三角花園
三角花園は元々の名を䲧口花園と言います。船渠(ドック)付近の三本の道路が交差する場所に位置し,敷地面積か約2600平方㍍です。イギリス租界時代の初め頃、威海衛政府はここに草花を植えて、イギリス式庭園を作りました。
その時、近くに旧北洋海軍の船渠があったため、この庭園は䲧口花園と名づけられました。更に敷地全体が三角形だったことから、後に三角花園と呼ばれるようになりました。1916年1月10日、皂埠嘴の砂浜で一頭の巨大な鯨が発見されました。その後、鯨の骨を「人」の字形に組み合わせ、庭園の東門の柱として建てました。また、南門と北門のセメントの角柱鯨骨が装飾として使われていました(南門と北門のセメントの角柱の上には鯨骨が横たわっていました)。
そのため、かつては鯨園とも呼ばれていました。
イギリス租界時代、三角花園はイギリス人の功績を称える場所でもありました。1921年にロックハートが行政長官を引退した際、【商埠会】と威海衛全村の役員らは、ここに「福商利賈(商人に幸福と利益をもたらした)」と「徳被東亜(恩恵は東アジア全域にまで及んだ)」と刻した二基の石碑を立てました。
1931年初、三角花園に威海衛返還記念碑が建った。塔の正面は東に向かい、上部に「収回威海衛記念塔」と八個の魏碑体の金文字を刻み付けてあり、塔の本体は三角錐型を為し、下の三部分にはそれぞれ碑文と中文と英文で威海衛返還条約と三民主義等の文を刻んである。
塔の本体はピカピカに磨いた45個の莱州産乳白色大理石で綴り、塔の基礎は花崗岩を重ねて三層の石段とし、周囲には12本の石柱が有り、鉄の鎖で刻み、塔の高さは12ヤードあり、以て威海衛はイギリスによる強制租借32年の歴史を記録に留める。
三角:一つは中国と英国の友好を志し、両国間の他の全ての不平等条約が、威海衛のように早期に解決されることを願っている。一つは「三民主義」に従い、市政を修明する。一つは日清戦争の諸英雄を記念する。
第二次世界大戦の時、日本軍は塔の下の「三民主義」の一面を削って無くしたが、他の二面には手を付けなかった。
1966年道路を改修した時、魚骨門は取り壊され、記念塔三面の元々ある文字を全部取り除いた。上部の三面はそれぞれ「毛沢東万歳」「毛沢東思想万歳」「中国共産党万歳」の紅色の標語に取り換えられた。花園面積が縮小3/5。
1980年威海衛記念塔は徹底的に改めて元の姿に修復された。「中英威海衛返還条約」と「三民主義」の文字が戻しない。
1989年鯨魚噴水の石像が作り、花園面積がもっと縮小。
1990年代後半、不動産開発と道幅が広がるなど花園の面積が400平方㍍になった。
注記:皂埠嘴西側は現在の海埠村と百尺所村の間の海湾には,、1916年、1946年、1974年,巨鯨が三回淺瀬に乗り上げて動けなくなること。
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