に変わったのかもしれない。


ペルシャの器物の装飾様式と中国の青銅鋳造工芸の合体は、東西の工匠が時空を越え完成した最初の技術交流と出会いであった。両種の古代文明はその器の上で完全に融合しており、これは中国の対外貿易と、対外交流の検証者である。


斉の文化のルーツを尋ねるには

この博物館は間違いない

斉国は「春秋五覇の筆頭、戦国七雄の一国」でもあった。臨淄800年余りっずっと斉国の首都であり、当時最も盛んな地域であった。「肩を摩り踵を接す」「汗を揮うこと雨の如し」は当時の臨淄の繁華を形容している。


斉文化博物館

斉国の古都であり、斉文化の発祥地でもある。臨淄市の文化財はおびただしく、「地下博物館」の呼び名がある。斉文化博物館は斉文化の盛衰の変遷の過程を多角的に展示している。教科書でお馴染みの太公望呂尚、斉の桓公、管仲、晏嬰、田忌、孫臏などの歴史的有名人の故実や関連文化財がここでは精細に展観されている。


斉国古城の大城西の堀垣は排水路の遺跡であり、斉国古城の重要な排水施設であった。凡そ春秋時代の建立で、大城西の堀垣と同時の建設で、3,000年前から宋時代まで、2,000年近くずっと使用された。

2,000年余り前の最初の「シルクロードの使者」の一つ一つとして、この銀製の豆器は中国へ到来した。2,000年後にそれは中国文化を背負って何度も海外を訪問し、世界に向けて中国と西洋の文明の興隆と融合の燦爛とした過去を伝えている。




甲骨文の「豆」   は底に高い脚の付いた打つわで、中に品物を盛り付ける。甲骨文の「豆」は、上部は装飾のある容器を象り、下部は器のトップと、器台の底辺であり、ある甲骨文の「豆」    は器蓋が増えているが、音・義には影響せず、正に古代の肉を盛り付ける食器を象っている。周代の金文「豆」では     、 と書き、どれも蓋無しから蓋付に変化していることが見出される。篆書の「豆」   、   は最も金文の「豆」に近い。隷書「豆」    、  と楷書「豆」     はこれを沿革として、篆書の「豆」以上の形であり、具体的な実像の造字である。


「豆」は六書の中の象形文字に属す。『説文解字』に、豆は、古えの肉を食べる器なり。『詩経・大雅』に「卬(われ)豆に盛る、豆に登に。其の香初めて升る」、意味は祭礼品は椀皿に盛られて、白木の椀やかわらけが会場に配られ、良い香りが立ち上がって部屋中に満ち渡ること。

現在我々が「豆」というと、豆科の植物の総称であるが、古代には「豆」とは言わずに、「菽(シェク)」と呼んだ。古代人がよく言う「五穀」とは、稲、黍(きび)、稷(アワ)、麦、菽で、その内「菽」は豆類の総称である。社会の発展に従い、「豆」の噐皿としての用途は次第に下降して、遂に淘汰されて、豆の器皿の本来の意味は次第に人から忘れられ、古代の「豆」の発音は「菽」に近い上に、「豆」の字形が簡単であったので、秦漢の際には、人々は「菽」を「豆」と書くようになった。

    七步詩(曹植)

  豆を煮て以て羹と為し、

  漉菽して以て汁と為す。

  稘は釜の下に在りて燃え、

  豆は釜の中に在りて泣く。

  本は是れを根を同じくしてしょうじたるに、

  相煎ることなんぞ太だしく急なるや。